妖精はりんごに宿る

 厨房の片隅で、ココはマリー・ビッツと向かい合って座っていた。

 組んだ指の上に顎を置くと、ぐっと目に力を入れマリーを見つめる。

 二人のただならぬ雰囲気を察してか、離れたところからノアとミランダおばさんが固唾をのんで様子をうかがっていた。


「いいか、マリー女史。我々の目標は、食事を変えることであなたを美しいレディへと変貌させることである」

「え、ええ」


 マリーは不安そうな表情をしているが、ココは構うことなく本題に入る。まずはマリーの食生活について確認だ。普段どんなものを食べていて、何を食べていないかを聞き出す。


 すると分かったことは、彼女は肉や野菜をほとんど食べていないということだった。


 マリーは寮生なので三食食堂の料理を食べていたのだが、太ると思って肉は食べず、野菜は好みでないから食べず、ということをしていたらしい。 

 当然それではお腹がすくので、パウンドケーキやクッキーなどを買ってきて腹を満たしていたという。


 なぜ食堂の食事をとっていて、ここまで肌荒れして太ってしまったのかココは不思議に思っていたのだが、話を聞いて納得した。

 そして、やるべきことも決まった。


「ではさっそくはじめよう」


 ココは立ち上がった。

 外の食在庫から必要な食材を取ってきて、厨房の調理台にどさっと置く。その食材を見てマリーが眉をひそめた。


「野菜ばっかりだわ」

「そう。野菜は、お腹の中にいる妖精のエサになるんだよ。まずは妖精を元気にしてやらないと」

「ちょ、え? お腹に妖精がいるってどういうこと⁈」


 マリーのに目には怪訝を通り越して、恐怖の色が映っている。


「ああ。うちの家では人間のお腹の中に妖精が棲んでる。って言い伝えがあるんだよ。その妖精たちの元気がなくなると、肌が荒れるし体調も悪くなる」

「そんなのはじめて聞いたわ……その妖精は一体、どんな姿なのかしら?」

「え……姿? それは、まあ………………ウサギ、さんみたいな?」


 ココが首を傾げながら言うと、マリーは「なんちゅう適当な」とでも言いたげな表情をした。


 しかしココとて言い伝えで妖精の話を聞いているだけで、自分で直接妖精の姿を見たことはないのだ。もしかすると婆様の妄想だったという可能性もある。

 でもココは、お腹、ひいては腸に何かいるのは本当ではないかと思っていた。それが妖精か、神様か、はたまた悪魔かは分からないが、呼び方なんてなんだっていい。


 言えるのは、が人間の食べるものによって機嫌を変えるということ。

 そしてが機嫌を損ねると、人間の体に良からぬことが起きるということだ。


「そっか。よく分からないけど大事なのね。でも……私、そんなにたくさん野菜を食べる自信ないわ」

「大丈夫。食べられるよ」

「何で言い切れるの」

「食べたくなるように、魔法を使うから」


 にしし、と微笑むとココはすちゃっと包丁を構える。子気味良い音を立て、トマト、玉ねぎ、キュウリを刻み、オレンジも皮を剥いてサイコロ状にカット。それらを鼻歌混じりでボウルに入れ、オリーブ油、塩、蜂蜜、そして『うす黄色の液体』を回しかける。最後にバジルとミントを手でちぎって振りかけたら完成だ。


「これは何? サラダなのかしら?」

「うん、『小悪魔サラダ』だよ」


 マリーは「なんといいうことでしょう」と言わんばかりに目を見開き口を押えた。ほんとに、ころころ表情が変わる。面白い女である。


「ま、とにかく食べてみて。食べても呪われることはないから」


 マリーは恐る恐るスプーンで『小悪魔サラダ』をすくって口に入れる。ゆっくりした咀嚼音は、しかし次第に速くなっていった。マリーの目がキラリ、輝く。


「一体何なのこれは。甘酸っぱくて、こんなの……」


 言いながらもマリーの手はとまらない。

 呪われることはないと言ったが、それは嘘だったかもしれない。マリーは小悪魔に魅入られたように、サラダに夢中になっていた。


 さて、野菜嫌いのマリーをすっかり虜にしてしまったこの魔法。肝は、先ほど使った『うす黄色の液体』にある。


 正体はりんご酢。


 ココの手作りで、りんごを数ヶ月発酵させてつくったものだ。

 実は、このりんご酢にも小さな妖精が宿っていて、お腹の妖精たちが元気をなくしているときは、このりんご酢のように他の妖精が宿っている食べものを食べ、妖精の仲間を増やしてやることも大切なのである。


(りんご酢だいぶ減っちゃったな)


 色んな料理に使えるりんご酢はすぐになくなってしまう。作成には時間がかかるので、また早めに仕込んでおこう。


 マリーはあっという間に『小悪魔サラダ』を食べてしまった。しばらくマリーには通常メニューより多めの野菜を食べてもらう。彼女の肌を見る限り、マリーの腹にいる妖精は相当、元気をなくしていると推測されるからだ。


「あとは、肉や魚もちゃんと食べること」

「どうして? そんなことしたら太ってしまうわ」

「逆だよ。ちゃんと食べないから、いつまでも食欲が抑えられなくて食べすぎちゃうんだよ」


 人間の体は、必要な栄養が満たされないと、その栄養が満たされるまで食べものを探し回るようになっている。これはたとえお腹が一杯でも関係ない。不足している栄養がある限り、食欲は収まらないのだ。

