第29話

 星崎さん母の車に乗り込む。ファミリーカー。ミニバンって言うのかな。乗り物に疎いので良くわかんないけれど。私と市川さんは後部座席に座る。エンジンをかけて直ぐにカーラジオが流れる。七時半で番組が変わるらしく、時間のアナウンスと共にMCが挨拶をし始めた。三分ほど乗っていると、目的地のファミレスに到着する。多分公道よりも病院の駐車場内を走っている時間の方が多かった。

 からんからんと入店を知らせる鐘が鳴る。店員さんが厨房の方からたたたーっと出てきて、訝しむような眼差しを向ける。特に私と市川さんの二人へ向けられており、二人で見つめ合って、こてんと首を傾げた。それからすぐにあぁどっちも制服だからなんなんだろうって不思議がられたんだね、と納得する。なるほどなるほど。席へと案内されて、私と市川さんが隣り合わせで向かいに星崎さん母という形で座る。メニュー表を渡され、店員さんは去っていく。 それぞれ食べたいものを選んでドリンクバーも一緒に頼む。この場に留まっているのがなんとなく気まずくて、逃げるように飲み物を取りに行く。「なににします?」「アタシはカ〇ピス」「私は烏龍茶貰って良いかな」「わかりました」という会話を交わして。というわけで、右手には白い液体。左には茶色の液体、黒くてシュワシュワーなあれを挟んで三つのコップを持つ。油断すれば落としてしまうなぁとか思いながら、スタスタ歩いて到着する。

 「どうぞ」

 さーさーさーと分配。こんなんでもありがとうだなんて褒められるのだから、世の中捨てたもんじゃない。

 座って、空気が重たくて、居心地の悪さから逃げるように飲み物を口に含む。

 「と、二人とも今日は来てくれてありがとうね」

 この空気の悪さを吹き飛ばしたのは星崎さん母であった。流石は大人。

 「早速本題……と言いたいところなのだけれど、そうするとね一時まで時間が余りに余ってしまうから」

 「良いんじゃないすか。余ったら余ったで」

 「市川さんは学校サボりたいだけですよね」

 「みこちゃんは変わってないね。ずっとサボりたがりよね」

 「へー、そうなんですね。部活懸命にやってたので意外です」

 サボろうとする星崎さんを連れ戻したりしていたし。あ、あれもしかして道連れにしたかっただけなんじゃ。って、今市川さんの話は正直どうだって良い。知りたいのは星崎さんのことなのだ。

 「あ、あの」

 さっきまでだったらおっかなびっくりして、切り出すことなんてできなかっただろうけれど。今の会話でだいぶ空気が柔らかくなって、踏み出すことができた。

 「星崎さん……だとややこしいですね。一歌さんはどうなんですか。倒れたわけですし、元気ってわけじゃないとは思うんですけど……」

 一度走り出してしまえば、もう走り続けてしまう。

 「心配よね」

 と、微笑み烏龍茶を飲む。ことんとコップを机に置く。

 「端的に言ってしまえば大丈夫よ。健康そのもの。『お前そのまま学校行けるだろ』って言ってしまったくらいだもの」

 特に嘘を吐いている様子はない。本当に元気なのだろう。その言葉を聞けてホッとする。というかだからこんな飄々としているのか。とても娘が救急搬送されたとは思えない態度だからずっと引っかかっていたけれど、今喉元から突っかかっていたものが、ころっと消えてなくなる。

 「ちょー元気って感じっすね」

 「そうね」

 市川さんの言葉にこくっと頷く。それから星崎さん母はじーっとこちらを見つめて、少し申し訳なさそうな表情を作った。

 「えーっと、ごめんね。なにさんだっけ?」

 とこてんと首を傾げる。星崎さんの母親だから、仮に十六歳で結婚、妊娠、出産を経ていたとしても三十後半なはずなのにあざとさが似合う。おばさんなはずなのに。老け顔じゃないってそれだけでアドだ。星崎さんの面影があるから尚更そう思うのかも。というかすんなりと話が進んで、すっかり忘れていたがまだ自己紹介をしていなかった。

 「すみません。自己紹介がまだでしたね。青山若葉って言います」

 「良い名前ね。あらたふと青葉若葉の日の光。色んな日の光を浴びて元気に育って欲しいと付けられたのでしょうね」

 いや、多分違うんじゃないかな。

 「なんでしたっけ。その俳句。思い出せそーなんすけど」「松尾芭蕉のおくのほそみちの中に出てくる一句よ」「はえー、そーなんすね、知らなかったす」「有名どころではないもの。学校でも習わないはずよ」

