第26話

 苦しみに悶え、やっとの思いで到達した放課後。

 市川さんは私の机に座って、足をぶらんぶらんさせている。

 特になにか言うわけでもない。ただ自由に足を動かすだけ。振り子のように行ったり来たり、行ったり来たりを繰り返して。教室に人が居なくなったところで彼女はほっと机から飛び降りた。少し、いいやかなり面倒臭そうな表情を浮かべて、教卓と私の机の間を右往左往する。その間、口元に手を当てて「うーん」と唸る特典付き。いらない。

 「説明してくれるんですよね」

 そのつもりだから残ってくれている。それくらいは状況からしてわかってはいるんだけれど、中々説明し出さない市川さんに痺れ切らしてしまった。焦らしに焦らされたわけだから詮無きことである、と少しだけ言い訳させて欲しい。こればかりはしょうがないと。

 「もちろんそのつもりだけど」

 落ち着きなく足を動かす彼女はぴたりと足を止めてそう唇を動かす。せっかく足を止めたのにそれだけ言うとまた忙しなく動かす。

 「というか、結局一歌は教えなかったんだ」

 「教えてはくれたんですけど、イマイチ意味がわからなくて」

 「う、うん? なにそれどういうこと」

 とんっと机に手を置いて、ぐぐぐと顔を近付ける。なにか言いたげだったが、それはぐっと我慢して、じっと見つめるだけに留めた。私の答えを待っている、ということだろう。

 「星崎さんには『私はね、私じゃないの』って言われました」

 「意味わかんないね、それは。ほとんど歌詞じゃんね」

 シンプルでもっともらしい答え。全く同じ感情を抱いたと言って良い。歌詞とかは良くわからないけれど。前者は同感である。

 「それだけ?」

 困ったように彼女は問う。

 「えーっと、あとは『だからいつか未来で、私が私じゃなくなって本当の私になった時に青山を悲しませちゃうから。私の想いだけで付き合い始めたら苦しめるから。そういう未来が簡単に見えちゃって、そうなるくらいなら今振った方が良いのかなって』って言われました。こっちも私には良くわからなくて。多分私の日本語力があまりに低いから理解できなかっただけだと思って理解するのは諦めちゃったんですけどね」

 あはははー、と笑う。

 「大丈夫、アタシはなにがどうなってるか知ってるから辛うじて理解できるけど、アタシが青山さんと同じ立場でそれ言われたら理解できない自信しかないから。だって意味不明だもん。これだけだと」

 うにゃーーーーと頭を抱えると、彼女はつかつか黒板まで歩き出して、白いチョークを握って黒板に大きく「?」を書く。なにしてんだ突然この人。

 「意味わかんない。マージでめんどくさすぎ。なにそれ。ほんとなにそれ。どうしてそんなにめんどくさくなれんの。意味わからーーーーん!」

 「は、はぁ」

 反応に困ってそういう反応しかできない。

 ぎっっとなぜかこっちも睨まれる。

 「そっちもそっち。青山さんもじゅーーーぶんにめんどーだよ。なに理解できないから諦めたって。しっかりと向き合うなら向き合ってよ。そんなの向き合うことの放棄と同じだよ。どーせさー、あれでしょ。これ以上は迷惑だからわかったことにしておこーとかそんなこと考えてた、ってか気遣ったフリしてたんでしょ」

 「えーっと、まぁ、はい……」

 否定するつもりだったが、結論を見ればそういうことになると気付いて渋々頷く。

 「はぁ……やっぱそうじゃん」

 深々としたため息。呆れが混じっているのは火を見るよりも明らかだ。

 「自己満すぎ! なにそれ。いらないいらないいらないよー! わかんないなら本人にしっかり聞かなきゃ。問いたださなきゃ。それじゃあ何のための時間だったのって感じだし。それにさ、どーせ、いや、まぁこれに関しては本人に聞かないと断言はできないけど。でも九十パーセント、どうしたのって言って欲しくて、その変な言い回ししてるよ、一歌。だからめんどーなんだよ。どっちも。めんどーにめんどーが重なって、結果としてハイパーウルトラめちゃめちゃ面倒臭いことになってんの」

 捲し立てるようにがーっと喋る。あまりの勢いにもうすみません、と脳死で平謝りするしかない。普段ふわふわしている人がこれだけ饒舌に喋るもんだから怖さ二倍増し。

 「まー、お似合いカップルですねー。アタシにめちゃくちゃ負担かけてとーっても楽しいですよねー」

 長い髪の毛をぶんぶんと揺らす。

 「ごめんなさい」

 「謝罪はいらない」

 謝ったらぴしっと指摘される。

 「じゃあどうすれば……」

 今の私には謝ることしかできない。市川さんには迷惑かけているし、過去のことはどうしようもない。今なにか変えられるわけでもないし。そうあれこれ考えるとやっぱり謝罪することしかできない。

