パンをくわえた女の子
今日もルスランは閉店後の食堂へ夕食を食べにやってきた。しかし、いつもの無駄な元気の良さはどこかへ忘れてきたようだった。
「どうしたんですか。壁に投げつけられた、蛙みたいな顔になってますよ」
「…………それは、びっくりして憔悴した顔ってこと?」
「そうそう、そんな感じです」
「ならその通りだよ」
声に覇気がない。
ずもーん、と椅子に佇んでいる。これは一大事か、と思ったものの、ナトゥ・カリーを出した途端、ルスランは勢いよくそれかきこんだ。彼はすっかりこのメニューを気に入ったらしく、最近は頻繁にリクエストするようになっている。
(食欲があるなら)
心配する必要はないかもしれない。
ルスランはナトゥ・カリーをたいらげると少し元気がもどったらしく、流しの前に行って猛烈な勢いで皿を洗いはじめた。今度は元気が出すぎたのか、どこかやけくそ感も漂っている。
忙しい人だな、とココが茶をすすりながらその後ろ姿を眺めていると、彼が背を向けたまま独り言ちった。
「共同研究が、全然進まない……」
心なしか彼の背中から、また、ずもーんとした負の感情が滲んでいる気がする。いかにも背中で、話を聞いて欲しい、語っているようだ。
ココは小さく嘆息すると、無言の要求に応えた。
「共同研究ってドミトル教授とのですよね。何で進まないんですか?」
「彼、最近ずっと不機嫌なんだよ」
「何か嫌なことでもあったんですかね。理由は聞いたんですか?」
「お気に入りの万年筆を失くしたって」
「そんなことで……ですか」
まあ、お気に入りの物を失くして気落ちする気持ちも分からなくはないが、いくらなんでもそれで研究が進まないというのは、職業人としていかがなものか。それではさすがにルスランも可哀そうだ。
ココは珍しく、ルスランに慰めの言葉をかけてやろうと思って口を開きかけたが、そういうときに限ってルスランの方が先にかぶせてくる。
「そういや君、パンをくわえながら走ったことあるかい?」
「は、え?」
藪から棒に何の話だろうか。
「私を何だと思ってるんですか。いくら田舎育ちでも、食事は座って食べますよ」
「ならいい。これからも絶対食べ物をくわえて走らないように。どんなに急いでいても、だ」
「はあ」
ルスランは皿を洗い終わると、「じゃ帰る」と裏口から飛び出していった。
何だったのだろう。と首をかしげるココであったが、翌日、彼女はその理由を身をもって知ることとなった。
大学の廊下を歩いていたときである。曲がり角の向こうから急に誰かが飛び出してきた。
あ、と思った瞬間、目に入ったのは、コッペパンをくわえた女学生。
よけきれず盛大に彼女とぶつかる。
ココはとっさに、相手の女学生を抱えるようにして倒れ込んだので、ちょうどココが女学生の下敷きになる格好となった。
(あっぶないなあ、もう)
一瞬、この女学生がわざと飛び込んできたように見えたのは気のせいだろうか。
いや、そんなことより。
(苦しい……)
女学生は小柄なわりに、わりと肉付きのいい、いや、かなり肉付きのいい体格だった。
「やっだ、ごめんなさい!」
女学生は妙に高い声でそう言いながら、むくりと起き上がる。そしてココの顔を見た途端、その肌荒れして赤く腫れあがった顔を歪めた。
「なぁんだ。女の子じゃない。あーあ痛い思いして損した」
先ほどより一オクターブほど低い声にココが面食らっているうちに、女学生は立ち上がってそそくさと行ってしまった。
(おいおい)
人にぶつかっておいてあの態度。初対面の時のノアよりひどい。
「世も末じゃ」
と呟きながらココが起き上がろうとすると、すっと誰かの手が伸びてきた。
「大丈夫?」
見上げると、可憐な女学生が首を傾げこちらを見ていた。
ココは彼女の手に引っ張り起こされる。
「ケガはない?」
そう尋ねられ、ココは自分の身なりを確認する。
「あ、はい。どこも破れてないみたい。よかった」
お仕着せを破いたら弁償しなければならないところだった。
「自分の体より服の心配してるの?」
可憐な女学生はココの隣を歩きながらクスクス笑った。花が咲いたような笑顔、とはよく言ったものだ。
「でもほんと、ごめんなさいね」
「なぜあなたが謝るんですか。あなたは関係ないでしょ?」
「うーんと私ね、あの
自分が辛いからといって他人に何をしてもいいわけではないだろう、けど。
「辛いことって何があったんですか?」
すると可憐な女学生は顔を曇らせる。
「実はね。婚約を……破棄されたの。しかも初めての顔合わせでね、マリーの姿を見た婚約者が、見た目が受け入れられないって、その場で婚約破棄したのよ。そんなこと言われた女がどんな気持ちになるか、男って想像もしないのね」
女学生の声はやんわりと棘を含んでいた。
男、と一括りにするのはどうかと思うが、まあ確かにその男は礼儀を欠いた者だったようだ。
「だけど婚約破棄されて、どうしてパンをくわえて走ることに?」
「ああ、それはね」
彼女の話では、とある占い師が、学生たちのなかで評判になっているのだという。
神出鬼没の占い師、サルヴィエ。
