夜道をゆくのは何のため

 ココは、ノアと一緒に学舎最上階の窓から、中庭の様子をうかがっていた。


「おまえ、そんな高価な物どこで手に入れたんだよ」

「どこだっていいでしょ」


 ココが両の目に当てているのは双眼鏡である。


「おお? おぉぉほほほ!」


 ココは双眼鏡を覗きながら片手でポケットをゴソゴソあさり、取り出した干し肉を嚙み千切った。


「ほらほら! ノア、見てよ。マリーったら、また男の人に声をかけられてる」

「わぁかったから、そんなでかい声出すなって」

「まったくだな」


 最後の声が聞こえたと同時に、ココの目の焦点が中庭から学舎の窓ガラスへ移った。磨き上げられたガラスには自分とノア、そしてその後ろに双眼鏡を手にした白髪碧眼の男が写っていた。


「ああんもう。いいところだったのに。何するんですか」

「これは鳥を見たいというから貸したはずだけど」

「ええ、だから鳥見てましたよ。すんごい鳥だったなあ。早くしないと逃げちゃうなあ」

「嘘言うんじゃない。マリーがどうの、男がどうのと叫んでいただろう」

「それは……あれですよ。鳥を見てたら、マリーたちが視界に入って来たんです。そうだよね?」


 と振られたノアは返事の代わりに、ココとルスランの後ろを指差す。

 二人がふり返ると、廊下の向こうからパタパタと青年が走ってくるのが見えた。


「ドクター! こんなところにいらっしゃったんですか!」

「どうしたんだいそんな慌てて」


 青年はココたちのそばへやってくると、膝に手をついて息絶え絶えながら声をひねりだす。


「今さっき、学長から連絡があって。学生の一人が……自宅で、自死をはかったと。ドクターの患者、だった学生です」


 さっとルスランの顔が険しくなった。

 隣でココもぐっと息を詰める。何だか嫌な予感がした。

 その予感が当たらなければいいのにと思いながら、ルスランの声を聞く。


「その学生の名は?」


 悪い予感というのは得てして当たるものらしい。

 青年が告げた名は、アンナ・ルイーズ。

 ネズミの一件でココが世話をした女学生の名だった。



 ◇ ◇ ◇



 その夜、ルスランは厨房に現れなかった。

 ココが宿舎に戻ると、先に宿舎へ戻ったノアが、談話室のソファに腰かけババロアの腹を撫でていた。

 ココはその隣に座ってきのこをむしりながら、昼間聞いた話を思い出す。


 ルスランのところへ報せにきた青年の話では、アンナは自宅で自死を図ったが、発見が早かったため一命はとりとめたとのことだった。今はルイーズ家お抱えの医者の手当を受け、容体も安定しているという。


 アンナの命が助かったことにほっと胸をなでおろしたココであるが、ただ気になるのは、なぜアンナが自ら命を断とうとしたのか、である。

 ネズミの件は一応の解決を見たわけであるし、仮に彼女がネズミのことを蒸し返したとして、まさかそれが原因で命を断とうとしたとは考えにくい。彼女は何か他に悩んでいたことがあったということだろう。

 そこでココは、ずっと引っかかっていたあることを思い出した。アンナが夜遅くに人気のない道を通っていたことだ。もしかすると、アンナの抱えていた悩みと何か関連があったのだろうか。


 ううむ、と腕を組み眉間に皺を寄せるココ。そんな彼女を気遣わしげに見ていたノアは、立ち上がると、ココの腕を引っ張っぱって言った。


「よし。気分転換しようぜ。今度はお前の番だ」


 え、という間もなく、ココはノアに引きずられていく。

 やってきたのは彼の部屋の前。ノアは扉の取っ手に手をかけると、そのままココをふり返った。


「そういや部屋に入る前に、言っとかなきゃいけないことがあるんだけど……」


 ノアはなにやら神妙な面持ちである。


「どうしたの?」

「実は、部屋の中に……おれの恋人がいるんだ」


 その言葉に、ココは目を見開いた。

(ノアってば)

