第3話

「どこに行こうっていうんですか、先生。どこに行くんです?俺を置いて……先生。先生は俺と結婚するんですよ」

 鏑木かぶらぎは上着のなかへ手を入れた。大枠のなかに、さらに記入欄らしきものがブロックのごとく敷き詰められ、さながら中高の答案用紙を思わせる。

「それは、何……」

 雪は、己の考えを否定してほしかった。そうではないと知りたかった。こういうときは、否定がほしかった。人とは難儀で、げんきんで、不可解である。

「婚姻届です。できれば、先生にも書いてほしくて。こんな形になってしまいましたが、先生……結婚してください。そうだ、指輪も。とりあえずの号数なので、合わなかったら直しに行きましょう。先生……?手を出して?」

 舐め苛み、脅迫同然に歯を立てた手は右手であった。鏑木の物欲しそうな目は、彼女の左を射す。

「いやよ……結婚なんてしない…………どうして、あなたと………」

 譫言のようだった。鏑木が何をしたのか、すぐさま浮かぶのだ。この男と出会ってしまったことが、人生に於いて最大の不祥事であったのだ。

「ヘリーウィーンズストンですよ。女性の憧れだって聞きました」

 ブルーブラックにシャンパンゴールドの印字がよく映えたボックスであった。確かにそれは、宝飾品を扱かうブランドのなかで特に高級で有名だった。

「気に入りませんでしたか。それなら、先生が好きな指輪を買いに行きましょう。いいですよ、どれでも好きなものを選んでもらって。頑張ってたくさん稼ぎます。愛してもらえるように……」


「自殺なわけありません……牧村くんが自殺なわけ……」

 それは自己暗示ではなかった。己に言い聞かせているのではなく、抗議であった。

「では事故だと?」

 牧村は殺されたのだ。突き落とされたのだ。しかし雪は首を振れなかった。

「あの生徒は日頃からベランダの手摺りに腰掛けていたというじゃありませんか」

 別の先生が言った。雪の言葉を擁護するかのようであった。しかし違う!彼女が言いたいのは、事故ではない。

 それでは、事故でしょうね。

 空気はそうなっていった。これは殺人であると、雪は言えなかった。鏑木がどう、牧村をベランダの手摺に乗せたというのだ。牧村は鏑木より背は低かったが、特別小柄ではなかったし、身長こそ牧村のほうが小さくとも、彼は華奢な鏑木とは違って筋肉質であった。何の騒動もなく手摺の向こうに押しやることは難しい。何よりも鏑木は負傷していた。跛行はこうしていたはずだ。つまり鏑木が牧村を突き落とすことは、そう簡単にはいかなかった。

 事故なのだろうか。自分が誤解しているのだろうか。何が何でも鏑木を犯人にしたいだけなのだろうか。雪は迷った。

 しかし。

 精神的に傷を負った鏑木は、保健室登校であった。そこにクラス担任ではない雪が呼び出される。あの場にいた雪にしか、「今は心を開けない」とそう口にしたそうである。職員室中から白い目で見られている気がした。後ろ指を指されているような。良からぬ噂は一体どこまで広まっているのか。

 鏑木くんは一生徒です。

 だから立場を弁えよ、という意味なのか、それとも、だから徹底したケアをするべきだと続くのか、雪には分からなかった。クラス担任の西谷の目も怖かったが、実際のところは、教科担任でしかない雪を頼られている件について自体を特に気にしているふうではなかった。

 雪は、行きたくなかった。だが職務のひとつであった。事件を解決しなければならない。だが殺人を事故にされるくらいなら、解決或いは決着などしないほうがいいのではなかろうか。 

 牧村は2日間、生きていた。意識もなく、管を通され、包帯を巻かれ。その心臓が止まったと知らされたとき、雪は安堵した。一生徒とその教師に過ぎない赤の他人として、安堵してしまった。元の生活には戻れない。牧村は牧村として、もう生きられない。息をさせられ、心臓は鼓動するけれど、笑わない。喋ることもない。家族にとって、牧村は息子であり、弟であり、甥であり、孫であったろう。だが雪には、怪我の状態からして意識を取り戻したところで、それは牧村ではなかった。牧村の顔をした誰かだった。

