第2話

 そこに点検業者はいなかった。背の高い青年が立っている。ほんの一瞬でも、色白い肌に癖のある黒髪が分かった。そしてその下の、温血動物を装った冷徹な眼差しと美貌を理解した。雪は扉を閉めようとする。しかし手が割り入った。さらにはわずかな隙間をさらに抉じ開けて、爪先を挟む。

 扉を閉め切ることはできなくなってしまった。

「逃げるなんて酷いです、先生……」

 雪は頭を真っ白にしていた。何故チェーンを外してしまったのか。

 逆光した顔の奥に、感情は見えない。

「先生」



 仕事の面倒臭さはあった。働かずに済むのなら働きたくはなかった。けれども経済的事情を差し引いたとして、働かずにいれば己の堕落も予見できた。今の給料に満足していたわけではなかったが、転職するほどの不満ではなかった。やり甲斐も皆無ではなかったし、他の仕事と想像のみで比較するのだとしたら、然程嫌気が差しているわけでもなかった。煩雑な事柄もあるけれど。そして雪にとって顕著に感じられたのが今現在であった。

 素行不良や成績不良とはまた違う不安を煽る生徒がいる。辛辣な生徒や、嫌味な生徒のことは知っている。だがそれとも違うのであった。苦手や嫌悪ともまた異質の、それは恐怖であった。

「先生」

 憂鬱である。雪は鏑木かぶらぎのクラスの担任ではないが、同じ学年の別のクラスを受け持っていた。その男子生徒は待っていた。どこかで待ち構えている。教室の並ぶ廊下を抜け、階段を降りるときに呼びかけるようになった。呼ぶだけ呼び、用事はないのだ。振り返り、目が合う。男子生徒は悪癖を持ってしまった。用がないことは分かっている。だが聞かなかったことにして、本当に何かあれば問題になる。憂鬱だった。教室を出ていく生徒の後ろをついていったこともある。特に関心のないことを訊いてみたりもした。だが鏑木には、関係がなかった。まるで噂を裏付けるように、信憑性を強めるためかのような行動をとる。

 雪は振り返った。階段の上にいる鏑木の見下ろした視線は彼女の隣の男子生徒に注がれる。冷ややかな、蔑みを込めた恐ろしい眼差しであった。咄嗟に男子生徒の肩に置いた手を下ろす。

「ごめんなさい、鏑木くん。今は構っていられないの。何か大事な用事?」

 もしここで、声をかけたのが鏑木ではなかったなら。おそらくそのような物言いにはならなかった。もう少し語気を緩めることもしただろう。

 鏑木は、雪の隣で鼻を押さえる牧村から視線を逸らした。

「いいえ」

「そう……」

 踊り場で折り返すときに、雪は上を見遣った。鏑木はまだ段差の寸前に立ち尽くしている。まるでそこから飛び降りるかのようであった。そしてその男子生徒の不気味さは、実際、そうしてしまいかねなかった。

「ん、せんせ、オレ大丈夫だよ。鏑木くん、用があるんでしょ?」

「大丈夫よ。牧村くんのことが心配だったんじゃない?」

 また新しくポケットティッシュを出してやる。牧村の鼻血はまだ止まっていなかった。

「あんま仲良くないケド、優しいんだ」

「仲良くないの?」

「オレは仲良くしたいケドさ、もしかしたら嫌われてんのかも。オレうるさいでしょ」

 牧村はへらへらと軽快に笑っていた。好意を寄せてくるのが牧村のような生徒であれば、不快感はなかったのかもしれない。素直に、あっさりと、決着するのかもしれなかった。



 雪は腹の底から冷えていくのを感じた。空ではヘリコプターがぱらぱら音を立てて飛んでいる。彼女は目を見開き、訪問者の顔を凝視していた。借金の取立てではなかろうか。警察を呼んでしまいたい。しかし呼べば、己の過去を掘り返すことになるのだった。

「先生……やっと捕まえましたよ」

 だが雪は部屋の奥へ逃げた。鏑木は柔らかく微笑んだ。あれから時を経て、無愛想な生徒も丸くなったらしい。

「先生……」

「もうあなたの先生じゃないでしょう」

「けれど、昔、俺の先生でした」

 玄関を入ってすぐにキッチンであった。鏑木は室内を見回し、深呼吸している。否、深呼吸ではなかった。彼はこの部屋に漂う空気を吸っていた。そして嗅いでもいた。ふっさりと睫毛に覆われた目を眇め、恍惚としている。