 という会話が二人の間で繰り広げられる。完全に蚊帳の外だ。ぼんやりとその光景を眺め、なんとなくコップに口付ける。

 「じゃなくて」

 烏龍茶の入ったコップを呷った星崎さん母はこちらに帰ってきた。空っぽになったコップを置く。軽い音が響いた。

 「わかちゃん」

 「え、あーっと、わ、わかちゃん……?」

 急に出てきた謎の人物X。誰だろうと少し考えてみるけれどわからない。右を見ても誰かいるわけじゃないし、左には市川さんと窓があるだけ。窓の外から誰かが覗いていて……みたいな心霊展開もない。後ろ、後ろだな、と振り返ってみるけれどあるのは柵だけ。

 「わかちゃん……?」

 うんうんと星崎さん母は頷く。

 「みこちゃん、わかちゃん」

 市川さんに指先を向けて、つーっとずらしてこっちに向ける。

 薄々勘づいていたが、やっぱり私のことを指しているらしい。わかちゃんなんて言われたことなかったのでむず痒い。大体苗字をもじられることが多い。あー、いや、そもそもあだ名を呼ばれる機会なんて初日の出を見た回数くらいしかない。ここ最近に至っては青山という苗字すら怪しくなっている。主にこの隣の人のせいで。

 「脱線したわね。わかちゃんに確認したいことがあるんだけれど大丈夫かしら」

 「まぁ私に答えられることでしたら」

 と保険をかける。勢い良く頷いて、やっばり答えられませんってなったら目も当てられない。恋人の親に「こいつ使えねぇ」って反応されるのは辛いし。だから保険をかける。戦略的保険である。

 「そんな難しいことじゃないのだけれど、一歌とは中学生の頃からの知り合い?」

 「あー、いや、違いま――」

 「高校入学してからーっすね。ね? 青山さん」

 言葉を被せ、ニコッと微笑む市川さん。その眼差しの奥にはとりあえず頷け、というメッセージが隠されているのうな気がして、こくこくと機械のように頷く。

 「じゃあ一歌の置かれてる状況から説明した方が良いかな」

 「それはもー一歌から聞いてるはずなので大丈夫っすよ」

 「そう」

 いつの間にか運ばれていた料理が鼻腔を擽る。そういえば朝ご飯食べてないからお腹空いたなぁ、と思いつつも星崎さん母が手をつけないので、こちらも手をつけられない。

 「一歌は記憶がなくなっててね、外傷性脳障害。記憶がなくなるのってストレスが原因だったりすることが多いらしいんだけれど、一歌の場合は違うの。テニス中の事故。それで頭に強い衝撃が加わって、脳が傷付いちゃったのよ」

 淡々と話始める。一度目線を落とし、自分が注文した料理だけ手元にぐーっと引っ張る。それから「お腹空いたでしょ、食べな」と言いながら目配せをする。なんか喋ることすら憚られて、私はぺこりと会釈だけをした。料理をこっちに寄せて、音を立てずに手を合わせ、心の中でいただきますと唱える。口に料理を運ぶけれど、あまり味がしなかった。

 「記憶が失われたわけじゃなくて、新しい人格が生まれていて被さっているだけ。なにかきっかけがあれば記憶は戻るかもしれないって言われてたのよ」

 「上書きされているわけじゃないってことですか」

 「そうね、デリートされているわけじゃないわ」

 こっちの方が良いでしょ、みたいな感じでより良い表現出してくるのはやめてほしい。

 「それでどこがトリガーになったのはわからないけれど、記憶取り戻したのよね」

 「あぁやっぱりそーだったんすね」

 「みこちゃん思ったより冷静ね。もっと喜ぶのかと思っていたわ」

 「まー、ある程度覚悟はしていましたし。いつかはこうやって記憶は戻るんだろーなって常々考えてもいましたから。それがたまたま今回だっただけ」

 「いつか来ると思っていたってことね」

 「そういうことっすね」

 二人の会話。耳にしているが、なんかふわふわとしていて入ってきてもするすると抜けてしまう。

 つまりれはどういうことなのか。

 星崎さんの記憶が戻った。うん、それはわかった。理解もできる。元々あった記憶が戻ってきたのだろう。それはめでたいことだ。とてもおめでたいことだ。喜ばしいことこの上ない。

