第16話

 次の日。教室にやっとの思いで辿り着くと、星崎さんの席を囲むように市川さんと名前も知らない有象無象が集まっていた。一瞬そっちを見ただけなのに、市川さんと目が合ってしまう。彼女は少し不思議そうに私のことを見つめ、数秒動きを止めてから、ひらひらと手を振ってくれる。その手の振りに応えるよう、私も手を振る。もちろん星崎さんは私なんて居ないものとして生きている。無視。通常運転。まぁ今の私にとってはこの謎ムーブはむしろありがたい。あっちから話しかけられたら私の決心は簡単に揺らいでしまいそうだから。自慢じゃないけれど、私は芯が弱い人間だ。ハンバーグを食べたいなと街に繰り出してもファーストフードの香りに釣られてハンバーグを断念してしまうような弱さを持っている。

 自慢にならないって? はぁ、そうですか。

 席に座って数分後。チャイムが鳴り響く。教室の内外はバタバタと喧噪な空気に包まれて、チャイムが鳴り終わってから数秒もすれば声の騒がしさは多少残るけれど、足音やら椅子を引き摺る音なんかは聞こえなくなる。ある意味静かになったと言えるだろう。

 「ねぇねぇ」

 ちょんちょんと背中を突っつかれる。声やら場所やらを総合的に鑑みれば、顔を見なくとも誰が声をかけてきたかはわかる。

 「市川さんどうしたんですか」

 私は声をかけてきたであろう人物の名前を口にしながら、振り返る。後ろの席に座っていたのは市川さん。外してなくて良かったぁとバレないように安堵した。外していたらダサすぎるからね。

 「ここどうしたの?」

 ぽんぽんと自らの涙袋を指で叩く。

 「目ですか?」

 「目ってかここだよ、ここー!」

 むーん、と意味のわからない声を発しながら、引き続きぽんぽんと人差し指で涙袋を優しく叩いている。

 「ここですか」

 真似するように涙袋を触ってみる。すると、星崎さんはそうそうと言いたげな様子で激しくこくこくと頷く。

 「なんかおかしいですか」

 触ってもなにか違和感があるようには思わない。もちろん市川さんの涙袋がおかしいってこともない。言葉のニュアンス的にそもそも私のことを言っているだろうけれど。一応ね。

 「クマ凄いよ」

 「クマ」

 「がおーっのクマじゃないからね」

 「流石にそれくらいは……ってか、がおーってそれライオンじゃないですかね」

 「そうかな、そうかも……」

 真剣に悩み始めた。

 「じゃなくて!」

 ぶんぶんぶんぶんと首を横に振る。

 「あ、はい」

 「どうしたの、そのクマ」

 「そんなにすごいですか?」

 今日そういえばまともに鏡見てないなぁ。今日はメイクする気力がなかったからしてないし、顔は洗ったけれど、鏡見ながらじゃなかったから。

 「すごいよ。なんかね、ぐへーっどべーって感じ」

 スゴイのは市川さんだと思う。今の擬音全く伝わってこなかったもん。意味のわからないオノマトペを作る才能があるね、市川さんは。

 「失礼なこと思ったでしょ」

 「そんなことはないと思いますよ」

 即座に否定する。こういうのはレスポンスが大切だ。

 「それよりもクマですよね」

 そしてこうやって脱線した話を元の線路に戻す。我ながら策士だ、と自画自賛したくなるね。うん。

 「自覚はなかったんですよね」

 と、口にすると、市川さんはガサゴソとリュックを漁り始める。一秒もしないでピンク色のポーチを取り出し、その中から小さな折り畳み式の鏡を取り出した。それを間髪入れずにほいっと手渡す。

 「見てみな。すんごいから」

 そう言われたら、ちょっと気になる。

 鏡に反射する自分の顔。確かに疲労感ありそうなクマがくっきりと見えた。

 汚れかもという一筋の希望を抱えながら、指でつーっとそれを撫でるけれど取れることはない。クマで確定だ。まぁどう見てもクマだったんだけれど。

 「凄いですね」

 「他人事!」

 「まぁ慌ててもどうしようもないですし」

 強がりではない。本音だ。実際どうしようもない。まぁしっかりと睡眠をとったら治るだろうし。そこまで心配することでもないのだ。

 「昨日寝れなかったからだと思います。これ」

 「寝れなかったんだ」

 「はい」

 「寝なきゃダメだぞ。夜更かしはお肌の天敵さんだかんね。夜がえいっえいって肌を攻撃してニキビを作るんだよ」

 お説教を受けてしまった。それはまぁその通りなので特に反論もせずうんうんと頷いて聞いておく。決して面倒だな、コイツお母さんかよ、だなんて思ってない。本当だよ。

 「じゃなくて、なんで夜更かし?」

 「あの」

 「うん?」

 「いや、その、えーっと……」

 星崎さんについてずっと考えてました、とは言えない。別にやましいことがあるわけじゃないけれど、なんか気恥ずかしいし。

 もじもじしながら、どうやってこの時間を乗り切ろうかと考えていると、ガラッと前の扉が開く。担任が入ってきて朝のSHRが始まった。時間が解決してくれたのだった。

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