 いつの間に男を連れ込んでいたのだろう。全く気づかなかった。

 今まで友人といういうものがいなかったココにとって、友人の恋人を紹介されることももちろん初めてのことである。

 ココはごくりと唾を飲み込む。と同時に、部屋の扉が開かれた。

 部屋の中は、小綺麗に整えられていて、可愛らしい小物や色とりどりのクッションが置かれている。

 そして、その部屋に負けず劣らずの輝きを放っている、金髪の美丈夫。

 が、たくさんいた。


「ノア、これって……」

「俺の恋人。フランソワ・フランボワーズだ」


 言いながらノアは壁に頬ずりしていた。壁には大勢のフランソワ・フランボワーズがそれぞれ違ったポーズをとって貼りついている。

 確か、オペラ歌手だったと記憶しているが、こんなにたくさん見るのは初めてだった。


「えっと、これってつまり。ノアは、フランソワを信仰してるってことだよね。本当に彼の恋人ってわけじゃなく――」

「なに? よく聞こえない」


 というノアの目が血走っていた。ココは、ひっと小さく声を上げる。

 どうやら失言してしまったようだ。確かに心のうちで何をどう思っていようと人の勝手。自由だ。ココだってきのこに名前をつけたり話しかけたりしているのだから、同じようなものである。


 ココは「やっぱり、何でもない」と応えて、しかし大勢のフランソワ・フランボワーズに見つめられていることにそわそわしてしまって、思わず目線を本棚へ移した。

 そしてある違和感を覚える。


(あれ? 本棚?)


「ノア、本は読まないんじゃなかったっけ」

「ん? ああ、こういうのは別だ。見てみろよ、挿絵がいっぱいあって読みやすいぞ」


 ココは一つ手に取って、中をぱらぱらめくってみた。確かに挿絵が多く、絵を見ているだけでも面白い。なかには、リリとララにはまだ見せられないようなものも。あった。


「ココもたまにはこういうの読んでみろよ。小難しい本ばっか読んでないでさ」


 ココはふむ、と顎を指で撫でる。

 確かに何事も経験である。


「……じゃあ、堅物の騎士ナイトが出てくるのとか、ある?」

「もちろん。おまえ意外と王道派だな」


 ココは『モミオとユリエット~伯爵家の戯れ~』と書かれた本を受け取ると、そのまま鏡台の前に連れて行かれ椅子に座らされた。

 何をされるのかと思えば、編んでいた髪をほどかれる。どうやらノアが髪を梳いてくれるらしい。が。


「くっ、櫛が通らねえ。おい、ココ。もっとこまめに手入れしろよ。髪が泣いてるぞ」

「髪に目はないよ」

「そういうこと言ってんじゃねえ」


 言いながらノアは、引き出しから洒落た小瓶を取りだした。中の液体を掌に出して、ココの髪にもみこんでいく。

 ふわっと、良い香りがココを包み込んだ。


「この香りは、ジャスミン?」

「うんジャスミンの髪油ヘアオイル。おれのお気に入りなんだ」


 髪油ヘアオイルの効果は絶大で、髪にするすると櫛が通るようになる。

 ノアの手つきはずいぶん慣れた様子で、心地よかった。こういうことも小姓時代に練習したのだろうか。


「ノアってさ、なんで小姓になったの?」


 けっこう粗野な感じなのに、と付け加えると、コイン禿作ってやろうか、と応戦された。ははっ、とココが笑う。


「まあ、あれだ。おれ戦災孤児なんだ。小姓はさ、孤児とか異国の捕虜とかそういう人間が選ばれるんだよ。一種の慈善事業? みたいなもんだな」


 小姓というと、てっきりいいところの家から選ばれるのだと思っていたココにとって、それは意外な事実だった。


「でも小姓っていったらエリート候補だろ? おれも一応基準クリアしてたから選んでもらったわけだけど、だんだん勉強ついていけなくなってさ。エリート候補から外されたってわけだ。ま、そのおかげで、こうやっておまえの髪を梳いてやれるわけだけど」

「小姓に戻りたいと思うことある?」

「ないな。もう勉強すんのやだし。それに料理もやってみたら案外面白かったしな」


 ココは借りた本に目を落としたまま、そっか、と返事をした。


「そういうおまえは、ここへ来る前はどうしてたんだ?」


 ココは港町での暮らしや、ルスランと出逢った経緯をノアに話した。


弟妹きょうだいのこと心配だろ」

「ちょっとはね。でもうちの弟、しっかりしてるから」


 そもそも、実家にいたときだって弟妹きょうだいに会えるのは日曜日だけだった。仕事がある日は彼らが起きる前に家を出て、彼らが眠った後に帰ってきていたので、日曜以外はほとんど顔を合わせることがなかったのである。

 だから家のことは弟のヘーゼルがやってくれていた。

 両親不在の中、そうやって姉弟四人やってきた。


「おまえも色々苦労してんだな」


 そう言ってノアはずっと、優しく髪を梳いてくれていた。

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