「先生の匂いがしますね。先生と同じ空気、美味しいです」

 雪は息ができなかった。息をしているつもりで、酸素が入ってこなかった。肺に穴が空いているみたいだった。焦ってしまう。呼吸を急いた。誰かが耳元でぜぇぜぇやっているが、他に人はいない。

「大丈夫ですよ、先生……先生の分の酸素を吸うなんてことはできませんから」

 妙に人懐こい、距離感の分かっていない、親近感の狂った揶揄の色が、その笑みと目元に滲んでいる。

「ああ……先生………」

 彼は後ろ手に玄関扉を閉め、鍵を掛けると、キッチンにあった包丁を見遣って上擦った声を漏らした。きぃん、と耳障りな、甲高い金属音があった。


 気が重かった。あの気味の悪い男子生徒のいるクラスの授業がない日にまで、雪は不快感を抱えていた。どこかで監視されている。そして待ち構えている。隙があれば声をかけ、見送っている。常軌を逸してる。だが相手は子供である。大人の庇護と養育なしに、何もできない未成熟な人間である。雪は児童とそう変わらない者に対して怯えている自身が嫌になってしまった。誰かに相談できるはずもない。自尊心が邪魔をする。

 何かしたわけではないのに肩が凝る。首を持ち上げる気力もなく、俯いて歩き、足元ばかり見ていた。それは失敗であった。無理にでも我慢をして、健気に、前を向いて歩くべきであった。そうでなければ餌食になる。神だの運命だのは、或いはそういう人間を、モラルハラスメントの常習者のごとく、不幸に見舞われてもいい個体だと判別するらしかった。

「先生」

 辿り着いたそこは職員玄関であるはずだった。教室でも教室棟の廊下でもない。幻聴まで聞こえるようになったか……

「先生、おはようございます」

 顔を上げると、鏑木が立っていた。額に包帯を巻き、片腕を吊るしている。

「……お………は、よう………どうしたの、その怪我………」

 ガラス玉のような目が、ぎとりと雪を捉えた。

「昨日、階段から落ちました」

 人の瞳孔を抉じ開けて、中に入ってこようとするかのような粘着質の眼差しが嫌であった。怖かった。

「……そう。大変ね。西谷にしたに先生を待っているの?」

 だが命に別条はなさそうであった。返答を求めてもいない問いを投げ放しにして、パンプスからオフィスサンダルへ履き替えると、怪我をした男子生徒の脇を通っていった。

「牧村ではなくて残念でしたか」

 すれ違った直後だった。日当たりの悪い暗い廊下を通らなければならなかった。快晴の日の昼間でも明かりを点けなければそれなりに不便な場所だが、そもそも明かりを点けるほど長居をするところでもなかった。階段の踊場から差し込む北側の外光が頼りであった。そういう不気味な場所である。

「何?」

 雪は語気に不快感を込めた。だがそれだけでは伝わらないような気がした。

「何が言いたいの?」

「待っているのが牧村ではなくて……」

「どうして牧村くんがここで出てくるの?」

 あの愉快で賑やかな男子生徒の言うとおり、嫌い嫌われている関係なのだろうか。

「それとも安心しましたか」

 鏑木は雪の問いには答えなかった。新たな問いを重ねるだけだ。

「階段から落ちたのが、牧村ではなくて……」

 卑屈な態度も気持ちが悪かった。痛々しかった。寒々しい。しかし相手は子供であり、生徒である。雪は浴びせたくなった辛辣な言葉を呑み込んだ。

「誰なら安心するとか、誰なら残念とか、あるわけないでしょう」

 雪は吐き捨てて階段を上っていった。そしてふと昨日の出来事を思い出す。階下を凝らす悍ましく冷たい美貌と、職員室まで届いた救急車のサイレンを。

「先生」

 振り返る。嫌であった。しかし相手は子供で、生徒であり、自身は大人で、教師である。

 階段へやって来る鏑木は、片方の足を引き摺っていた。

「何……?」

 化け物が階段を這い上がってきている心地だ。

「職員室まで、一緒に行きます」

「西谷先生を待っているんじゃないの?まだ来ていらっしゃらないはずだけれど」

 遠回しの断りが伝わるはずはない。いいや、伝わったかもしれない。だが拒否の意を汲む相手であろうか。

「先生を待っていました」

 相変わらず、表情の乏しい、凍てついた顔をしていた。日陰を介した北向きの窓から入る外光が青白く差し込んでいる。包帯も制服も透けているみたいだった。まるで幽霊。この学校には幽霊がいるに違いない。階段で怪談に触れている。

