第4話 【完】

 雪は机の上のものを纏めていた。教職を辞める。

 おかしなことが起きたのだ。彼女は生徒が訴えるように、この生徒を殴ったのだと自ら名乗り出た。体罰である。暴力沙汰で、不祥事の、犯罪だ。しかし今度はその生徒が事実を否認し、彼女の弁護をはじめた。生徒は脅されているに違いなかった。

 鏑木かぶらぎは見誤っている。牧村がその頭蓋をアスファルトに打ち付けたときから、もしくはその心臓が鼓動を止めたときから、雪の肚は決まっていた。自分が生徒を死なせたも同然である。殺したのだ。棺に納められた牧村の白い顔を見たとき、彼女は思った。そして教職に対する熱意も消え失せた。これからは、装っていくことになるだろう。

 この体罰問題はいい機会だったのだ。

 燃殻のように、雪は鏑木家へ頭を下げにいった。高圧的な父親と、妙に萎縮した母親が印象的だった。歳の離れた夫婦だ。稼ぎのいい男に、見た目だけの女。ありがちな話である。住宅は豪勢で、ドラマに出てくる議員の家を思わせた。

 雪には内心に、人殺しの両親という偏見があった。人殺しの両親が己のせがれのために怒声を上げている。倅は人殺しだというのに。

 彼女は詫びに言ったのか? 否、人殺しの両親を嗤いにいった。

「先生」

 鏑木が後ろから呼び止めた。振り返りもしない。荷物を職員玄関まで運ぶところだった。

「鏑木くん。そんなに頭の悪い子が嫌いなら、レベルの高い私立に行けばよかったじゃない」

 雪は意地悪を言った。教師の道にしがみつく気概はもうない。世間的な疑問を代弁した。家も金持ちに見えた。

 そうすれば! 牧村は殺されずに済んだのだ。

 雪は、牧村が殺されたと信じて疑わなかった。

「ごめんなさい、先生……ごめんなさい。俺からちゃんと説明しますから……」

 白い顔が青褪めている。一矢報いたのかもしれないが、死んだ者は戻ってこない。己のつみを知らずにいた頃にはもう戻れない。

「別にこのことが無くても、辞めるつもりだったから」

 それは嘘だった。職員室から職員玄関までの最短ルートは、日の当たらない暗い廊下を通る。その踊り場で、以前にもこの男子生徒から嫌なことを言われた。

「俺が告白したから?」

 いつでも余裕ぶった、不敵な感じのする鏑木はそこにはいなかった。それを嘲笑してやる気力もなかった。教師としての威儀を正す意欲も削がれきった。

「まさか」

 肯定しないことにした。鏑木の告白には何の力もないのだ。無力なのだ。知らしめてやりたくなった。この男子生徒は痛みを知るべきだ。傷付くことを。

 鏑木はついてくる。鬱陶しい。暗い場所に差し掛かる。だが真っ直ぐ進むほんの数秒のためだけに明かりを点ける必要はない。向こう側には採光の甘い薄暗い職員玄関が見える。

 だが鏑木は彼女を無事に玄関まで辿り着かせなかった。特に暗がりになっている階段の隣には部屋があった。資料室だった。怪我人とは思えない力で、雪はその中に押し込まれていく。荷物が廊下に叩きつけられた。

「何?鏑木く……」

「先生が好き、先生が好き、先生が好き!好きなんです!行かないで……」

 ドアが閉められた後は、容赦せずに体重をかけ、雪はバランスを崩した。その上に、鏑木が乗り上げる。

 平生へいぜいの姿ではなかった。年若いなりの理知的な目も、辺りを舐め蔑んだような声も、何事にも冷めた態度で挑む姿勢もそこにはない。必死で力尽くであった。無我夢中に雪に縋りつき、押さえつけ、彼女のブラウスを左右に引き千切る。ボタンが弾け飛んだ。

 恐怖。しかし相手は生徒で年少者。まだ雪にも侮りがあった。

「やめなさい」

 本当に手を上げるべきなのかもしれなかった。だがそうだろうか。生徒のこの性犯罪は有耶無耶にされるのであろう。世間の性犯罪の扱いをみてみろ。少年犯罪の扱いをみてみろ。子供には将来があるのだという。そして教師と生徒間のことである。雪の評判を省みろ。女性教師が男子生徒を誘惑したと新聞紙には書かれるのだろう。ここで鏑木を殴ったら? 性暴力など忘れ去られ、抽出されるのは体罰に違いない。暴力行為に違いない。