 でもそれはそれ、これはこれである。

 私の知っている星崎さんはどうなってしまうの、とわかんないフリをしたくなる。現実逃避。理解したくなくてふわふわと浮ついた気持ちになる。見て見ぬふり、聞かぬふりをしてしまう。前の記憶……いいや、この場合だと人格の方が正しいのかもしれない。医者じゃないので詳しいことはわからないが。そう仮定しよう。前の人格を失い、新しい人格を手に入れた。で今回前の人格が戻ってきた。となればだ、前回の症例を準えるのであれば、私の知っている星崎さんと入れ替わりで昔の星崎さんが復活しているのだろう。

 「多分、わかちゃんの知っている一歌とは違う一歌になっていると思うわ。性格も考え方も違う一歌に」

 ふらふら〜とどさくさに紛れ逃げようとしたら首根っこ掴まれて、ぐぐぐと引っ張られる。そうして現実を突き付けられた。星崎さん母に言われてしまえば、もう逃げ道はない。四方八方塞がれたも同然。

 「そーすね」

 市川さんはあははー、となんとも言えないという表情で笑う。乾いた笑いというものがどういうものかを教えてくれる。

 「学校サボらせておいてなんだけれど、会うならそれ相応の覚悟をしてもらった方が良いのかもしれないわ」

 星崎さん母は今までになく真面目な表情を浮かべる。表情だけじゃない。眼差しも雰囲気も。だから気圧されてしまう。

 「そんなに違うんですか」

 「違うというかなんというか……」

 「極端に違うかと言われれば、そういうわけでもないわねぇ」

 空っぽになったコップを持ってくるくると回す。コーヒーカップでやれば様になるのに、ドリンクバー用の長細いコップでやるもんだからなんかちゃっちく見える。

「こう口であれこれ説明できるものではないわね。こればかりは感覚だもの。強いて言えば、わかちゃんが見てきたであろう一歌は一歌を演じようとしていた一歌。本物の一歌は人間らしく狂った一歌とでも言えば良いのかしらね」

 そう言いながら、市川さんを見つめる。実の娘を狂ったとか表現して良いのか。というか実母に狂ったと言われてしまうくらいヤバいのか。

 「狂ったというか、あれですよね」

 同意を求められたであろう市川さんは若干困惑した表情を浮かべ、頬を指ですりすりと撫でる。

 「毒吐時があるって感じすね」

 柔らかく言ったつもりらしいけれど、全然柔らかくなっていない。

 「そうね」

 星崎さん母は否定する素振りを見せない。むしろ肯定だ。

 「会う覚悟ができていないのならば、会わないという選択肢もあると思うわ。本物じゃない一歌が人格を持っていた頃の記憶は残っていなさそうだし。正直わかちゃんのことを覚えているとは思えないのよ。だから無理して会う必要はないわ。きっとわかちゃんを深く傷付けることになるかもしれないから」

 そんな酷いの。私の知らない星崎さんは。嘆きたくなる。動揺していると頭の奥底から『これから一歌になにがあって、なにが起こってそれでも仲良くできる自信がないなら、今すぐ友達やめておいた方が良いよ』という市川さんの声が響く。あぁこういうことだったんだ。ちょっと前にこの言葉に導かれるようなことがあったけれど、あれは偶然噛み合っただけで、本当はこのことを言っていたのか。なら、選択肢は一つしかない。

 「会います」

 「大丈夫?」

 「大丈夫かはわかりませんけど……でも大丈夫です」

 不安がないと言えば嘘になる。忘れられている怖さ、星崎さんになにを言われるんだろうという恐怖。色んな畏怖が襲う。

 でも大丈夫。そんな自信があった。根拠なんてどこにもないぼんやりとした自信だけれど。

 というか、早かれ遅かれ星崎さんとは対面することになる。今逃げてあとで出会うか、今出会うかそれだけの違い。それならばさっさと会って、顔を合わせてしまった方が良い、という非常に合理的な判断。

 夏休みの宿題は最後にやる派と言いながら十日前には終わらせてしまう私らしい選択と言えるだろう。

 「会います」

 強がりでもなんでもない。

 力強く高らかに宣言して、コップに入った炭酸の黒い飲み物を呷る。もう炭酸は抜けきっていて、ただただ甘ったるいだけの飲み物になっていた。

 もうこういう時に炭酸は持ってこない、密かに誓った。なお数日後にはすっかり忘れている模様。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る