 そしてこの考えに、雪は己を軽蔑した。生きてさえいればそれでいい。教師ならば、外連味けれんみのない、無難で、模範的な解答を持っておくべきだ。

 雪は保健室のドアを開けた。養護教諭とテーブルを挟んで鏑木がいる。頭の包帯は取れたようだ。鏑木は目で養護教諭を追い出した。

「先生」

 雪は目を合わさなかった。黙って、まだ養護教諭の温もりが残る椅子に腰を下ろす。

「先生。牧村のことは……」

「そうね」 

 冷たく吐き捨てた。

「いいやつでした」

「本当に、いい子だった。明るくて、優しくて、いつも助かってた。とても頼もしい生徒だった」

 鏑木の胸元の、あまり反射のない、凹凸の質感が荒いテーブルを凝らしていた。

「……ですが、あまり、成績はよくなかったですよね」

 やっと、雪は鏑木を睨んだ。

「成績が何?確かに大事なことだけれど、他人の競争より、自分のベストを出せればそれで十分。牧村くんはそれができた。他と比べて成績が良くなかったから何?牧村くんを貶める理由にはならない」

「それでは負けるじゃありませんか。テストも受験も競争です。席の数は決まっています」

 鏑木の声が微かに低くなった。眉の動きにも雪は気付いた。

「自分のベストが出せたから何だというのです。それで赤点を取っても補習はあります。親からは怒られます。志望校に落ちたら、将来も危ぶまれる。教師は生徒にそう言うしかありませんが、生徒は現実問題、そうも言っていられません。先生だって、それは分かっているはずなんですから、茶番です」

 そこでやっと、視線を長いこと搗ち合わせていた。

 牧村は自分のせいで死んだのかも知れない。殺されたのかもしれない。

 涙が溢れ出てきた。牧村が哀れで仕方がない。何を思い、遠のく空を眺めていたのだろう。何を感じ、アスファルトに寝そべっていたのだろう。

「そうかもね。けれど、成績の上がっていく様子は、わたしには嬉しかった」

「……俺等は?牧村の成績が上がっていたのはすぐに見て分かったでしょうね。俺たちは?少し下がれば何か言われる俺たちは?自己のベストって何ですか。嫌でも競走馬にしてくるくせに」

 聞かせる溜息が吐かれる。

「そうね。そのとおり」

「俺たちに課されているのは競争です。スタート地点もゴール地点も人それぞれのようですが」

 鏑木は見上げるような、下から睥睨へいげいするような目を向けた。雪が見返せば、不気味な笑みへ切り替える。

「先生と話せて嬉しいです」

「そう。じゃあもっと話せるわ。牧村くんと何があったの」

 双眸が澱んでいく。薄い唇が弧を描く。

「手、出してくれませんか」

 雪はネイリストに差し出すみたいに、テーブルへ左手を置いた。鏑木の手がそこに重なる。もし目を瞑っていれば、女のものと紛う滑らかさであるが、触れる面積や硬さからすればやはり男のものか。

「ありがとうございます。嬉しいです」

 冷たい熱に四指を握り締められる。程良くハンドクリームを塗ったような、摩擦の少ない感触だった。

「牧村って、休み時間、たまにあそこに座るんですよ。コンクリートの平らな部分じゃなくて、あの手摺部分に」

 天端てんばではなく、そこから生えた鉄棒じみた手摺りのことだ。すでに塗装が剥げ、赤銅色が曝け出されていた。

「自業自得なんです。少し怖いもの知らずなんだと思います。危機管理ができないから、余程の楽天家なんじゃないですか」

 そこには強い侮蔑が現れた。牧村はばかなのだと言いたげであった。

「跳び上がる感覚を誤って、落ちるのは、時間の問題だと思いました。でもこう言うと、どうして注意しなかった、って怒るのでしょう?事が起こってから、急に落ち度の話に遡る。その注意は正しいです。けれど、正しさの裏には事情もある。先生……そういう注意って野暮なんです。教師になったら忘れてしまうかも知れませんが、競争相手です。互いの監視に責任なんか負えません。落ちちゃうよ、危ないよ、なんて言えません。男女であったなら、言えたかもしれません。けれど男同士こそ、まさに競争です。動物の世界でいえば、リスクを取れるオスこそが優秀なんです。それが日常生活でも出てしまったのでしょうね。異性がいなくても、そういうのって無意識で起こるんです。それに同性の前では、優位を示せますし。牧村は人間の理性よりも、動物的な勘の鋭いやつでしたから……」