「何か用があったの?」

「いいえ。好きだから、待っていました。先生のことが好きだから」

「鏑木くん。そういうのは困るよ。潔く断ってくれたらそれでいいって、鏑木くん、言っていたでしょう?」

「諦めきれなくて……」

 雪は周囲を気にした。誰かに聞かれていたら、教師生命を絶たれるかもしれない。

「諦めて。どうしても叶わないこともあるの。鏑木くんは先生に告白してくれた。先生はそれを断った。それがすべてなの。期待しないで。諦めることなの。教師と生徒っていうのはそういうもの。鏑木くんくらいの年頃だと、もう自分を大人だと思うのかもしれないけれど、年齢で考えてみて。まだ未成年でしょう。子供なの。子供の告白に応えるのはろくでもない大人。相手が先生ではなくても、よく覚えておいて」

 それは為倒ためごかしでもあった。自覚もしていた。そうやって教師としての矜持を保とうとした。

「分かっています。分かっているから苦しいんです……」

「そういう目で見るから、期待してしまうんじゃないの」

 伏せ気味の顔が、ふっと持ち上がった。美しい面構えが引き攣って歪む。硝子玉のように澄んだ目が、北側から入る呆気ない光を受けて潤んで見えた。


 雨が降り、夜空の下でアスファルトは外灯によって、白く照っていた。そしてその上に、雨粒だらけのビニール傘が転がっている。その傍には墨が降ったような光の届かない場所がある。そこには誰か、倒れている。アスファルトを濡らしているのは、果たして雨水であったろうか。

 雪は気付いてしまった。見知った服が、質量を包んでそこに寝ている。

「ああ……!そんな………」

 新しいパンプスに踵を苛まれていたことも忘れた。彼女は走った。濡れることも厭わず、アスファルトに膝をつく。

あられちゃん……!霰ちゃん……そんな………」

 弟だった!そこに仰向けに寝転んでいたのは弟であった。彼に持病はなかった。急病であろうか。雪は弟の身体を揺らすのをやめた。退勤後に、姉の元を訪れようとしたのだろう。スーツ姿であった。シャツに血が滲んでいる。二箇所、三箇所、四箇所、五、六……

「霰ちゃん……」

 そして我に帰った。高機能携帯電話を取り出した。救急車を呼ばなければならない。そして警察を……

「霰ちゃん……霰ちゃん…………お願い…………」

 雪は癇癪を起こしたようにぼそぼそと呟いた。


「先生」


 ぱんっ、ぱんっと暗闇のなかで何が破裂する。霧のような煙がまろみを帯びて爆誕し、透けながら形を変えて消えていく。火薬の匂いが鼻を突いた。ふたたび、ぱんっ、ぱんっと爆竹が鳴らされている。犯人はまだ傍にいる。

「ああ………あああ………」

 震えながら身を伏せ、雪は平たい携帯電話を頼るほかなかった。弟に縋りつき、泣きべそをかいた。鼻炎を起こしたみたいに鼻が詰まり、火薬の匂いはもう嗅げなかった。鼓膜を殴るような破裂の音もしなくなった。だが足音が近付いているのだった。


 かちゃ……かちゃ……くっ、くっ、こっ、こっ、ごりり……


 姿勢を低くしていた雪の視界に暗い色の長靴が入ってくる。それが救いの手とは思えなかった。見上げていく。雨粒をつけた丈長のレインコートの裾が見えた。その者はフードを被り、顔は見えなかった。黒い不織布のマスクがしっとりと暗闇を吸っている。

「え……?」

 目の前で閃光が走る。雪も持っている平たい小型の板とその奥の顔が見えた気がした。だが暗い中で強い光を向けられた雪の視界は少しの間、頼りにならなかった。

 長靴は踵を返した。路盤の細かな凹凸に挟まる砂利を踏み、薄らと層を作る雨水を散らしていく。


 雪は学年主任に頭を下げた。或る生徒にハラスメントをしたことについて注意を受けたのだった。尊厳を蹂躙するような、辛辣な言葉遣いは控えるようにとのことだった。まったく、身に覚えがない。