 逆に考えれば、必要な栄養を採っていれば異常な食欲は湧きおこらないということである。


「毎食、手のひらくらいの肉か魚をちゃんと食べてね」


 こうしてマリーの食事改善がはじまったのだった。

 

◇ ◇ ◇


 マリーが野菜も肉もしっかり食べるようになってから、ケーキやクッキーなどそれまで大量に食べていた間食の量は自然と減ってきていた。顔にあった赤いブツブツも随分減って、心なしか顔も体もすっきりしてきている。


(そろそろ食堂の普通のメニューを食べてもらうので良さそうかな)


 そんなことを考えながら、ココはりんごを切っていた。

 ザクザク一口大にカットして、皮のまま、煮沸消毒した瓶に入れていく。上から砂糖と水を入れて、瓶の口を布でおおって紐でとめた。


 新しいりんご酢の仕込みである。


 妖精はりんごのに宿っているので、こうやって皮ごと瓶に入れておくだけで、りんごを酢に変えてくれるのだ。


 ただし妖精の機嫌を損ねないようにいくつか注意する点がある。瓶を煮沸消毒するのもその一つだ。妖精はキレイ好きなので、りんごを入れる瓶はキレイにしておかないといけない。さらに瓶のふたに布を使うのも、りんごに宿った妖精がちゃんと呼吸できるようにする配慮。空気の通らないふたで瓶を閉じると、妖精が怒って瓶を割ってしまうことがある。

 妖精というのは、非常に繊細で怒りっぽい奴なのである。


 ただ、仕事は一流といえる。


 ココは以前作っておいたりんご酢の瓶を取り出した。蓋を開けて長いスプーンで中身をかき混ぜ新鮮な空気を妖精に届ける。

 その際、ふわっといい香りがココの鼻をくすぐった。

 りんごの爽やかな香りに混じる、この香りはしかし、まだ「酢」の香りではない――。 


「あんまり吸うとくらくらするね」


 妖精はその種類によって色んなおいしいものを作ってくれるが、りんごの皮についている妖精が作るのは、酢だけではない。実はりんごを酢に変える過程で、酒もつくってしまうのだ。つまり、りんごは一度「酒」になり、さらにその「酒」が「酢」へと変貌を遂げるのだ。


 このことは世界中の言葉にも表れていて、西で使われるビネガー、ビネイグルという言葉は「ワイン」と「すっぱい」がくっついた言葉であるし、東では「酢」と「酒」の文字に共通した構造がある。

 酢は何千年も昔からあると言われるだけあって、言葉にもその生成過程が現れているというのは面白いなあ、とココは昔、父の本を読んで思ったものだった。


「うん。良い感じ」


 ココはりんご酢をかき混ぜる手をとめ、再び布で瓶をふたした。




 りんご酢の仕込みも、マリーの食事改善も、順調に進んでいる。

 そう思われた矢先。

 問題が起きた。


「私、もうやめるわ」


 突然マリーが計画を中断したいと言い出した。


「何でやめたいの?」

「何でもよ」


 言われてココは、ふむと腕を組む。

 実はこの三日間、大学の授業は休みだった。マリーは実家に帰りたいというので、マリー用のレシピ帖を持って帰らせたのだが。ひょっとすると。


「家でレシピ以外のものを食べちゃったの?」


 マリーは目を合わせようとしない。図星のようだ。

 ココがじっとマリーを見つめていると、マリーの目から涙が溢れてきた。


「やっぱり私、ダメなのよ。こういうのいつも続けられないの。こんなんじゃ、綺麗になる資格なんかないわ」


 食事改善ダイエット中に少々間食をしてしまったからといって、泣くほどのことではないだろう。

 しかしおそらく、彼女はずっとそのことを、食べたい欲求を抑えられない自分のことを、責めてきたのだ。自制心のない、意志の弱い人間だと。そして苦しくなってまた、必要以上に食べものを貪る。そうなればもう自責と過食の輪の中をぐるぐる巡るだけ。食はもはや喜びでも楽しみでもなく、自分を虐待する道具に成り下がる。


(だけどそれは)


 意志の弱さが、原因ではないのだ。

 過食になる最初のきっかけは、心ではなく体の方にある。

 ココには一つ思い当たることがあった。


「肉や魚、ちゃんと食べてた?」

「……う、うん……。いや、うそ。あんまり。食べてなかった」

 マリーは小さな声で答えた。

「どうして食べなかったの?」

「だって、肌も綺麗になってきてたし体重も減ってきたから。もっと頑張ろうと思ったのよ。肉を我慢したらもっと早く、綺麗になれると思ったの」


 マリーが間食に手を出してしまったのは、おそらくこれが原因だ。

 人間の体はそもそも食欲を我慢するようにできていない。

 食べることは、生きること。

 本来生きるのに必要な栄養素まで断たれてしまったマリーの体は、必死に食べたい、生きたいと叫んでいたのだ。 なのにその声を、食べたい欲求を抑え込もうとするなんて、それは生きることを拒むのと一緒だ。


「そんなの苦しいに決まってるよ。いいんだよ肉も魚も食べて。大丈夫。お腹いっぱい食べても、あなたは綺麗になれるから」


 ぐずっていたマリーは、今や大声でわんわん泣いていた。まるでお腹をすかせた赤ん坊である。


「もう、そんなに泣いたら干からびちゃうよ。ほら、そこ座って」


 ココは食糧庫に行くと、熟成したりんご酢の瓶に、それから鶏肉や野菜を腕一杯に抱え、マリーの待つ厨房へ戻っていった。

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