 つまり牧村は知能が低く、危険予測のできない個体であると、彼は言いたいらしかった。

「そう。男の世界は、わたしには分からないけれど」

「先生」 

 指を握る力が強まる。

「目の前で牧村が落ちて、俺だって怖かったんですよ。でも、"雪"先生には包み隠さず、すべてを打ち明けたかったから……」

「西谷先生に話すべきことでしょう」

「先生……俺は"雪"先生に話したかったんです。なんだかんだいっても牧村は目立つやつです。学校生活に嫌でも割り込んでくるわけです。そんなやつがいなくなって、俺だって寂しいんです……先生、これ、録音されているんですか」

「している、と言ったら?」

 長く濃い睫毛の囲いから放たれる眼光が、雪の身体を這い回る。

「傷付きます。好きな人に疑われて」

「同時に、あなたの潔白を晴らすためでもあるでしょう。わたしが有る事無い事を証言したら?」

 鏑木は握り締めた手を引っ張った。

「疑ってるのは雪先生なんですね」

「うん。わたしは鏑木くんを疑ってる」

「酷いです、先生。誰でもない雪先生に疑われるなんて。クラスメイトが目の前で落ちたんですよ。牧村がアスファルトに叩き付けられる音を聞いているんです。耳から離れないんです。先生……」

「そう。お気の毒」

 掴まれている指が痛くなった。

「先生のこと好きです……先生が好きなんです……だからすべて話したくて………」

「それなら、これがすべてということね。分かった。話してくれてありがとう。でもわたしは鏑木くんを疑っているし、きっと何を言われても納得しない。だから西谷先生に話して」

 話を終わらせるつもりだった。立ち上がる。しかし左手は握られたまま。

「誰に言っても俺が疑われますよ、きっと」

「わたしだけ。鏑木くんを疑ってるのはわたしだけ。だから西谷先生は、味方になってくれると思う」

 鏑木は手を放さなかった。引っ張られる。しかし2人の間にはテーブルがあった。離れようとする雪を赦さない。

「鏑木く……」

 テーブルの脇にあるアルミサッシへと引き摺られ、雪は背中をぶつけた。怪我人とは思えない力であった。年下といえども高校生となれば男は年長者の女のほとんどよりも圧倒的な膂力を持つ。敵うはずはなかった。何故、牧村は雪の抱える荷物を持ちたがったのか。鏑木はあの男子生徒を侮っているけれど、心の優しい子であった。

 視界が滲む。だがそれでよかった。焦点の定まらないほど至近距離に鏑木が迫った。唇が生温かいものにぶつかる。


「先生?」

 酸素不足に陥り、雪の身体は折り畳まれるように崩れて落ちていく。唇から液糸を垂らし、彼女は宙に揺蕩うようであった。倒れるところを、支えられる。そして半開きの口に、鏑木は何か摘んでいるらしい指を捩じ込んだ。口腔に染み入っていく甘さに鉄錆臭い甘さが混じっていたが、そこに確かな強い甘味がすべてを掻っ攫っていく。それは舌の上で溶けている。鏑木はまた彼女の唇を塞いだ。かろうじて固形物だったものは侵入した体温に薙ぎ倒されて液状化した。

 雪は鏑木の胸の間に肘を突き入れた。

「ん……っぅん………」

 嚥下を忘れた彼女の溢流を、鏑木は美味そうに啜った。怯えている舌ごと喰む。アイスクリームを食う所作で、その音は果汁を吸っている。

 絡まされた舌に自由意思はもうなかった。

「ぁ………ァ、」

 呼吸も奪われている。何も考えられない。恐怖も浚われた。自分が何をしているのか、誰かいるのか、それは何者なのかも、もう判断がつかない。

「先生……誓いのキスをしてしまったから、もう結婚するしかないですよ」

 無防備に投げ出された左手を取り、暗い中でも銀色に輝く指輪を突き入れる。第二関節に当たる。雪の節榑だった長い指は、その細さに合わせて作ると関節でぶつかった。しかし関節に合わせて作れば、第二関節と第三関節の間を泳いでしまう。ならば外さなければよいとでも思っているのだろう。鏑木は雪の薄皮を削り取るがごとく、力尽くで指輪を嵌めた。