 諦めるほうが楽だった。波風を立てるのはもう疲れてしまった。これは牧村を死なせた罰に違いなかった。

「先生………先生………」

 ゾンビのように、鏑木は雪の首筋を舐めしゃぶった。雪は身体を投げ出していた。頭の中は真っ白であった。アスファルトに身体を叩きつけられた生徒の姿ばかりが浮かんでいた。何故あの生徒は死ななければならなかったのか。殺されたのか。事故なのか。アスファルトの小石粒の間を駆けていく血と、袋を踏み潰したときよように飛び散った脳漿。青空を映した鏡面めいた目。もし……もしも雪が、この学校に着任しなければ、あの生徒はまだ生きていたかもしれなかった。賑やかな態度に甘えさえしなければ。

 そうだろうか?

 この文字どおり悪魔のような、悪魔のように魅力的な外貌の男子生徒は、雪でなくともまた別の餌食を探していたのではないだろうか。

「先生………辞めないで。俺の傍にいて……先生、………」

 胸の狭間に頬を擦り寄せ、その様は性欲によるものとは思われなかった。征服欲からくる暴力衝動と、満たされない承認欲求のように思われた。女体に対する興味ではないようだった。ブラウスを引き破り、キャミソールの上から、彼女の心臓に耳をそばだて、頬を擦り寄せる。

「先生の……生きてる音がする………」

 鏑木の長い睫毛が伏せった。眉根に皺を寄せ聞き入っている。

 静かになった襲撃者を、雪の手は退かそうとした。華奢に見えた肩も実際に掴むと、やはり若く健やかな男体。しっかりしていた。敵わないことを悟るには十分だった。

 鏑木もまた、獲物がおとなしく食われてくれるわけではないと理解したらしい。雪の胸部から耳を離す。キャミソールを破り、ブラジャーによって寄せられた脂肪のたわみに今度は唇を近付ける。ちゅぽ……と雪の肌が弾む。赤い模様が刻まれる。彼はその一点を凝らし、やがてぶるりと身を震わせた。

「ああ………っ」

 鬱血痕を付けた本人が呻めき声を漏らし、膝を内側へ折り畳み、わずかに姿勢を低くした。彼は果てた。目を閉じ、唇を引き結ぶ。

「せんせ………ッ」

 小さな悲鳴だった。まるで自分が被害者だとでも言いたげな音吐おんとだった。

「今なら……なかったことにしてあげられるから……」

「先生が好き………先生が好き………」

 会話は噛み合っていなかった。狂人めいた男子生徒の頬の隙に気付き、引っ叩こうと肘を引いたが、彼女の脳裏には「保身」の二字、或いは三音が閃いた。もしくは打算。

 完全な被害者でいるべきだ。市井の男女の痴話喧嘩、婦女暴行事件とは印象が違う。女性と男子。大人と子供。教師と生徒。女と男では力量が違う。巨女と小男ではなかった。

 完全な被害者であるべきだ。

「お願い先生……俺のものになって………」

 冷静は思考が、冷静に冷淡に、鏑木を一人の男として品定めにかかった。つまらない男だ。その若さ、未熟さを度外視していた。経験も浅く、まだ自分のことで精一杯で、養育が必要な属性である。我欲もまだ強い、他者のことなど慮れなくとも当然な、肉体こそ成体に近くとも、まだ幼い生き物である。だが冷めた雪は、鏑木を己の立つ尺度と同一のもので測ってしまった。そしてその上で見限った。

「そんなの、好きって言わない」

 鏑木は目を真ん丸くした。普段は大人びて見えるほど落ち着き払い、淡々としていることがアイデンティティといわんばかりの昏く凪いだ瞳が獲物を狙う猫の獰猛さを帯びて虚空を凝らす。

「わたしが好きだからこういうことをするんじゃなくて、思い通りにならなかったから、腹を立ててるんでしょ?」

 嗤ってやった。肉体的にはもう勝てるはずがなかった。だが仕方がない。牧村の姿が脳裏に炙り出されていく。雪も嫌な女であった。清廉潔白で純粋無垢な女ではなかった。教師の風上にも置けない人物なのかもしれない。我が身を捨ててもこの殺人犯を傷付けてやりたくなった。

