第18話

 翌日。恋を自覚した私はやけに調子が良かった。気持ち良くなって、悩みはすっからかーんってどこかへ飛んでいってぐっすり眠れたからだろうか。

 洗面所にやってきた私は鏡を見つめる。反射する私の顔はつやつやだった。昨日くっきりと現れていたクマは綺麗さっぱりなくなっていて、人間の身体の神秘について少し考えたりする。嘘です。そこまでは考えてない。

 学校へ向かう足取りは軽い。自転車はびゅんびゅん飛ばせるし、満員電車も全く苦にならない。いつもなら座りてぇ座りてぇって虎視眈々と席が空くのを狙うのだが、今日はつり革に掴まって立っていようと思えた。電車を降りてからも億劫な気持ちは一切なく早く学校に行きたいという気持ちが心を支配している。

 学校へ到着する。星崎さんと市川さん、その他諸々はいつものように星崎さんの席で話している。星崎さんを見た瞬間にドキッと心臓が破裂しそうになった。

 恋している時に好きな人の顔を見ると、こんなにも嬉しさと苦しさが混在するのだなぁ、と。新鮮だ。今までに味わったことのない感覚。甘味を初めて手にした人類みたいだ。

 自分の席に座ってから執拗にチラチラと星崎さんを視界に入れる。視界に入ると、脳みそは喜ぶ。気持ち良くなってさらに視界に入れようとする。それを繰り返した結果こうやって何度も何度もチラチラするちょっとヤバそうな人間が誕生する。

 チャイムが鳴って、担任を待つ小時間。

 「クマ綺麗さっぱりだね。コンシーラー?」

 市川さんはついにちょんちょんと背中を突っつくことすらしなくなった。なにもせずに突然語りかけてくる。まぁ私は私で反応してしまうのだけれど。

 「使ってないですよ」

 「ほんとほんとー? メイクしてること誤魔化さなくて良いんだよ。アタシもしてっからねー。ガッツリメイク」

 そういえばメイク禁止なんて校則あったね。もう形骸化しているけれど。その髪色さえ指摘されないんだから。

 「いや、私もメイクはしてますけど。コンシーラーは使ってないです。治癒です。自然の力ですよ」

 「……」

 嘘吐くなよみたいな視線を最初は送ってくる。真顔の私を見て、つんつんと恐る恐るという感じで私の涙袋を触る。

 「ほんとだ」

 触った指に目線を落としてぽつりと呟く。

 「赤ちゃんみたい」

 「褒めてます? それ」

 「褒めてる褒めてる。褒めてるよ、ちょーぜつ。めっちゃ!」

 ぐっちゃぐちゃな日本語で弁明する。慌て過ぎておかしくなっているけれど、まぁ良いか。担任来たし。


 放課後になって教室で星崎さんをじーっと待つ。昨日逃げてしまった罪悪感があるから、なおのことじーっと待つ。因果関係があるのかわからいけれど。なんとなくじーっと待っていようと思ったからじーっと待つ。ただそんだけ。

 教室で二人っきりになると、つかつかと星崎さんはやってくる。

 市川さんの机に座って、足を組み、腕も組む。むふんと胸を張り、顎を少し引いて、私を見下すようにじろーっと見つめる。睨むという方が近いかもしれない。鋭い視線に私は身を退き、かたんと机に背中がぶつかる。痛みが走って、いってぇと背中を擦りながら、ちろりと星崎さんを見上げた。

 「今日部活はないんですか」

 なにを口にすれば良いのか、わからない空気に飲み込まれ、そのまま揉まれてしまう。このままだと溺死してしまいそうだったので、ぷはぁと水面から無理矢理顔を出して、息を吸うように会話をする。