「申し訳ございません……」

 体罰も禁止され、正論であっても笑顔のひとつでも忘れたならば、飴のひとつでも与えなければ糾弾されるのが今の時代なのだという。

 雪は職員室を出た。またすぐに授業がある。溜息を吐いている暇はない。

 引戸を後ろ手に閉めた。

「先生」

 まだ、進行方向にさえ目を向けていないときだった。鏑木が出迎えるように立っている。雪がハラスメントを行ったという生徒は匿名だったらしいが、誰何すいかの必要はなかった。分かっていた。その者は今、目と鼻の先に佇んでいる。

「おはよう……」

 額に包帯を巻き、片腕を吊るし、片足を引き摺っている鏑木は、不気味な美貌に微笑みを浮かべた。

「おはようございます、先生」

「何か、用……?」

 上手く柔らかな表情を作れなかった。語気も威圧的になってしまう。

「荷物、お持ちしますよ」

 雪の手にはワークがタワーマンションみたいに重なっていた。採点が、各クラスの週番の回収に間に合わなかったのだ。

「鏑木くんは怪我しているでしょう。気持ちだけ受け取っておきます。ありがとう」

 反芻する。おかしなことは言っていないはずだ。自身の言葉は適切であっただろうか。揚げ足を取られはしないだろうか。

 職員室の前には生徒会室があった。そして職員室と生徒会室の間にはトイレがある。教室棟の西側にはトイレがないために、西側の教室を使っている者たちは、渡り廊下を通り、この職員室と生徒会室の間のトイレを主に使っていた。そこから牧村が出てきた。

「んお、とぉもとせんせ」

 それは闇夜の提灯であったのか。はたまた、余計にややこしくなるのか。だが雪は、助かったと思ってしまった。

「おはよう、牧村くん」

「おはよぉございます。せんせ、それ持とうか?重くないん?」

 いつもはふざけているが、根は気が利くのだろう。牧村からは壁に隠れて鏑木の姿は見えていないらしかった。雪は、断ったばかりの怪我人を一瞥してしまう。冷ややかな眼差しである。

「あら、牧村くん。お手々洗った?」

「当たり前ぢゃん。オレは手を洗う派なんだよ。水洗いだケドね~」

「そう。じゃあお願いしようかな。まだあるから……先に教卓に運んでおいてくれる?」

「ほ~い」

 そして受け取りにやってきた牧村は、鏑木に気付いた。気拙げな会釈を目にした。鏑木はそれに応えることもせず、足を引き摺り渡り廊下を行ってしまった。

「へへへ」

 咄嗟に牧村と顔を見合わせる。微苦笑を向けられた。

 雪が残りのワークを取ってくるまで、牧村は職員室の前で待っていた。彼女を見上げて人懐こく頬を緩める様はゴールデンレトリバーを彷彿とさせる。

「ありがとうね、牧村くん」

「ううん。この前お世話になりましたもん。オレは義理堅いんです!」

 2つの高層ビルみたいなのが教卓に置かれた。牧村はへらへらと笑って席に着く。ちょうどいいところでチャイムが鳴り、雪は生徒たちへ着席を呼びかけた。教室を見回した。しかしベランダ側まで視線を這わせることができなかった。きっさきのような眼差しを返されている。


「俺の純情を弄ぶからいけないんですよ、先生」

 首を絞められたわけでもないというのに、呼吸に満足できなかった。

「先生」

 酸素を求めた。酸素の代わりに、恐ろしい男を吸い寄せていた。鼻先のぶつかりそうなところに人影がある。ふっさりした長い睫毛に囲われて、ショコラみたいな色の瞳がじとりと雪を見ていた。目に入れても痛くない、などという大袈裟な慣用句があるけれど、本当に、目に入れてしまいそうであった。彼女に見えるのは、丸い泥水の中を揺らめくボウフラのような虹彩である。