「あ………ああああ!」

 鏑木は吠えた。近くを通りかかる者はいなかったのだろう。誰も来たりはしなかった。

 捨て身といえども、それは雪が理性のみで決めたことである。彼女の独断であった。彼女の肉体は同意していなかった。視界は真っ白く塗られ、耳鳴りが現実を消しにかかる。体温は冷え切って、目は天井の染みを捕まえたまま。雪はそこに青空を描いた。薄汚れたコンクリートの直方体と。

 何を見たのだろう、彼は。

 雪は牧村になりきってみた。だが想像の域を出ない。痛みと苦しみ、恐怖を等身大で再現することはできない。落ちる瞬間、何を思ったのだろう。怖かったであろう。痛かったに違いない。この殺人犯は裁かれない。証拠がない。

 雪の眦に涙が伝っていく。

 望もうが望まなかろうが時は流れてしまう。望む望まないにかかわらず始まり、いずれ終わる。


「あのときみたいですね、先生……」

 鏑木は眠っている唇にリップカラーを引いた。「Y」の刻印が入ったスティックはブランドロゴなのか、はたまた誰かのイニシャルなのか。

「よく似合ってます。先生………ああ、先生…………」

 オレンジがかったピンク色が塗られたことで、目を閉じ微動だにしない雪の顔色もわずかに良く見える。鏑木は至近距離に顔を近付け、恍惚の面持ちで首を捻り、彼女の唇をあらゆる角度から眺めた。フーッ、フーッと手負いの獣みたいな息遣いが青白くそそけ立つ頬を撫でていく。

「俺ももう、先生のものですからね……?」

 銀色の小さな輪が着色ワックスの通っていった唇へ押し当てられる。そして鏑木の左手の薬指を潜らせていった。第二関節を抜ける。指の股で留まる。ふっさりとした睫毛が濡れる。

「先生………嬉しいです。俺、嬉しいです。こんな嬉しいこと、きっともうないです………先生………」

 美貌が歪む。彼は嗚咽し、俯いた途端にはらはらと涙が滴り落ちる。

「先生、大好きです」

 オレンジ色なのだかピンク色なのだか分からない汚れの光る指輪に、彼は唇を当てる。

「でも先生………俺のこと、赦してくれないよね」

 歓喜し、啜り泣き、爛々と目を輝かせていた鏑木は途端に燃えかすのようになった。ただでさえ静かな部屋だった。そこがさらに沈黙に包まれる。

 彼の泣き濡れた目は乾いていた。狂喜に震えていたのは嘘のように凍てついた顔をして、不気味な美しさを醸し出す。

 暗い部屋で健気に光芒を発していた銀輪が、雪の首に乗った。その他の裸の指も巻きつく。

 鏑木は血走った目を剥いて、細い首を絞めた。

「………ぐふ、ッ」

 ぐったりしていた雪が咳に身をのたうたせる。鏑木は銃口を向けられたかのように両手を上げる。

「おはよう、先生。ちゃんと結婚したら、毎朝お味噌汁作ってあげる。具は、日替わりでね。練習してきたんですよ、毎日。おかげで前より増して健康になっちゃって。先生は牧村みたいなスポーツマンタイプが好みなのでしょう? 筋トレも欠かさずやってきたんですよ」

 鏑木はシャツの袖を捲った。

「筋肉の才能がないみたいでボディビルダーみたいにはなれませんでしたが……」

 高校時代の華奢な印象が覆る。そこには逞しく頑健な腕がある。

「先生と出合ってからすべてが輝いてみえます……この世は楽しいことで溢れていますね。そうでしょう、先生。先生が俺を変えてくれたんですよ。つまらなかった俺の人生を……」

 雪は締められた喉を押さえた。呼吸を整える。生理的な涙が睫毛に絡む。

「鏑木くんを人殺しにしたのも?」

 嗄れた声が出た。

「先生のハスキーボイス、セクシーですね」

 もっと聞きたいな、と呟いて、彼は雪の頬に触れた。しかし叩き落とす。

「どうして牧村くんを突き落としたの」

「何年前の話をしているんですか、先生」

「何年前? 何年経っても今そこであったみたいに忘れられない……何年前だろうと関係ない……!」

 脳裏には、まだ牧村の虚空を映した双眸がさっきりと浮かぶ。

「先生はゴキブリを見つけたとき、いちいち理由を探しますか。理由を元に殺し、追い払うんですか」

「牧村くんはクラスメイトでしょう……?」

「人には相性というものがあります。本能的に嫌だったんですよ。視界に入り、声を聞くだけで不安と不快が押し寄せる。そういう人、先生にもいるでしょう…………――? ああ、俺か」