 「火曜日だからオフだよ」

 らしい。

 そっか。そういえば火曜日と木曜日、あとは土日がノー部活デーと言っていたね。自分の事じゃないからすっかり頭から抜けていた。

 「あれ、でも昨日も休んでたんじゃ……」

 「あー……筋肉痛が酷いから休み」

 あれだけ熱視線を浴びせていたのに、ふいっと視線を外す。

 「そうなんですか」

 「そうなんですわ」

 お嬢様を意識したのか、はたまた関西弁でも意識したのか。どっちつかずな語尾に私は反応に困る。困ってにへらと苦笑とも言えない微妙な笑みを浮かべた。

 「今日も休み。明日も休み。ずっと休み」

 「サボりじゃなくてですか?」

 「休み。合法的な休み。ほら、市川も来ないでしょ」

 ぽんぽんと机を叩く。いや、今日は元々オフだったんでしょ。まぁなんかもう面倒だしなんでも良いか。

 「それよりも……」

 叩いた手をそのまま机に置いて、すーすーと撫でるように机を触る。ぴっという音とともに手は止まり、ふぅと小さい息を吐いて、視線を私へと戻す。

 「私なにかしちゃったかな」

 その止めた手を頬まで持ってきてさわさわと触り、しゅんと肩を竦める。

 「嫌いになった?」

 私が唇を動かさなかったからか、それともそのつもりだったのか、彼女は不安そうな表情を浮かべ、ぽつりと投げかけた。

 「嫌いにはなってないです」

 捻り出すように否定する。

 頭の中ではその後に「むしろ好きです」って言い始めて、そのまま流れるように「好きです付き合ってください」って告白する脳内シミュレーションがあったんだけれど、現実になると躊躇してしまう。弱いし勇気がない。結局私は所詮私なんだねってもはや言い訳なのかどうなのかすら怪しいようなことを言い並べて無理矢理正当化しようとする。そんな免罪符でさえぺらっぺらだから笑ってしまう。

 「そっか、良かった。青山に嫌われちゃったのかと思ったよ」

 安堵するように胸に手を当てる。ぽわんぽわわわわんと胸は揺れる。私への当てつけだろうか。所詮贅肉でしかないのに。と、少しだけ胸に対して嫉妬を挟む。

 「嫌うわけないですよ」

 また捻り出す。水道でばしゃばしゃと濡らして水分をたくさん含んだ雑巾をぎゅっぎゅっって絞るように。

 「じゃあなんで……って聞きたいところだけどね。色々考えがあって、結果そういう行動になったんだろうから深く追及するつもりはないよ。したところで互いに幸せにならなかったりすることもあるし。人は皆一つや二つ、闇なり秘密なりを抱えて生きていくものだもんね」

 うんうんと頷く。

 そこまでは考えてないんだけれど、まぁ私としては非常に都合の良い展開。これがご都合主義ってやつね。とにかくそういうわけだから、放置しておくことにした。今になってみるとわかるけれど逃げた挙句、返信もろくにしなかった理由は失笑するほどにしょうもないことだから。

 「……」

 「……」

 私は黙る。星崎さんも黙る。どっちも黙れば流れてくるのは沈黙だけ。あとはカラスの鳴き声と、野球部やらサッカー部やらの掛け声。時折吹奏楽部や軽音楽部の支離滅裂な音たちも聞こえたりする。これらの音もまとまれば綺麗に聞こえるんだろうけれどね。今はとても綺麗だとは思えない。

 こほん、とわざとらしく咳払いを挟んでみる。ちょっとでもこの重たくて気まずさが染み込む空気を払拭できれば良いなという打算マシマシな咳払いだ。ふっ、と空気が軽くなることはないにしろ、まぁ喋ってみても良いかなという気持ちにはなる。

