第2話 保坂さんと出会ったのは、放課後の美術室だった
「戸締り頼んだよ。あまり遅くまで残らないようにな」
放課後の美術室。
他の部員たちは既に帰った後。
顧問の高橋先生は俺に美術室の鍵を託すと、長髪の黒髪を靡かせて去って行った。
高橋先生は美術の先生で、美術部の顧問でもある。
俺が下手くそな絵を見せて、こんなレベルですけど美術部に入りたいです! と懇願しに行ったら、開口一番、上手いじゃん! と唯一褒めてくれた人。
俺はこの人に一生付いていきたいとその時強く思った。
あと物凄い美人。
界隈では有名なイラストレーターらしいのだが、活動名までは教えてもらえなかった。
美術室の奥、教卓の後ろの画材やらが保管されている準備室にこもって絵を描くことが多い。
その時の高橋先生は黒髪の長髪をポニーテールに結んでいて、あまりの美しさに俺はスケッチブックに先生をデッサンした。
と言っても、とても人には見せられないものが出来上がったが。かろうじて、目を細めて見れば何とか顔に見えると思う。
我ながら下手だ。
鍵を受け取った俺は机の上にスケッチブックを広げ、鉛筆を手に持ち、横に置いたデッサン人形を観察する。
漫画家になるには、まずは人の構造を理解することだ。
顔の位置、肩から腕までの長さ、胴体の長さ、足の形など。それらが理解できてないままだと、動きのある絵は描けない。
と、頭ではわかっているのだが、いざ鉛筆を動かそうと思うと迷いが生じてしまう。
どこから描いていいのか。白紙のページを見ていると、頭の中で思い描いているデッサン人形が霧散し、なかなか手が動かせなくなる。
いつもそうだ。
俺は助走が遅い。
描くまでに迷って迷って、何とか鉛筆を走らせても迷いながらなので上手くいかない。
これでは部活終わりの放課後に、高橋先生に無理言って残っている意味がない。
そう思い悩んでいた時だった。
突然、保坂さんが話しかけてきたのは。
「そんなんじゃ上手くならないと思う」
酷くないか。
俺は保坂さんとこれが初会話だ。
まずは自己紹介とか、挨拶とかあるもんだが、彼女にはそういうのがないらしい。
初手から辛辣なことを言ってきた。
というかいつの間に後ろにいたのか。
足音が一切しなかった。俺が集中していたのもあるだろうけど。
「酷くないですか。俺としてはこれが最適解なんですけど」
「笑止」
「しょ、しょうし?」
「そう。馬と鹿だなって」
「馬と鹿……」
俺は保坂さんが言っていることを理解するのに数秒かかった。
「馬鹿ってこと!?」
「そう」
「わかりづらいな……」
今どうやってデッサン人形を描こうか悩んでいるのに、これ以上悩ませないでほしいものだ。
何となく保坂さんに近寄らないようにしてる同級生の気持ちがわかった気がする。
でも、何だろうな。
どこか放っておけなさそうな儚さを感じる。
ずっと見ていないと、ふとどこかに消えてしまいそうな気さえする。
保坂さんは近くの椅子を引きずって来て、俺の隣に持ってくる。
椅子に座って、机の上のデッサン人形を手に取る。
「名前は?」
「河岡翔です」
「うん知ってる」
「なんで聞いたの……」
というかなんで俺のことを知っているのか。
あんまり目立つようなタイプじゃないし。
保坂さんとはこれが初対面だし。
ちなみに俺と保坂さんはクラスは違うが同級生だ。
俺が敬語なのは、保坂さんをあまり刺激しないようにと思ったからだ。
「翔は私のこと知ってるでしょ」
「保坂さんですよね」
「下は?」
「下? あぁ、えっと……」
保坂さんの下の名前って……。
皆んな保坂さんって呼ぶので下の名前は知らなかった。
保坂さんは俺が黙ってしまったことに察したみたいで、俺の手から鉛筆を奪い取ると、俺のスケッチブックに、木乃実、と書いた。
意外と丸文字で可愛らしかった。
「このみ。保坂木乃実。きのみってよく間違われることあるから間違わないで」
慣れた手つきでペン回しを披露しながら、顔を近づけてくる保坂さん。
その威圧が凄くて、あと何より顔が近くて、俺は反射的に体を反らして離れた。
名前を読み間違えられることがかなり嫌みたいだ。
「了解です」
「うん。それで、翔はこんな遅くまで残って人形と睨めっこ?」
「そうですね」
俺のスケッチブックには、保坂さんの下の名前が描かれているだけ。
「保坂さんはどうしたんです? 忘れ物とか?」
「忘れ物……う〜ん、忘れ物か……忘れたのかな。忘れたって、もともと持ってないと出来ないことだし。忘れた……あんまりしっくりこないかも」
「ほ、保坂さん?」
何やらぶつぶつと呟いて、心ここに在らずといった保坂さん。
俺が彼女の名前を呼ぶと、保坂さんは我に返ったみたいで、こちらに顔を向けた。
「忘れ物ではない。でも、それに近い何かだと思う」
「それに近い何か、ですか……」
保坂さんが何を言ってるのかよくわからなくて思わず復唱してしまった。
「翔、今暇?」
「急にどうしたんですか……」
何か良からぬ予感がする。
暇かと言われたら、暇ではない。
俺には絵の練習をしなければならない。一日でも早く上達して、漫画家という夢に近づきたい。
今の俺は、絵すら描けない。スタート地点にすら立っていない状態だ。
「絵の練習しないといけないので、申し訳ないんですけど暇ではないですね」
「練習?」
何を言ってるの? と言わんばかりに首を傾げる保坂さん。
「こんな無駄なことしてても上手くなんてならないよ」
「継続は力なりって言うか、無駄ってわけじゃない気がするんですけど……」
「継続は力なり、か……言葉に踊らされすぎてると思う。所詮はただの日本語」
ズバズバと言ってくるので、俺の今までの努力を否定されたみたいで心が痛かった。
別に怒りとかはなく、ただ悲しかった。
心のどこかでデッサン人形をデッサンして意味があるのかと疑心暗鬼になっていたのは事実。
でも、ひたすら描く以外に今の俺には出来ることがない。
経験が圧倒的に足りていないのだから。
俺が何も言えないでいると、保坂さんが言う。
「こんな人形を描くよりもっと効率的な方法があるのに」
「効率的? そんなのあるんですか?」
目から鱗とまではいかなかったが、保坂さんのどこかやる気のない瞳を見ていると不思議と確信的な何かを感じた。
「あるよ。知りたい?」
「知りたいです!」
保坂さんって意外と優しいのかな。
ただ少し変なところが目立つだけで、偏見だったかも。
「効率的な方法って何ですか?」
居ても立っても居られず、急かすように訊いてしまったけど、保坂さんは相変わらずのやる気のない瞳で俺のことをジッと見つめたまま口を開く。
「じゃあ、とりあえず脱いで」
「ん!?」
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