第4話 パンツ一丁になっただけは許されない
保坂さんの鉛筆を持った右手がぴたりと止まった。
どうやら描き終えたらしい。
「もう服着ていいですか?」
「うん」
保坂さんは静かに頷いた。
俺は椅子から降りて、机の上に置いていた制服に着替えた。
四十分ちょっと椅子の上でパンツ一丁だったから、服を着た瞬間、俺はとてつもない安心感に包まれた。服って偉大だ。
俺が制服に着替え終えたタイミングで、保坂さんが椅子から立ち上がり、スケッチブックを持って近寄って来た。
「見る? 将来の翔をイメージしてみた」
「見たいです」
思えば、天才だの奇人だの噂を耳にするばかりで、保坂さんの絵を見るのは初めて。
保坂さんを知る人からあの人には敵わないとよく聞くので、俺の中で保坂さんの絵のハードルがかなり上がっているが大丈夫だろうか。
そんな思いを抱きながら、俺は保坂さんからスケッチブックを受け取る。
そして、見てみると……。
「っ……」
そこには、まるで写真かと勘違いしてしまうほどの画力で描かれた俺がいた。ただ、めちゃくちゃ筋肉ムキムキで、ボディービルダーになった俺だった。
右手にはプロテインの入った容器を持っていて、左手には十キロの鉄アレイを持っている。
どうしてこんなことに……。
絵は物凄く上手い。
鉛筆だけで描いたとは到底思えない。
なのになぜボディービルダーなんだ。
それに、かなり際どい逆三角形のパンツになってる。俺はトランクスなのに。
「どう?」
「上手い、凄すぎる……鉛筆で描いたとは思えないです。まるで写真だ……でもどうしてこんなにムッキムキなんですか」
「将来の翔をイメージしたって言った。将来こんな風にごつくなるでしょ」
「いや、俺は漫画家になりたくて、筋肉を鍛えてる場合じゃ……」
どうして保坂さんは決めつけるように、あたかも見たかのように言えるのだろうか。彼女の想像力の豊かさが故なのか。
「それあげる」
「あ、ありがとうございます」
そもそもこのスケッチブックは俺のなんだけど……保坂さんにとっては関係ないみたいだ。
「あの、効率的な絵の練習方法って何なんですか」
「知りたい?」
「そりゃもちろんです」
何を今さら。
尊厳を犠牲にしてまでパンツ一丁になったのだ。これで帰るわけにはいかない。
「翔はどうして漫画家になりたいの?」
「どうして? それは、昔、イタズラ王になるために旅をする漫画がありまして、それを見て憧れたんですよ。まぁ、漫画っていうか児童書だったので、小説要素半分、漫画要素半分って感じだったんですけど」
懐かしいなぁ。アニメも見てた。
オープニングが好きでよく聴いていた。スマホにも入ってる。
その漫画がきっかけで、俺は漫画って言う概念を知ったんだ。
まさに俺にとっては原点にして頂点。
「タイトルは?」
「か〇けつゾ〇リです。知ってます?」
「聞いたことはあるかも」
「めっちゃ面白いですよ。ミ〇ン王女が好きで、あの無邪気さが当時の俺にはもうドハマりで。ゾ〇リがミ〇ン王女のために寝る間も惜しんで働くんですよ。そこがまた良くて……ま、まぁアニメもやってるんでぜひ見てみてください」
懐かしさについつい熱が入ってしまった。
きっと保坂さんは引いてるだろう……いや、普通だ。いつもと変わらない、どこかにやる気を置いて来たかのような目をしてる。
俺は熱くなってしまった気持ちを静め、それから話題を戻す。
「効率的な練習方法を教えてもらえませんか」
「良いよ」
保坂さんをそう言うと、なぜか俺から距離を取る。
そしてそのまま美術室のドアの前まで歩き、立ち止まる。
何をしているんだろう。効率的な絵の練習方法と関係があるのだろうか。
そう思いながら保坂さんを眺めていると、彼女はおもむろにドアを開けた。
「私を捕まえたら教えてあげる」
「なっ!?」
勢いよくドアを開け、保坂さんは俊敏な動きで美術室を出て行った。
大きな動物に追いかけられて逃げるウサギのような素早さだった。
突然のことすぎて、俺はその場から一歩も動けなかった。
騙された……? いや、保坂さんは捕まえたら教えてあげると言った。なら、俺が今やるべきことは彼女を捕まえることだ。そして、今度こそ教えてもらう。
でなければ、パンツ一丁で椅子の上に立っただけだ。そんなのは許されない。
机の上の道具を学生用鞄に詰め込み、美術室を出て、鍵を閉める。
どこからかフルートやトランペットの音が聞こえる。吹奏楽部はまだ練習しているみたいだ。
教室前の廊下や渡り廊下で楽譜を持って演奏しているので、あちこちで演奏音が聞こえる。
さて、保坂さんはどこに行ったのか。
追跡しようにも痕跡がない。
そこで俺は下駄箱に行ってみることにした。そこで待ち伏せしていたら必ず保坂さんはやって来るはず。帰るには上履きがいるからな。それに、職員室に美術室の鍵を返しに行かないといけないのでちょうどいい。
それから職員室に鍵を返しに行き、その足で下駄箱に向かった。
「保坂さんの下駄箱ってどこだったかな……」
保坂さんは一年三組。
出席番号はわからないが、三組の下駄箱に必ず名前があるはず。
一つ一つ見ていくと、真ん中に保坂木之実という名前を見つけた。
一応、下駄箱を開けてみるか。
女子の下駄箱を開けるのに少し躊躇いはあった。でも、俺は彼女にパンツ一丁な姿を晒している。それにあっちが捕まえたら教えてあげると言って逃げたのだからこれくらいはいいだろう。
俺は周りに人がいないか確認しながら、恐る恐ると下駄箱を開ける。
中には上履きがあった。
「やられた……」
上履きがあるということは、保坂さんは既に帰った後ということ。
保坂さんだから、敢えて上履きを置いて、外履きを持ってこの校内でうろついているということも考えられるが、それだともう見つけられる気がしない。
もし女子トイレなんかに隠れられていたらそれこそ不可能だ。
「こうなったら明日だな」
休憩時間にでも捕まえに行くか。
今日は諦めて、明日に希望を託す形で俺は帰路につくしかなかった。
絶対捕まえてみせるから。そして、効率的な絵の練習方法とやらを聞き出すんだ。
夕日に照らされながら俺は校門を出た。
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