 「謝るくらいなら今からアタシが言うことをよーく考えて、真剣に向き合って」

 「は、はい」

 こくりと頷く。なにを言われるのかわからないけれど。それなりの覚悟は持っていた方が良さそう。市川さんの真剣な眼差しが、そう訴えている。

 「説明するとなるとやっぱり難しいから、すごく端的にわかりやすい言い方することにするね」

 「わかりました」

 「青山さんの知ってる一歌は、本当の一歌じゃないの。言わば第二の一歌、と言ったところかなぁ」

 想定の遥か上を行く内容に私はぽかーんと口を開く。

 えーっと、第二の一歌……。

 頭に一つ、二つ、三つ、とクエスチョンマークが浮かび上がってくる。

 「まぁわからんよなー。学術的な話をすると違うって言われんだけど、アタシたち一般人に説明すんなら、記憶喪失だと思ってくれれば良いと思う」

 「記憶喪失……」

 「そ、記憶喪失」

 「記憶喪失ってあの? 記憶が無くなってしまうってやつですか」

 「まーそーなんだけどね。無くなったってよりも奥底に眠って出てこないって方が近いのかなーとは思う。アタシは医者じゃないから詳しいことはわかんないけど、一歌ママが言うにはそんな感じだった」

 らしい。記憶喪失。ドラマやら映画では良くそういう設定はあったけれど、実際に身近でそういう人って居なかったから、非現実というか、なるほど……と、受け入れるのはちょっと難しい。多分簡単に受け入れて良いものでもない気がするし。

 「今回倒れたのってなにか関係あるんですか」

 脳みそをこねくり回して、なんとか出した問い。

 「アタシは病院のせんせーじゃないからさっすがにわかんない」

 「ですよね」

 「でも」

 と、市川さんは続ける。

 「いつ記憶が戻ってきてもおかしくないとは言ってたから。関係あるのかもしれないし、ないのかもしれない」

 「いつ戻ってもおかしくなかったんです」

 「うーん、地震予測と同じ感じ。明日起こるかもしれないし、何十年後って先かもしれない。そういう可能性は常にあるよ、ってこと」

 「なるほど」

 市川さんにしては非常にわかりやすい例えだった。

 すんなりと理解できた。

 「戻ったら星崎さんはどうなるんですか」

 「一歌は一歌になるんだよ、って。青山さんにとっては今の一歌が一歌だもんね。んー、と。どうなんだろ」

 悩むふりこそするが目線は一切合わせてくれない。合わせようと目線を追いかければわざと逸らす。言葉にはしなかったけれど、そんな反応されてしまえば大体は予想できてしまう。多分、記憶はなくなってしまうのだろう。市川さんはそこについては触れないという固い意思があって、ちょっと私が触ってみてもその施錠は解かれない。だから根拠を求めるのはもう諦める。無理に聞き出そうとしても無駄なやり取りになるのが目に見えるから。

 「じゃあわかりました」

 「うん、突然どうした。なにがわかった。青山さん一旦落ち着いた方が良いと思う。なんか嫌な予感しかしないから」

 市川さんは若干慌てる様子を見せながら、私の肩をポンっと叩く。とやかく言われているが気にしない。気にならない、が正解か。

 「落ち着いてますよ」

 「落ち着いてる人は落ち着いてるだなんて言わないと思う」

 「そうですかね」

 「そうだよ。とりあえず深呼吸して。吸ってー、吐いてー、吸ってー、吐いてー」

 言われた通りに息を吸ったり、吐いたりする。繰り返すと頭に酸素が行き届いて、やりたいことが明確になった。

 「落ち着いたので病院に行ってきます」

 「落ち着いてんなら病院行かないから」

 「なんでです?」

 「今行っても迷惑なだけだよ。だって一歌はまだ目覚ましてないし」

 「それはたしかに……その通りですね」

 指摘されて気付く。私は落ち着いてなかったんだって。動揺していたんだって。

 まぁ好きな人もとい恋人が倒れました。実は記憶喪失で今の好きな人はもう一人の人格なんですって言われれば動揺しないわけがないよなぁ、と本当に冷静さを取り戻した私はぼーっと俯瞰する。

 「意識戻ったって連絡来たら連絡してあげっから。連絡先交換しておこっか」

 「良いんですか」

 「良いもなにも。そうしないと不便だし」

 連絡先を交換して、帰宅した。ずーっとスマホを握って、まだかまだかと連絡を待っていたが、結局日付が変わるまで、市川さんから連絡が来ることはなかった。

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