毎回場所や姿を変えて現れるその占い師は、なぜか女学生しか占わないらしいが、しかしとてもよく当たるのだそうだ。
そして恋に勉学に悩める乙女たちは、いつしかその占い師サルヴィエを盲信するようになり、奴の言いなりになる者が現れはじめた。占い師の方もそれを知って調子に乗っているのか、近頃女学生たちに指示する内容がだんだん過激になってきているという。
異性との出会いを求める乙女には、「パンをくわえて走り回れ」という具合に。
「馬鹿な話でしょう? マリーだって普段ならそんな話、信じないと思うんだけど。もう私が何を言っても聞く耳を持ってくれないの」
可憐な女学生は悲しそうに言うと、学生寮の方へ歩いて行った。
◇ ◇ ◇
数日後、ココが中庭のベンチで休憩していると、どんと何かがぶつかる音が聞こえた。その音にびくりと体が震える。ココは大きな音が苦手だった。そろりとふり返ると、どこかで見たような光景が広がっていた。
床に尻もちをついている二人の学生。男の学生と、もう一人はあのマリー・ビッツだ。案の定、マリーの傍らには大きなバケットが転がっている。
「あぁん、ごめんなさい」
「ごめんなさいだと? ぶつかってきておいて、どういうつもりだ」
男の学生はそう言って、マリーが伸ばしかけていた手を振り払うと、代わりに友人と思しき男の手をとった。
二人の男は、マリーに蔑みの目を向ける。
「この娘、ビッツ家の者じゃないか? ほら、トーマスが婚約破棄したっていう」
「はっ。なるほどな。こんな女じゃさもありなんだ」
男学生たちはそう言って笑いながら、回廊を悠々と歩いて行った。
ココがマリーに目線を戻すと、彼女はうつむいたままスカートの裾を握りしめていた。そして、ふと顔をあげた彼女と目が合ってしまう。
「なによ。高みの見物ってわけ?」
マリーがココを睨んでくる。
「あなただって人を見下せる立場じゃないでしょ。聞いたわよ。みんなあなたのこと魔女だって噂してたわ」
「はあ。まあ、そうらしいですね」
と適当に返事したのが気に入らなかったのか、マリーはその赤ら顔をさらに真っ赤にした。
「私がこんな醜くなったのだって、きっとあなたの作った食事のせいだわ。あなた食堂の食事に呪いをかけてるんでしょ」
ココは厭わし気に目を細めた。
八つ当たりもいいところである。呪いがかかってるなら、食堂に来ている学生全員肌荒れして赤く腫れ上がっていないとおかしいではないか。
ココは阿呆らしすぎて黙ったまま、ベンチから立ち上がり去ろうとした。すると、後ろからすすり泣く声が聞こえてくる。
「無視するの? あなたのせいでこんなことになったのに。私……もう嫌。こんな体。消えてしまいたい」
放っておこう。
ココはそう思った。彼女がなんと言おうと自分には関係のないことだ。と歩き出したところ、石ころにつまづいた。
(なっ?)
足下に目を向けてみれば、後ろから石ころが飛んできている。
ふり返るとマリーがこちらに向かって石を投げていた。
(あの
何してくれとんじゃ!
さすがのココもこれには憤怒だ。猛烈な勢いで駆けだしマリーの元へ一直線に向かう。その挙動はマリーの想像を上回っていたらしい。マリーは恐怖に目を見開き逃げようとするが、遅い。ココがマリーの胸ぐらをひっつかんだ。
「こんなことして。私が魔女だって忘れたの?」
「や、やっぱりそうなのね。この、邪悪な魔女め! 離して!」
マリーは両手をばたつかせて抵抗するが、ココは胸ぐらを掴んだ手をはなさない。
「ああそうだよ魔女だよ。でも、ただの魔女じゃないからね。あんたが想像できないくらい、すんごい魔法使えるんだから。だから……」
しばし逡巡ののち、ココは不敵に微笑んだ。
「私があんたを、カボチャの馬車に乗せてやる」
◇ ◇ ◇
「というわけで、私はしばらく忙しくなりそうです」
ココは大学の医務室に来ていた。ルスランに仕事の相談に来たのである。
「マリー・ビッツの食生活を改善したい、か。俺はかまわないよ。気のすむまでやってみるといい」
ココは、自分の料理のせいで醜くなったなどという、とんでもなく失礼な勘違いをしている、あのマリー・ビッツをぎゃふんと言わせてやりたかったのだ。そのために、自分の作った食事で、彼女が満足する体に変えてやるつもりである。
「俺もしばらく忙しくなりそうだしな。例の占いのせいで患者がひっきりなしだ」
この医務室に入って来るとき、表に学生が何人か待っていた。全員占いがらみの衝突事故で負傷したらしい。
大学は占い師サルヴィエをつかまえようと粉骨砕身頑張っているようだが、未だ捕まったという情報はない。なにせ相手は神出鬼没の占い師なのだ。いつどこに現れるのか予想もできないのである。
ただ、占い師が何者だろうと、つまるところ学生たちが占いをやらなければ済む話ではあるのだが。
(まあでも)
人というのは何かに縋らねば、生きていけない。そういうときもあるものだ。
ココは医務室を出ると、指をポキポキ鳴らしながらマリー・ビッツのもとへ向かった。
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