episode 2
ドアノブを回した先は、思いの外小さな空間だった。
本が並べられているのは変わらない。けれどそれは先ほどまでの立派な本棚とは打って変わった、スチール製の簡素なものだった。納められた本の厚さはバラバラで、偉人の名前だろうか、背表紙にはどれも人の名前が刻まれている。見知らぬ名前ばかりだと、そう思っていた。
不意に、見覚えのある色が視界に映って、私は動きを止めた。深い紺青。左手の小説と同じ色。
綺麗だと思った。同時に、儚い色だとも。
厚みのないその本を手に取る。背表紙の名前など気にも留めずに。けれどそう、表紙にもその名前は刻まれてあった。青によく映える、白の文字。
『梁場圭吾』
瞬間、息が止まる。本を握った手の平から、じわりと嫌な汗がにじむ。
彼だった。今日死んだ彼の名前だった。
なぜ?
それしか考えられない。
冷たくなった手でページをめくる。パサリと、腕にかけていたブレザーが、青い小説が、音を立てて落ちる。目次のようなページ。ただ淡々と、年齢だけが刻まれたページ。
〇歳、一歳、二歳、三歳、四歳、―十五歳十一カ月二十八日。
やけにリアルな数字だった。最後の数字にそっと指を滑らせると、ひとりでにページが繰られてゆく。私は呆然とその様子を見ていることしかできなかった。
パチン
また、音がした。意識は、暗闇に沈んだ。
潮の香りが鼻腔をくすぐる。意識が覚醒したのと、肩ほどの黒髪が風に流されたのは、ほとんど同時だった。波の音だけが周囲に反響している。見覚えのない浜辺、
何が起こったのか分からなかった。混乱を隠すように周りを見渡して―、夕映え、唯一の人影に私の意識は吸い込まれた。
「圭吾」
彼が、生きている。私の目の前で。
「圭吾‼」
声は、届いていないようだった。彼はただじっと迫り引いていく波を見つめている。彼の瞳はかつてないほど赤く輝いていた。夕陽を受けているだけではない。丸い瞳の中で、何かが確かに燃えていた。
彼は立ち上がって歩き出す。まっすぐ、海に向かってまっすぐと。ふわふわとした覚束ない足取りで、それなのに一直線に歩いてゆく。
「だめ!圭吾!だめ‼」
反射的に、私も彼の元へ駆け出していた。それでも声は届かない。きっと、彼には私が見えていない。不確かな足もとと熱のこもった瞳のアンバランスさに背筋が寒くなる。届いていないと分かっても、声を張り上げずにはいられなかった。
「だめだってば圭吾!返事してよ!ねえ!」
気づけばもう腰まで海の中だ。シャツが肌に張り付いて気持ち悪い。波がまとわりつくようにうねりを繰り返す。波は嫌というほど私に迫ってくるのに、私の声は、手は、どれだけ伸ばしても彼に届かない。冷たい身体を引き戻せない。手首を掴むことさえできない。
「ねえってば…‼」
涙の粒が零れ落ちる。それすらも波に飲み込まれていく。
それ以上、彼に近づくことはできなかった。私よりも少しだけ大きい背は、なんの抵抗もしないままとぷんと海に消えた。ぷくぷくと小さな泡だけが海面に浮き上がる。直後、大きな泡が弾ける音がした。浮かび上がってくるであろう彼の姿を見るのが怖くて目をつむる。無意識に耳を塞いでいた。喉から声にならない叫びが漏れる。
「ひっ…あ、うぅ…ん、ぐ、あ、あ、あぁ…」
夕陽が沈み切った海は黒一色で、紺青なんて、やさしいものではなかった。
海水が容赦なく体温を奪う。意識が途切れていく。
海に消える直前、満足と諦めをたたえて映し出された彼の横顔が脳裏をよぎった。
あんな表情を、私は知らない。
アイミスユー、愛を込めて 中村千 @yuki_nakamura-003
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。アイミスユー、愛を込めての最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます