セージ草

 ドミトル教授は、ひどく苛々した様子で、部屋の中をゆっくり歩きまわっていた。

 一方、ココは椅子に腰かけたまま、卓の上にある燭台をじっと見つめていた。

 すると突然、大きな物音がした。どうやら、ドミトル教授が側にあった戸棚を拳で叩いたようだ。

 ココはその大きな音に思わず体を震わせそうになった。が、ぐっとこらえた。

 気取られてはいけない。

 平然と、悠々と振舞わなければ。彼の思う壺だ。


 ココは視線を燭台から逸らすことなく言った。


「そんなに大きな音をたてて。どうなされたんです?」

「実に不愉快だ。君は自分の力を、過信しているようだな」

「あら、おかしいですね。先ほどはお褒め頂いていたのに。あれは嘘だったのですか」


 ココが不敵に笑ってみせると、怒りを押し殺したような声が返ってくる。


「優秀な人間でも、分をわきまえることは大切なのだよ」

「なるほど。大学の学生たちも、分をわきまえていなかったと?」

「そうだ。彼女たちは身分を傘にきて、ただおごり高ぶるばかりの愚か者たちだった。なのに心の中には、一人前にも闇を抱えている。愛されない、満たされないと、嘆いている。君も見ていて滑稽だと思わなかったかね? 僕は彼女たちが哀れで可愛そうで仕方なかったのだよ。あんな醜い生き物、見ていられなかった。だから導いてやったんだ」

「盗みや嫌がらせをさせて、いったいどこへ導くつもりだったんですか?」


 喉から思いがけず低い声が出る。一方、ドミトル教授はくつくつと笑った。


「別に行いは何でも良かったのだよ。僕の言うとおりに行動すること、それ自体が、彼女たちにとっては救いだったのだ。あの女学生たちは、自分の頭では何も考えられない『羊』であるからな。ここへ行け、あれをしろと、導いてやる者が必要なのだ」

「それであなたは、その『羊』たちを導く『羊飼い』というわけですか」

「当たり前だ。僕があの『羊』たちと同じわけがなかろう。頭が空っぽの彼女たちとは、人としての格が違う」


 ドミトル教授は嘲笑するようにふんと鼻を鳴らした。


「君も知っているはずだ。学生が僕のお気に入りの万年筆を盗んだことを。あれは本当に素晴らしいアイデアだったと思わないかね。まさか万年筆を盗まれた僕が、学生に盗みをさせていた張本人だなんて、誰も想像もしなかった! 僕の頭脳には誰も及ばないのだ」


 教授は天井に向かって手を伸ばした。神に賛美を乞うように。


 確かにココも、ドミトル教授はサルヴィエの被害者だと思っていた。ルスランやノア、大学の関係者もみんな騙されていた。


(だけど、なんだか……)


 今の教授は、ひどく滑稽に思える。まるで幼い子どもが、大きなカマキリでも見つけて見せびらかしているようだ。自分はこんなにすごいことができるんだぞ、と。声高に叫んでいる。

 

「私には、あなたも『羊』のように見えますけれど」


 そう静かに言ったココに、教授は天を仰いだまま、眼球だけをココへ向けた。


「僕の聞き間違いかな。今、失礼な言葉が聞こえた気がしたが」

「聞き取れなかったですか。じゃあもう一度言います。愛されたい、満たされたい、と望んでいるのはあなたも同じではないですか。とある人物からあなたの過去についてお聞きしました。あなたは、お父様から見放され、一度ドミトル家へ養子に出されたそうですね。そして、この家の家督は最初、弟君が継がれる予定だった」


 これは貴族の学生たちに聞いて、知ったことだった。


「御父上はたいそう厳しい方であったとか。あなたはいつも叱責されていて、御父上に認められることはなかった。さらに御父上はあなただけでなく、御母上にも怒鳴ったり手を挙げたりすることもあったと」

「庶民が貴族の事情に口を挟むな。高貴な者には、おまえなどには到底理解できぬ葛藤があるのだ。父は、素晴らしい伯爵だった」


 絞り出されるようなその声を、聞こえていない振りをしてココは続ける。


「御父上からの叱責も、御母上への暴力も、幼いあなたにとっては恐ろしい体験だったでしょう。小さな子どもが心に傷トラウマを抱えてもおかしくない」

「くくっ。君はそれで僕の心を読んだつもりなのか。残念だが、僕には恐ろしいものなどない。怯えているのは女たちの方だ」

「いいえ、あなたは恐かったんです。だから、自分自身も御父上のように振る舞うことで、その恐怖に打ち勝とうとした」


 恐怖に対する心の反応は人によって様々だ。恐怖の対象から逃げようとする者、感情を失くし無反応になる者、恐怖を別の感情、例えば愛情にすり替える、愛情だと思い込む者。そして、自分自身が恐怖の対象になりきることで、その恐怖を乗り越えようとする者。


「あなたはメイドさんや女学生たちを支配することで、自分は強くなったと、そう思いたかったんでしょう。もう子どもの頃の自分とは違うと、そう思えるものがないと、不安で仕方なかった」

「違う。僕は哀れな女たちを救ってやっていたんだ。おまえもそうだ。あの若い医者に良いように使われて、他の学生よりは多少ましかもしれないが、結局は自分で何も考えられない『羊』だろう。だから僕が救ってやろうと言っているんだ」 

「けっこうです。『羊』はあなたに救ってもらわなくても、楽しく生きてますから」

「本当にそうかな? 人は衣食住が満たされると、次の次元の欲が出てくるものだ。君は今まで衣食住を得るのに随分苦労していたようだが、それが満たされた今、今度は周りの人間からの賞賛を求めているのではないか?」

「それはあなたの方でしょう、教授。教授は御父上が怖くて仕方なかった一方で、そんな御父上に認められることを渇望しておられた」

「黙れ。何度も父のことを持ち出すな」

「なのに、御父上はあなたの努力には応えてくれず、結局、あなたは家から追い出され、選ばれたのは弟君だった。辛いことだったでしょう」

「黙れと言っている! いい加減その汚い口を閉じろ!」


 ドミトル教授は、壁を拳で叩いた。また大きな音が部屋にこだまする。


(大丈夫)


 彼は絶対に直接手は出してこない。メイドたちにしていた暴力も、あれはメイド自身にさせていたことなのだ。洗脳して、命令してさせていたこと。

 ココにはその確信があった。

 なぜなら、彼は自分の頭脳、知識に絶大な誇りを持っている。それを心のよりどころとしている。自分の尊厳の、核だと思っている。だから、真っ先に暴力でねじ伏せるような真似は、絶対にしない。

 だって――。


「あなたが『占い師サルヴィエ』と名乗ったのは、自分のを、誰かに認めて欲しかったからでしょう?」


 ――サルヴィエ。


 それは西の国の言葉でセージ草を指し、”賢者”を象徴する植物の名であった。


 ◆ ◆ ◆

 

 ルスランはペトラと共に、屋敷の裏口から行商のふりをして潜入していた。

 ココとはまた別の応接間に通されたのち、変装を解く。

 急に現れたルスランの姿に、メイドたちはおののいていた。


「どうか静かに。私たちは、あなたがたに危害を加えに来たわけではありません」


 動揺するメイドたちを何とかなだめ言った。


「実は、私たちは、ドミトル教授が大学で犯していた罪の証拠を探しに来たんです」


 ルスランは、単刀直入に、これ以上ないくらい真っすぐに要求を伝えた。

 隣でペトラが少々面食らっていたが、構わない。

 彼女たちには、変に回りくどく言わない方がいいと思ったのだ。


「教授は大学で女学生たちを操り、不法なことをさせていました。そしてあなた方のことも、虐げ傷つけているのではないですか?」


 メイドたちは不安げな様子で互いに顔を見合わせる。

 ルスランが黙っていると、手前にいたメイドが呟いた。


「あれは皿を割って……」

「私は医者です。あの傷が偶然できたものでないことくらい分かります。もう嘘は言わなくていいんです。本当のことを話してくれれば、あなた方を解放することができる」


 メイドたちはどうしたものかと困っている様子であったが、やがてその内の一人が意を決したように、口を開いた。


「伯爵様は……」


 しかしその声は、別のメイドにかき消された。


「およし。ご当主様がいなくなったら、私たちがどうなるか考えな。私たちに行くところなんかあるもんか」


 そう言い放ったメイドに向かって、口を開いたのはペトラだった。


「私は監査局の次官です。もし、伯爵が隠している証拠の在処を教えて頂けるなら、私が責任をもってあなた方に新しい仕事を斡旋いたします」


 ペトラに続いてルスランもメイドたちに言う。


「今、私の助手が、といっても最近はどっちが助手だかわかりませんが。とにかく、女性が一人教授に会いに来ていると思います。彼女は、私があなた方と話す時間をつくるために、一人で教授を足止めしてくれている。彼女の勇気を無駄にしないためにも、あなたたちが話してくれるまで、私たちは退くわけにはいきません」


 メイドたちは互いに顔を見合わせ、ひそひそと話しはじめた。ルスランは急く気持ちを抑え、彼女たちの返答を待つ。すると急に彼女たちの声がやんだ。メイドたちの後ろから、誰か部屋に入ってきたようだ。


「この子たちには荷が重いでしょう。私がお話します」


 静かな品のある声。

 メイドたちがすっと下がるとそこには、ドミトル教授の母、カタリーナ・ゾルゲルが立っていた。

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