アイミスユー、愛を込めて

中村千

episode 1

 黒のブレザーを脱いで腕にかける。ふわりとお香の匂いがただよって、顔をしかめてしまう。無意識だ。嗅ぎ慣れない匂いはツンと鼻の奥を刺激する。不意に、薄く涙の膜が張る。

「なんでだろう」

呟いても言葉は帰ってこない。やけに広い道路と迫り来るマンションの影に、私は勝てそうになくて、縮こまりながら茜色の道を歩いた。

 報せは突然だった。他愛のない会話の下に奇妙なほど畏まった文面が送られてきたのは。

『―の母です。今日、―が亡くなりました。生前仲良くしていただき本当にありがとうございました。もしご都合がよろしければ、葬儀に参列していただけると―も喜ぶと思います。』

 続けて送られてきた葬儀会社の地図を示すURLを、私はどれだけ見つめていただろう。涙が流れるほど、淡い衝撃ではなかった。

 スマートフォンを机に置く。もう一度、手を伸ばす。二度目の画面は震えていた。


「…なんでだろう」

 全く分からない、わけではなかった。前日まで、彼とはよくやり取りをしていた。

 内容は、そう、他愛もないもの。最近ハマっている漫画の話、部活とか、高校生活の話。最近新しい友達ができたと話して、自分のことのように喜んでくれたのは彼だった。

『俺と違って、すぐ人と仲良くなれてすごいな』

俺なんかまだ部活のやつくらいしかちゃんと名前覚えてないよ。そうメッセージを送った彼の顔は、笑っていただろうか。

 彼は走ることが好きだったけれど、同じくらい読書家で、仄暗い小説を好んで読んでいた。どうもバッドエンドが好きなわけではないらしいと、知ったのはつい先日で。ハッピーエンドが好きな私は、彼がすすめてくれた本を読まなかったことを後悔した。なんという本だっただろう。スマートフォンに残るメッセージ履歴が頭をよぎる。

 ポケットを探る手に触れた丸い物質にはっとした。生温かい数珠。途端に、ぼやけていた景色が形を取り戻していく。ざっと、砂嵐のような幻聴が鼓膜を打つ。

「…あ」

 そこで初めて足が止まる。気づけば自宅の近くの通りにまでやって来ていたようだ。

 幾度となく通った道。そこに一つ、ぽつんとたたずむそれに、違和感を覚える。

『こんなお店あったっけ』

木の温かみを感じる、小さな建物。人がいる気配はない。それなのに、オレンジ色の柔らかな光はまるで誰かを暖めているかのようで、私の足は無意識にそちらに向かっていた。

―まちの図書館―

 ひかえめな、木製の看板に刻まれていたのはたったの六文字。すり硝子のはまった格子窓は中を見せようとはしない。

 ―まちの図書館。六文字分の情報に、私はなぜかひかれてしまう。

 彼のすすめた本のこと、記憶をかすめるその直前に、私はドアノブを掴んでいた。

 カラン。予期せぬベルの音に、思わず身体が跳ねる。図書館のドアにベルがついているなんて、誰が想像するだろうか。こんな、カフェのようなおしゃれなベルが。

 一瞬間途切れた意識を、すうと前に向ける。刹那、押し寄せた圧に私は息を呑んだ。


 壁一面の本棚。いや、四面だ。所狭しと並べられた本が、私にぐいと迫って来る。

 振り向けば、本棚になっていないのは出入り口のドアと窓がはめられた部分だけ。硝子を通して柔らかく伝えられた光が、荘厳な空間を満たしている。

 私は、息をするのも忘れて。ただ呆然と、そこに立ち尽くしていた。きちんと整えて納められた本たち。背表紙は光を浴びて、艶々と美しく輝いている。淡い色はより神々しく、濃厚な色は深い影を加えて。箔押しで描かれたタイトルはキラキラと光り、辺りを照らす。あでやかな光が一枚の張り紙を照らしているのに気づいて、私はようやく意識が戻ってくるのを感じた。