 「私たち恋人ごっこしてるじゃないですか」

 様子を伺うように問いを投げた。

 「そうだね」

 若干怪訝そうに私のことを見つめるけれど、ぐりぐりと深堀してくるようなことはなく、端的な言葉と同意を示す頷きを私に見せてくれた。

 勇気はやっぱりないけれど、やろうという覚悟は湧いてくる。

 「でも私たちって女の子同士ですよね」

 「だね」

 「星崎さんはどう思ってるんですか」

 覚悟があってもまだ踏み出す勇気がないから、覚悟だけが宙ぶらりんになる。勝手に飛び出してしまいそうな覚悟を躊躇と理性が必死に止めようと捕まえている。それを理解した上での質問だ。

 「うーん」

 悩む仕草を見せる。しばらく黙ってから、唇を動かす。

 「私はそういう形があって良いと思うよ」

 「それってつまり気にならないってこと?」

 「そういうこと」

 頷く。

 「そうですか」

 と受け入れる。

 まぁ良いのかなって。わかんないけれど。私の心の中で生活している覚悟と躊躇と理性が結託して、勇気を殴り始める。勇気は怯えて、渋々前を向いて歩き始めた。もうこの辺かななんて私は前髪をわざとらしく触った。微かに不安だった要素も吹き飛んでしまった今、うじうじと悩む理由がない。だから当然の流れと言えばそうだろう。

 「私……星崎さんのことが」

 と、そこまで口にしてまた言葉が詰まる。まだ引き返せるんじゃないか、と及び腰になるけれど、もう今更引き返せないよと現実を突きつけられて諦める。

 「好きです。恋愛ごっことかそういうの関係なく。本心で、本当に、ただ人として好きなんです」

 「えーっと」

 困惑するように目尻を下げて、頬を指で撫でる。

 想像していた反応じゃなくて、私もあれあれあれと焦ってしまう。

 「はい」

 自分自身を落ち着かせるために、そう声を出す。

 催促されているとでも思ったのか、星崎さんは困った表情をそのままに少しだけ笑う。苦笑だ。

 それから視線を泳がせて、あーとか、うーとか言い始める。

 告白された、という吃驚による動揺じゃないことに気付く。いや、最初はそうだったのかもしれないけれど、今は違う。なにか悩み、淀む。そんな感じ。

 「青山」

 「はい」

 「本気?」

 「私はいつだって本気です」

 襲ってきた不安を投げ捨てるようにおちゃらける。それでもやっぱり不安は覆い被さるようにやってくるから質が悪い。

 「そっか」

 口元に手を当てて、目を細める。

 「ちょっと、ちょっと待ってね」

 ぱしんと手を合わせて、そう断りを入れる、そうして星崎さんはつかつかと教室の窓まで一直線に歩く。ガラッと窓を開けて、大きく息を吸う。そして曇天を見上げ、神に祈りを捧げるかのように見つめる。

 四月の風。桜揺れる季節。なのにも関わらず窓から入ってくる風は若干の冷たさを持っていた。私はぶるりと身体を震わせる。それからすぐに星崎さんはがんっと窓を閉めて、つかつかとこちらへと戻ってきた。

 自分の席から荷物を持って。

 それで市川さんの席に座る訳でも無く、私の前にやってくるでもなく、一歩引いたところで困惑気味の表情を浮かべながら、口を一直線に結ぶ。

 覚悟を決めたのか、くいっと左手首を右指でつねって、眉間に皺を寄せながら結んでいた唇を解き放つ。

 「ごめん。無理」

 私の中にあった、覚悟、躊躇、理性、そして勇気。四枚の壁がずががががと射抜かれる。そんなちゃちなものではない。崩壊、だ。

 彼女はそう口にすると、若干申し訳なさそうな表情を浮かべ、私の元から離れていく。手を伸ばしても届かない。掠ることさえない。消え行く背中を見つめることしかできなくて私はただ茫然と立ち尽くす。

 正直振られるとは思ってなかった。それなりに愛されている自信もあったし、同性同士付き合うことに対する嫌悪感がないことも確認した。不安要素はしっかりと取り除いていた。

 悲しい。ショック。そういう気持ちはある。

 でも泣けない。驚きの感情が他のなんの感情よりも大きいから。

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