「先生……元教え子とじゃ、結婚式は挙げられませんが、新婚旅行は盛大にしましょう」

「や、め………て」

 雪は眼前まで近付く鏑木を突き離す。

「先生は俺と結婚する運命でした。俺は先生の一部になる宿命なんです。アンコウの夫婦みたいに」

 布が降ってきた。口と鼻を覆われる。妙な匂いがした。押し当てられ、息ができない。

「先生は俺と結婚するんです。俺のお嫁さんになるんです。先生……耳、かわいいですね。ずっと、齧りたいなった思ってました。ピアス開けましょう。指輪と揃えて……贈ります」

 ガーゼを押し当てたまま、鏑木は雪の耳に口元を寄せる。そして耳朶を噛んだ。

「先生の耳、美味しい」

 耳殻を巻き込み、歯が柔肌を揉みしだく。痛いはずだった。だが意識が薄らいでいく。痛覚は、彼女を引き留めはしない。

「先生……綺麗だ」

 味蕾の凹凸が皮膚の質感を犯していく。唾液の塗られていく音を鼓膜のすぐ傍で聞かなければならなかった。

「ふ………うぅ………」

 呼吸はできた。アルコールを摂取したときのような異臭が鼻奥にこだまするようだ。抗いがたい眠気に襲われ、雪は目蓋を閉じた。


 口腔に差し込まれたぬるりとしたものに、雪は牙を立てた。鉄錆臭い、独特の甘さが広がっていく。だが彼女に痛みはなかった。

 噛まれるくらいのことは想定していたのだろう。肉体が反射的に痛みに怖気おじけ付きはしたけれど、鏑木は怯まない。接吻を続行しようとする男子生徒のしっかりした身体を押す。相手は骨折していた。患部に響いたらしい。

「何、するの……」

 身を剥がした鏑木の唇には赤い汚れが付いている。照りつけたピンクは、雪から奪った色だ。

「血の味って嫌いです」

 もし鏑木が、恐ろしい教え子でなければ。我が校の生徒でなければ。たとえばアイドルや俳優であったなら、その唇を拭う様になまめかしさを感じられたかもしれない。

「謝らないからね」

 リップカラーが落ちるのも構わず、彼女は汚そうに口元を拭う。

「先生とのキス、甘かったから……遺伝子上の相性は良いですよ、きっと」

「血の味じゃないの」

「嫌いな味と、先生の味を、間違うはずはありませんよ」

 鏑木は、徐ろに方向転換してテーブルのほうへ戻った。そして勢いよく顔面を叩きつける。雪はこの奇行に頭が真っ白くなった。ふ……っと息が聞こえ、オフホワイトのテーブルに赤いものが飛び散った。牧村がアスファルトに広げていたものと同じであるはずなのに、違って見えた。

「何……して…………」

「酷いな、先生。どうして俺を殴るんですか」

 鼻血を垂れ流した鏑木は頭を上げた。シャツにも容赦なく、赤い汚れがつく。

 頭がおかしくなったのかと思った。だが知性の輝きを宿した双眸には計算が見え隠れしている。

「脅すつもり?」

「脅されてくれますか」

「条件だけ、聞いておきましょう」

 雪は焦った様子もなかった。とても脅されている自覚のある人間ではなかった。

「好きって言ってください。俺のこと、好きって……」

 溜息が漏れる。子供だと思った。幼い。幼稚だ。どの口で牧村を卑しめたのだろう。

「来なさい」

 雪は鏑木の二の腕の辺りの制服を摘んだ。跛行しているのも慮らない。行き着く先は職員室。

「先生」

 だが雪は無視して、職員室へ鏑木を引き摺り込む。学年主任はデスクにいた。

「生徒を殴りました」

「先生……」


 仕事を辞めたと最初に伝えた相手は弟のあられだった。

 年頃の男子の心理など、女の身に生まれた雪に分かるはずもない。

『ま、年上の女の人の憧れってやつだよな。あれくらいのときの同年代の女子って、やっぱキーキーうるさいし』

 姉弟仲は良かった。遊び相手で、相談相手であった。

 病院のベッドに管を繋がれ眠る弟を見下ろした。亡くなった元教え子の姿と重なる。小難しそうな機械が重低音を鳴らして弟を生かしている。

 霰が何をしたというのだ。切り付けられたというときから、大事にすべきだった。警察沙汰にするべきだった。立派な犯罪である。何故、放置してしまったのだろう。

 弟が何をしたというのだ。半年、同じ問いを繰り返している。解き明かす気もなく。


「姉ちゃん、結婚すんの?」

 弟とは頻繁に連絡を取っていた。特に仕事を辞めてからは、気を遣っているようであった。だが、交際相手や結婚の話をした覚えはない。そしてそれを勧めるような弟でもなかった。

「しないけど。どうして?した方がいい?」

 父と弟以外の、男という生き物がもう分からなかった。あの男子生徒が異常なだけだ。それは分かっているけれど。

 自分はあの男子生徒を誑かしたのだろうか。誘惑したのだろうか?

