第8話 靴のありか

 保坂さんの後を追いかけていた俺は、その足を止めることとなった。


 一年の教室がある廊下。階段を上ってすぐ右手にある女子トイレと男子トイレ。

 右手が男子トイレで、左手が女子トイレ。

 保坂さんはスタスタと女子トイレに入って行ったが、俺はそこで足を止めた。


 靴がどこに隠されているのか、それを求めてついて来たけど、保坂さんはお手洗いに行きたかっただけなのか。

 それともここに?


 どちらにしても女子トイレに入るわけにはいかない。もし誰かいて、俺が女子トイレに入っているのを見られたら、その時点で俺の人権はなくなる。クラス中に言いふらされ、高校三年間は女子トイレに侵入した変態だと言われ続けることになるだろう。


 女子トイレに入って行ったはずの保坂さんが戻って来た。

 どうやら俺が後をついて行ってないのに気づいて戻って来たみたいだ。


「どうして立ち止まってるの?」

「流石に女子トイレは……」

「男子トイレとあまり変わらない」

「構造の問題ではなくて、モラルの問題です」

「モラル?」


 どうしてそこで不思議そうに首を傾げるんだ。


「保坂さんだって男子トイレに入るのは抵抗ありますよね」

「ないけど。たまに入ることある」

「たまに入ってるんですか!?」

「うん。気づいたら男子トイレだったことがたまにある」

「あ、そういうことですか……いやいや、何納得してるんだ俺は……」

「ん? 翔おかしい」


 おかしいのは明らかに保坂さんだと思う。

 気づいたら男子トイレに入ってるというのはどういう状況なのか。歩きながら寝てるとかだろうか。

 その前に男子トイレだと気づいてほしいものだけど。


「靴はここにあるんですか?」


 ただお手洗いに来たのであれば俺はここで待たせてもらうと思っていたけど、うん、と保坂さんは首を縦に振った。


「でも私だと届かない。翔の力が必要」

「届かないところにあるんですか?」


 女子トイレに入ったことないのでわからないが、届かないところなんてあるのだろうか。少なくとも男子トイレに届かないところはない。


「うん。翔に取って来てほしい」

「そ、そうですね……」


 保坂さんの靴のためとはいえ、女子トイレに入るのにどうしても躊躇ってしまう。

 放課後でも教室にはちらほらと人はいる。近くの四組から女子の笑い声が聞こえるし、もし万が一見られたらと思うと足が進まない。

 でも、ここに保坂さんの靴があるなら……。

 俺じゃないと取れないところにあるみたいだし。


 俺は意を決するしかなかった。

 元はと言えば俺が探そうと言ったわけだし、ここで女子トイレだからやっぱり諦める、なんてことはできない。というかしたくない。

 保坂さんのためだ。

 靴がなくて悲しそうにしている……わけでもない、どっちでも良いみたいな感じだけど、それでも俺は行くぞ。


「行きましょう!」

「そんなに意気込むこと?」

「意気込むことです。俺にとってはですけど」


 そうして俺は女子トイレへと、未知の空間へと足を踏み入れた。





「ここ」


 そう言って保坂さんが立ち止まったところは、鍵のかかった個室だった。

 そこ以外の洋式の個室は開いていた。


「ここって誰か入ってるんじゃ……」


 俺は小声で保坂さんに訊ねる。

 耳元に少し近づいたせいで、保坂さんの白い髪の毛からほんのりと甘いシャンプーの香りがした。


「誰も入ってない。鍵がかかってるだけ。ほら」


 ドアをコンコンと叩く保坂さん。

 俺は焦り過ぎてなぜか自分の口元を押さえてしまった。

 でも、叩かれたドアの向こうからは何も返ってこなかった。それどころか人の気配がしない。


「ね」


 なぜか得意げになる保坂さん。


「なるほど、そういうことですか」


 一旦中に入ってドアを閉め、鍵をかけ、どうにかこうにか鍵を閉めたまま中から脱出したのだろう。

 こうして空っぽの密室が出来上がったというわけだ。


「私、力あんまりない。だから登れない」


 半袖のシャツから出た保坂さんの腕はとても細い。指もそうだったが、簡単に折れてしまいそうな細さ。

 そんな腕でこの直立する個室のドアを登るのは難しい。


「任せてください」


 腕を伸ばして、ドアの上枠に手をかける。

 腕に力を入れて体を持ち上げ、ドカドカとドアを蹴りながらなんとか上枠に右足をかけることができた。

 やってみてわかったが、やっぱり保坂さんには難しい。俺ですらけっこう腕が疲れたのだから、保坂さんがやったら腕がポキッと折れてしまうだろう。


 それから俺は登ってきた方法と逆のやり方でゆっくりと降りた。

 中からスライド式の鍵を外してドアを開ける。


「スパイみたいだった」

「あんまりスマートじゃなかったですけど」


 スパイと言うにはなかなか慌ただしかった。


「それで、靴はどこにあるんですか?」


 清掃の行き届いた綺麗な洋式のトイレがあるだけ。小さなゴミ箱はあるけど、そこに靴は入らない。

 そうなると考えられるのはあそこしか……。


「流されてなかったらここにある」


 保坂さんが手をかけたのは、やはり便器の蓋だった。

 そして、開けると。


「お、流されてなかった」

「う……」


 便器の中に無造作に捨てられた白色のスニーカー。便器の中に溜まった水にどっかりと浸かっていた。


 保坂さんがそれを手に取ろうとしたので、俺はすかさず彼女の手を止めた。

 保坂さんの手を汚すわけにはいかないと思った。


「俺が取りますよ」


 便器の中の水は見た目こそ綺麗だけど、所詮は便器の水だ。目には見えない汚れがたくさんだ。


 便器の中からスニーカーを二足手に取ると、水分を含んでいて少し重たかった。

 後ろで静かに見守ってくれている保坂さんは、びしょびしょで雫がポタポタと垂れているスニーカーを見てもどこかやる気のない目のままだった。

 何とも思ってないのか。

 顔に出ないだけなのか。


「とりあえず洗いましょう」

「うん」


 俺はびしょびしょのスニーカーを手洗い器で洗い流した後、横のアルコール消毒液の入ったボトルでスニーカーにアルコールを満遍なく吹きかけた。


「濡れてますけど、ある程度汚れは落ちたと思います」

「翔」

「はい。どうしました?」


 急に名前を呼ばれたかと思うと、保坂さんは口元を少し上げ、わずかに笑った。


「ありがとう」

「っ、ど、どういたしまして……」


 初めて見た保坂さんの笑顔。笑顔と呼ぶにはぎこちなさすぎるけど、それだけでも十分なほどに可愛くて、俺は思わず胸がドキッとしてしまった。

 それはずるいと思う。

 こんなに笑顔が可愛いなんて。

 本当に天使のようだった。

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