「ひ……っ」

「先生……どうして俺を怖がるの?俺、先生に何かした?先生は俺より年上で、俺は教え子です。先生のほうが偉いのに、どうして俺を怖がるの?先生……」

 雪は肩で息をし、喘鳴を漏らしていた。顔の前には、白刃が閃いている。包丁である。

「そ……んな、…………」

「先生、ちゃんとお料理しているんですか?俺も先生の手料理、食べたいな……結婚したら、食べさせてくれるんですよね?」

 包丁の刃が翻される。きらり、きらり、輝く。

「う、うう………」

「先生、寒いの?温めてあげます。女の人は冷やしたら大変ですからね。特に先生は、俺の子を産むんだから……」

「そんなもの………しまって…………」

 その包丁を何に使う気なのだろう。一体何を切るというのだ。野菜も肉も魚も果物も、この家には置いていないというのに、一体何を加工するつもりなのだ。

 おそるおそる手を伸ばした。日常に潜む凶器を返してくれるかもしれなかった。

 親指に厳しく鋭い痛みが走る。

「あっ、アア……」

 痛みだけでは終われない。恐ろしさが痛覚を過敏にした。感情を刺激する。小さな痛みが命の危機を予感させる。

「先生……なんてことを」

 鏑木は刃物を捨てた。そして雪の手首を鷲掴むと、赤い玉を浮かべた彼女の親指を口に入れてしまった。

「先生……ああ………先生の味がする。先生の汗と血の味がします。先生………美味しい…………先生」

 彼は雪の指を啜り、掌まで食べる気らしかった。

「ひ、ひぃぃ……」

 声が出ない。顎ががたがた震え、歯がかちかち鳴っている。錆びついたブリキの軋るような音を喉から漏らし、咥えられた己の手を見るので精いっぱいであった。

「先生……美味しい…………先生、食べたい。もっと、食べたい」

 手が涎まみれになっていく。指はふやけていた。


 隣の隣のクラスで悲鳴を聞いた。怒声にも思えた。ベランダからである。慌ただしい声が聞こえ、それから廊下を走っていく生徒がいた。只事ではなさそうだった。生徒たちがベランダを気にする。雪は隣の教室を覗きにいった。生徒たちがベランダ側に集まってさらに隣の教室のほうに集まっていたし。数人はベランダへ出て、手摺の下を見ていた。雪は自身の受け持つクラスの隣の隣のクラス、7組へ顔を出した。やはり教員はいなかった。指示を出さなければならない立場になってしまった。

「何があったの?」

 騒然としている教室内では、声を張らなければならなかった。問題はベランダで起きている。人垣から離れている生徒が、窓ガラス越しに振り向いた。鏑木である。雪を捉え、口角を吊り上げる。鏑木が何かやった。この騒動を引き起こしたのは鏑木だ。嫌な確信があった。証拠がないのである。しかし確信が揺らぐことはない。

 彼女は生徒たちを掻き分けてベランダへ出る。

「牧村が転落しました」

 説明したのは鏑木である。あまりにも冷静な口振りであった。雪は手摺の下を覗いた。見慣れた制服姿が仰向けになって倒れている。頭の周りにだけ血溜まりができて、シャツがいつもより白く見えた。雪は肝を潰した。

「すぐに職員室に行って。もう行ってるの?」

 最西端8組の野次馬を掻き分け、外階段から下へ降りた。青空と対峙した牧村は微動だにしない。桃色がかった灰色の、豆腐の欠片みたいなものを飛散させ、その双眸は鏡面と化し空を映していた。鼻と耳からも出血が認められた。投げ出された手は朽ちた花を思わせる。

「牧村くん……?」

 開いたままの唇は乾き、薄皮は鱗のような模様を透かしていた。雪は、7組を見上げた。鏑木が、見下ろしている。クラスメイトを見ていたのだろうか。違う。あの男子生徒が見ているのは四肢を投げ出したクラスメイトではなかった。

「牧村くん……しっかりして。牧村くん」

 手を握った。力が感じられない。指は弛緩していた。

「牧村くん………牧村くん!」

 鏡面のような眼は空を茫然と凝らしたままだった。しかし唇がわずかに動く。音はなかった。握った手に、反応があったよう気がした。次々と、教師たちがやって来る。携帯電話を片手に、教頭が何やら喋っていた。野次馬がぞろぞろとベランダに溢れ返る。校庭からもぞくぞくと野次馬がやって来た。外から見たら、何かの行事に見えたことだろう。

 ドクターヘリが来るらしかった。体育の授業は中止になり、臨時集会が開かれるしい。

「牧村くん……」

 雪は、教師たちの会話を見上げていた。握った手にまた反応がある。

「せ………ん、せ」

 それが牧村から発せられた、最期の言葉だった。

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