 ご自由に閲覧ください、その言葉が、私の鼓動をいささか落ち着けた。そう、ここはまちの図書館。“図書館”であったのだと。


 彼のすすめていた本を探そうと思っていた。その為にここに入った、はずだ。


 未だにうるさい心臓を押さえながら、私は一歩足を踏み出す。もう一歩。もう一歩と歩む度に、木張りの床がその体を揺らす。ギシ、と音が鳴った。それでも私の足はどこかふわふわとして、何か夢でも見ているみたいだと脳内の自分だけが冷静に言った。本の題名を思い浮かべる。「小舟はいずこ」。元は子ども向けであったものを、大人向けに少し加筆修正したものらしいと、彼は語っていた。

 背表紙に刻まれたタイトルを眺めて考える。丁寧に並べられてはいるが、題名や作者名の順に並んでいるのではないようだ。今世間で話題の若手作家の作品の横には、古い黄ばんだ英語の作品がずっしり鎮座していた。その横には、まだ新しい、綺麗に装飾された本。その横には、植物図鑑。その横には…。

 絶え間なく動いていた瞳がぴたりと止まる。青い背に白い文字、見たことがないはずなのに、なぜか懐かしい、鮮烈なコントラストが眼を焼いた。

「あ、るんだ」

本で埋め尽くされているといえども、この小さな建物に、まさか探しているものがあるとは思わなくて目を見張る。それは、小さな文庫本だった。

 そっと、静かに手を伸ばす。紺青を抜き取った右手は震えていた。

 シンプルな表紙だった。深い青に、白い文字で刻まれたタイトルと作者名。聞いたことのない名前だ。すっと表紙をなぞって、そのさらりとした質感に思わず笑みがこぼれる。それと同時にじわりと潤むまなこは、知らないふりをして。

 裏表紙のあらすじに目を通す。小さな島に住む一人の少女と、時折舟でその島にやってくる男。そんな二人は次第に打ちとけあって、家族のような関係になっていく―。

 あらすじはそこで途切れていた。どうやら、ただの恋愛物語、といったものではないらしい。家族のような関係。それほどまでに深く繋がった二人の間には、どんな感情と背景が隠されているのだろう。そう考えれば考えるほど、心の後悔は重くなる。

 彼が生きているうちに、話がしたかった。今更そんなことを言ったって、誰にも届かない。

 いつか、バッドエンドが苦手だとこぼして、それでも唯一すすめてくれたのがこの本だった。あらすじの隣に白で描かれた小舟のイラストは、まるで本当に海を征く男の舟のようで、しかし誰も乗せてはいない。いつか海辺の町でのんびり暮らしたい、なんて、彼が言っていたのを思い出す。もう永遠に来ない彼の“いつか”は一体何処の海にただよっているのか。

 そこまで思いを巡らせて、はたと顔を上げる。何か椅子はなかったか。流石にこのまま立って読むのは疲れるだろう。借りていけたらいいのだが、どうもそのあたりがよく分からない。一角に設置されたカウンターが目に入る。けれど依然として人の気配はなく、手中の本にもバーコードらしきものは見当たらない。下手に持ち出すことなんてできそうもなかった。

 もう一度、ぐるりと辺りを見回す。丁度後ろの右手側、影になっている場所に、重厚な質感の階段があるのが見えた。どうして初めに入った時は気づかなかったのだろう。たとえ影になっていたって、こんな階段、見逃すわけがないのに。首を傾げるが、気づかなかったものは仕方ない。それにしても、この階段は館内の雰囲気によく合っていた。階段の全貌を視界に収めようと、少しずつ後ろに歩を進める。

「立派な階段…っ!」

しまった。後ろに本棚があるのを忘れていた。なかなかな音を立ててぶつけた頭をさする。

カチリ

「え?」

その時、音がした。時計の秒針が立てたようなその音は、徐々に地割れのような音に変わっていく。

「何…⁉」

鳴り止まない轟音に目をきつく閉じる。何が起こっているのか分からなかった。地震かと疑うけれど、それにしては揺れを感じない。照明が揺れている気配もない。


 数十秒、経っただろうか。ぱたりと音が止んで、私は恐る恐る目を開く。眩しさに目を瞬かせたのも束の間、また目が大きく見開かれているのが分かった。

「今度は何⁉」

一体、この館は幾度私を驚かせば気がすむのだろう。本がずらりと並んでいたはずの眼前には、一枚の扉が現れていた。

 小さく溜息を吐く。ここまで来たら、開けるしかないじゃないか。


 ここはもう図書館じゃない。一種のカラクリ館だ。

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