「いや……そうじゃないんだけど。姉ちゃん、おふくろのところにカニ送った?」

「送ってないけど、何の話?」

 カニとは何なのか。脳裏を閃いた甲殻類のことでいいのだろうか。しかし雪にはまったく要領を得ない。

「でも、姉ちゃんの名前でカニ届いてるんだけど。ちょっと待って。中に手紙が入っててさ」

「送ってないけど」

「トウマ」

「え?」

 それを聞いた途端、胸が重くなる。どす黒い靄を呑み込んだ気分だった。

「トウマってカレシが送ってくれたんじゃないのか?」

 トウマ……聞き覚えがある。どこかで聞いた。そしてそれは良い記憶ではない。

「漢字は?」

「兎に馬って書く」

 雪の顔から血の気が失せていく。

「名前だけ……?」

 弟は電話の奥で黙ってしまった。無音のなかに電子音の蠢きがある。わずかな静寂に耐えられない。

「名前だけ」

 内容を読み上げさせたこと。「私、兎馬は」「雪さん」と結婚すること、交際を報告しなかった詫びと両親への挨拶が記されているのだそうだ。

「霰ちゃん。気を付けて。お願い。この前切り付けられたでしょ?あれ、ただの偶然じゃない」

「何、姉ちゃん。急にどうした?」

「おねがい、霰。今から言うことをしっかり聞いて」

 彼は不服そうに頷いた。

「戸締りをしっかりして。カーテンも。ごみ捨ては回収時間のぎりぎりにできる?」

「もしかして……ストーカー……?」

 雪はその単語を認めたくなかった。ここ最近、おかしなことが起こっていた。覚えのない配達、夜中に鳴るインターホン、窓の外の点滅。ポストの内側についた粘着剤の痕。

 家族に心配はかけられない。仕事を辞め、ただでさえひとつ、悩みの種を作っている。しかし実家に荷物が届いてしまった。住所を知られている。家族に危害が加わるのではあるまいか。

「それなら警察に行こう」



 警察がやれることは、巡回を強めることだけだった。足繁く様子を見に来る弟は滅多刺しにされた。両親も実家を売り払い、引っ越すほかなくなった。地元を捨てた。生まれ育った家を捨てさせなければ、両親まで失うことになる。

 何も知らずに弟は眠っている。当たり前の帰る場所はもうない。

「ごめんね……」

 赦されることはないだろう。

「……ごめんなさい」

 弟の手を握る。2年経っても、結局目を覚まさない。



 雪はベッドの上に寝かされていた。服を脱がされ、純白のドレスを着せられている。畳まれていたためか、皺が目立つ。彼女は気を失い、ぐったりしていた。

「先生……」

 鏑木の手が、雪の頬を撫でる。何往復かさせてから、両手で彼女の左手を拾うと銀色の光芒を発する輪に唇を落とす。それから手の甲で軽やかなリップ音を奏でる。

 細い息が、空間をつんざく。掠れている。

「先生……俺だけの先生…………」

 不気味な美貌が歪む。爛々とした眼は、雪の毛穴でも数えているようであった。だが思案していたのかもしれない。胸元に置いた彼女の左手と投げ捨てられた右手の指に自身の指を絡めた。鏑木の上半身はまたもや伏せられていく。微動だにしない唇に唇を重ねる。すぐに離れた。

「ああ……」

 感嘆の声を漏らし、恍惚の目が宙を彷徨っている。

 鏑木は雪に背を向けた。そして傍に一切れのショートケーキを乗せた皿を持ってくる。花嫁にバターナイフを握らせる。

「先生、ケーキ入刀ですよ」

 ケーキがひしげ、頂のいちごが転げ落ちる。

「きっと牧村もお祝いしてくれます……ははは……」

 乾いた笑いが消えていく。

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