 キャハハハ! あはははは! と鏑木は耳をつんざくほど甲高く笑った。

「ねぇ、先生。でも牧村のことは本当はどうでもいいのでしょう? 本当は弟さんを滅多刺しにしたことを怒っているのでしょう?」

 雪は鏑木に躍りかかった。体格差は歴然。力量差も自明。彼女にも分かっていた。

 鏑木は雪を押し返すこともせず受け止めた。むしろ腕を巻きつけて放さない。

「あれは本当に申し訳なかったです。カレシだと思っちゃって。だってかっこよかったんですもん。先生はああいう筋肉質なのがやっぱり好きなんだ、って思って。だとしたら俺、勝ち目ありませんから」

 鏑木は掌を見せた。大きな傷跡が手相を掻き消している。

「筋肉って硬いですね。刃物が滑って俺の手が切れちゃったんですよ」

「あ………ああああ!」

 雪は悲鳴を上げた。頭がおかしくなりそうだ。激しい情動が渦巻く。彼女は鏑木を突き飛ばす。

「先生?」

 彼は小賢しく首を傾げた。雪は落ちていた包丁に向かっていた。それこそが御守だ。神社で買う小さな金襴の袋でも、神札でもない。圧倒的暴力でなければ決着しない。

「殺してやる……!」

 包丁を拾った。鋒を鏑木へと向ける。

「いいよ、先生。刺しなよ、俺を。ここはダメだよ、すぐ死んじゃうから」

 鏑木は己の首筋をとんと叩いた。

「殺してやる!」

「一撃で終わらせるの? 勘違いだったとはいえ、俺は先生の弟さんを甚振ったのに。先生の弟だって知っていればあんなことはしなかった。だって俺の義弟ってことだもんね。先生、ごめんなさい。謝るよ。一生を賭けて償う。先生に苦労させない。不幸にしない。孤独にしない。ね?」

 鏑木は刃物に気付けづくこともなく雪のほうへ歩を進める。彼女は勇んだのはいいが、人を刺したことはなかった。人を刺すというのとに想像が及ばない。それは刷り込まれた拒否感なのか、本当的な嫌悪なのか。人を刺した者ならば刺してもいい。衝動的な感情は肯定するが、捨てきれない理性はそうではない。

「刺して、先生。滅多刺しにして。俺を先生だけのモノにしてほしい……」

「ならない!」

 雪は叫んだ。まだ肌の馴染まない寂れたマンションの一室にこだまする。

「牧村くんもあられちゃんも、あんたのモノになんかなってないでしょ……」

 牧村に対する冒涜も甚だしい。弟に対する侮辱だ。

 鏑木は向けられた鋒の前に立ったまま笑みを浮かべているだけだった。雪は心臓は彼の両手で圧縮されているかのようだった。後先を考えろ。そんなものは考えなくていい。せめぎ合う。だがこのままでは刺してしまう。鏑木は虚勢を張っているのだろうか。否、本当に刺されることを望んでいる。

「胸はダメですよ。肋骨に当たるだけです。先生……? お腹もダメ。先生好みの男になりたくて、筋トレ頑張っちゃったので、先生の力じゃ刺さらないです、ほら」

 彼はシャツを捲った。割れた腹筋が露わになる。引き締まった腰周りに野性的な色気が匂い立つ。

「あはは、上げすぎちゃった。先生、俺のおっぱい見たでしょ」

 言いがかりであった。だが彼は艶冶えんやに口の端を吊り上げ、ふっさりした睫毛に囲われた目を眇める。

「いいよ、先生。俺のおっぱい、もっと見て」

 薄紅色の舌先を見せて鏑木はさらに裾を捲る。胸筋が盛り上がって筋張った溝により緊張感を漂わせていた。

「先生……どう? 俺のカラダ。先生の好みに近付けた?」

 声音は優しい。

「わたし、あなたに何かした……? 告白に応じればよかったの? そうすれば牧村くんのことも、霰ちゃんのことも、放っておいてくれたの? 教師と生徒で黙って付き合えばよかった? 心にもないことを繰り返して?」

「昔のスカしてダサくて気持ち悪い俺のことなんか、もう分かりません。でも怯えている貴女は綺麗でした。貴女に避けられて、悲しくて、気持ち良くなっちゃったんです」

 鏑木はシャツから手を放した。裾はひらめいて落ちていく。そして彼は屈んだ。背丈の差を自ら埋め、白刃を手に取り、己の首に添える。

「先生、俺を殺して。老いや病気で死ぬのも、車や電車に轢き殺されるのも嫌だから。先生……? 先生が、俺を殺してくれるって選択肢をくれたんだよ。先生……ほら、刺さなきゃ」

 人語を話す地球外生命体がそこにいる。雪は怖くなった。自分は気が狂ったのではあるまいか。手が震える。膝も戦慄く。いやな汗が噴き出す。爪先は氷のようだ。

「先生?」

 歯が打ち鳴らされる。

「せ~ん、せ~……」

 高校時代の鏑木からは想像のつかないおどけた呼び方であった。

 まだ踏み切れなかった。しかし生かしておくわけにもいかない。生かしてはおけない。殺すしかない。それが牧村への弔いであり、弟の特効薬なのだ。


 ピルルル……ピルル……ピルっ、ピルっ


 テーブルの上の黒光りする蒲鉾板が振動した。雪は包丁を投げ捨てテーブルに跳びついた。そのときに刃先が揺れた。鏑木の首筋に赤い糸屑がひとつ付着する。だが彼女はそのことに気付きもしない。画面に表示された文字に周章狼狽し、焦燥し、恐慌状態に陥った。

「先生……?」

 彼女はもはや、発狂していたのかもしれない。鏑木と視線をち合せた途端、走り出した。靴も履かず、裸足でマンションの廊下を駆けていく。鏑木が後を追いかけてきているのかもしれない。確認してはいなかった。だがあの男のいる傍で電話に出てはいけない気がした。高機能携帯電話はすでに振動をやめていた。手摺りを乗り越え、隣の建物の壁から生えたタラップにしがみつく。電子板を包むシリコンカバーを口に咥え、屋上に至る。風が拭いた。買った覚えも着た覚えもない白いドレスの裾が揺蕩う。ビル群の陰に青暗いこの場所では、指に嵌まった忌々しい銀輪も鳴りを潜めている。

「先生……どうして逃げるんです? 逃げたって仕方がないのに。俺が捕まえるから。地の底まで追いかけます。だから逃げたって、俺は楽しいですが、先生にはメリットないですよ」

 雪は振り返った。ぬう……と地面から鏑木の目がこちらを覗く。風で翻る裾から生脚が見えている。

「でも、そうは言っても、先生との追いかけっこ、楽しいです。牧村とは楽しそうに話してたのに、先生、俺とは遊んでくれなかったから。だからこうして遊んでもらえて楽しいです。嬉しいです。先生」

 鏑木の身体がタラップを登り終え、煤けて苔生した感じのあるコンクリートの上に足を踏み出した。突き飛ばしてしまえばよかったのだ。その隙は十分にあった。

「先生……ほら、忘れ物。俺を刺し殺せよ」

 包丁が投げられる。コンクリートを一瞬刺し、弾かれて転がり、雪の足元へ滑った。嫌な金属音が響く。

「俺は、毎日毎日、丁寧に生きていたんです。もしかしたら今日こそが先生に殺してもらえる日なんじゃないかって。もしかしたら先生が俺を受け入れて、ダサくて惨めな昔の俺と、やっとお別れできるんじゃないか……って」

 雪は呆然と鏑木を見ていた。

「先生……? 包丁、拾って? 大丈夫だよ、先生。さっきみたいに刺し方を強要なんてしないから。先生の好きなタイミングで、先生の好きなように刺してください。先生、人刺したことありますか? なかったら嬉しいです。先生の初めては俺ってことですよね」

 雪は刃物を拾った。日常的で、実用性に優れ、何の変哲もない無辜むこの道具。ただ、ここは外であった。食材は目の前にはなく、調理台もない。

 彼女は燃殻のような顔をして蒲鉾板を耳に当てた。留守番電話が流れる。相手は母親。

『雪ちゃん! 霰ちゃんが意識を取り戻したって……! 雪ちゃん! だから早く、病院に来て!』

 歓喜に震え、涙声であった。雪の眉頭と眉頭が癒着するほど引っ張られる。細まってしまう目は熱く濡れてきらめく。

 元教え子に刃物を向けている。正当防衛のつもりであるとはいえ、恥であった。

 人を刺したこともなければ殺したこともなかった。だが牧村は何故死んだのであろうか。どのような悪意が、或いは因縁があって死ななければならなかったのか。

 弟が意識を取り戻した。母は涙ながらに喜び、おそらく父もそうであろう。

 弟が生きている。弟はこれからも生き続ける。

「先生……?」

 この怪物の倒し方に確証はなかった。それが正攻法だとも思えなかった。

 雪の手の中にある包丁は、彼女の首の皮膚を裂いた。手加減があった。手加減してしまった。覚悟が足らなかった。しかしその鋒は血管を傷付けていた。まだ足らない。

「先生……!」

 この男を喜ばせるだけかもしれなかった。賭けであった。

 血が噴き出る。白いドレスは鮮やかに色付き、コンクリートにはどす黒い染みといやらしい光沢が現れた。

 鏑木は青褪め、目を開き、にじり寄る。

「まき………らく…………めんな…………い」

 言葉は上手く出なかった。喉に溢れた血溜まりで噎せる。喋りながら吐き出した。強い浮遊感に襲われ、平衡感覚ももう働かない。反射は機能せず、彼女の身体は濡れて汚れたコンクリートに叩きつけられる。

「先生……! 先生……! なんで……! そんな……!」

 鏑木が残りの距離を一気に詰めて彼女の躯体を抱え起こす。

 朦朧とする意識には、もはや判断能力もなかった。しかし宿敵のことだけはよく覚えていた。真っ赤な手が、シャツを押す。わずかな力が入った。ふたたび血反吐が口を撞く。

 親不孝をしたことだけが心残りだった。だが弟が意識を取り戻した……

 視界はすでに白く爆ぜ、ところどころ影がモザイク状になっていた。これが哀れな生徒の最期にみた光景なのだろうか。彼には悪いことをした。罰なのであろう。あの生徒を利用していた。怪物を諦めさせようと目論んでいた。そのために殺してしまった。己に素直にならなければならなかった。その怪物を作り上げてしまったのは一体誰だったのか。

「ああ、先生……いやだ、先生……っ!」

 責任の取り方も知らなかった。抜き取った包丁は怪物には届かず、目蓋とともに落ちていく。しかし閉じきる前に、その瞳は鏡となって空を映した。カラスが一羽、横切っていく。




―ねぇ、聞いた? 鏑木かぶらぎ兎馬とうまのこと。

―鏑木……? 鏑木って……誰だっけ?

―ほら、いたじゃん、7組の……顔はかっこよかったけどさ、近寄りがたいカンジの……

―ああ、いたような、いなかったような……それが?

―途中で辞めた塔本先生のことは覚えてる?

―ああ、ああ、あの美人の………そうだ、牧村が好きだったあの先生な……牧村のこと覚えてるっしょ?

―覚えてる、覚えてる! その塔本先生と鏑木、心中したらしいよ。なんでも無理心中っぽいって。まぁ、鏑木のほうは意識不明の重体で、生きてはいるらしいんだけど……

―え! なんでっ?

―さぁ? 理由は分からないけど、痴情の縺れ? 塔本先生が辞めたのって鏑木関係だって当時ウワサだったし。知らない?

―えー……なんか怖。

―そうなの、そうなの。塔本先生のほうは首を滅多刺しにしてあったっていうし、鏑木も切腹して死に切れなくて、2人で飛び降りたんだって。なんか……もう壮絶すぎて……その………言っちゃワルいけど、牧村の呪いみたいじゃない?

―そりゃねーさ。牧村はそんな、人を呪えるようなやつじゃなかったし。でも、鏑木のほうだけでも、そんななのに生きててよかったよ。

―あっ! ニュース! その件だよ、ちょっと静かにして!



【完】

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眼差しより鋒をくれ .六条河原おにびんびn @vivid-onibi

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