黒猫
「ココー! 見てくれ!」
そう叫びながら厨房に入ってきたノアの腕の中には、一匹の猫がいた。
全身黒い毛に覆われていて、ヒゲが生えているところだけ白い。全体的にでっぷりした猫である。
その丸っこいフォルムに、ココの目がキラリと輝いた。
(うおっ)
ココは以前から、猫や犬を飼ってみたいと思っていたのである。もちろん茸や植物もいいが、モフモフはやはり別格だ。
「こいつにネズミを獲らせたらよくないか?」
言われてココはハッとした。どうしてそれを思いつかなかったのだろう。古来より猫はネズミから作物を守るため飼われてきた生き物。猫がいれば、ネズミ捕りを仕掛けたり、毒団子を仕込む必要もなくなる。
(でも……)
一つ懸念があった。
この猫、まるで死んだ魚のような目をしているのである。狩猟本能などどこかに置き忘れてきてしまった。そんな顔をしている。果たしてこの猫にネズミが獲れるだろうか。
そんなココの心配をよそに、ノアはすでに、この猫を飼う気満々の様子であった。
「たくさんネズミ獲ってくれよな。ババロア?」
「にゃふん!」
ババロアと名付けられた猫は、犬みたいに律儀な返事をしていた。
ババロアはどこかの家でしつけられていたのか、厨房の食材には手をつけようとしなかった。が、そのどんくささは予想通りであった。
ちょっと高いところに登っては降りられなくなって、にゃふにゃふと鳴き、小鳥がやって来れば一応お尻をフリフリっとするのだが、お尻を振っている間に小鳥に逃げられ、代わりにやってきたカラスにつつかれている始末である。
「ババロアってさ、ネズミ獲るのは無理なんじゃないかな」
「そんなことない! こいつはまだ本気出してないだけだ!」
ノアは仕事に行かない息子をかばうような台詞を吐きながら、ババロアを抱えて厨房を飛び出していった。
別にババロアがいることはかまわないのだが、しかしネズミ対策は他に考えてなくてはならないだろう。
ココは朝食の片付けをおえると、一人図書館へ向かった。ちなみにこういうときノアはついてこない。彼は本に囲まれると蕁麻疹が出るらしいのだ。
図書館にやってきたココは、ネズミ対策の本を探す。
(えーっとネズミ、ネズミ……)
食害コーナーには獣別に対策の本があった。鹿、イノシシあたりが多い。ココはネズミ対策で一番分厚い本を手に取った。
(ふむふむ)
圧殺式が駄目だったので、毒団子にしようかと思っていたが、毒団子は、ネズミの種類によっては効かないこともあるらしい。
「じゃあ他に何か……」
載っている対策の中で、ココがまだ試したことのないものがあった。
これなら万が一誰か触れたとしても害はない。毒団子よりも安全だ。しかもネズミの防除率はかなり高いらしい。
ココは本を閉じて図書館を出た。
厨房への帰り道、回廊に人だかりができていた。学生たちが中庭の木を指さして笑っている。
「やだあ、あの子
「馬鹿すぎるだろー!」
ココも気になって人だかりの間から覗いてみると、木の高いところにある
学生の中の一人がロープで引っ掛けて助けようとしているらしく、ババロアのもとへロープを投げている。が、ババロアの方はそれを攻撃とみなし猫パンチで応戦している。
その様子を見ていたココは溜息をはき出した。
まったく世話の焼ける猫である。
木の下まで歩み寄ると、学生からロープをもらい受け、ココはそれを自分の腰に巻き付けた。さらに反対側のロープの先を枝の高いところに渡して、先を学生に持っておいてもらう。
「私が落ちそうになったら引っ張って」
「お、おう」
少し頼りなさそうな青年だが、他にも二、三人集まってきてくれた。
(よし)
ココは気合を入れ、木によじ登る。
「いけいけー!」
好奇な野次が飛ぶなか、ココはババロアのもとへ向かった。貴族の子息令嬢と違ってココは木登りなど朝飯前である。念のためロープを体に巻いたものの、自力でババロアのもとまで辿り着いた。だが問題は登ってからだった。
「ぐぬぬう!」
ババロアの脇を掴んで引っ張るが全然抜けない。しかもババロアは先ほどのロープの恐怖が残っているのか、爪をむき出してひどく暴れる。ココの腕はたちまち傷だらけだ。
それでも歯を食いしばって引っ張ること数回。すぽん。とババロアの身体が洞から抜けた。が。
(お、重い!)
なんだこの重さは。体格からある程度予想はしていたが、およそ猫とは思えぬ重さだ。自分の筋力だけでは支えきれない。
「引っ張ってえ!」
叫び声とともに、青年たちがロープを引っ張る。
だがココの体は安定しない。青年たちは三人もいるというのに情けない声を上げはじめる。
「き、君重すぎるって!」
「違うよ! 重いのは私じゃなくて、このね――」
と青年たちの手からロープが滑り抜けそうになる。瞬間ココはなんとかババロアを腕から逃がし、木の幹につかまった。
歓声が上がるなか、木から降りてきたココは芝の上に大の字になって転がった。
「大丈夫かい?」
と青年たちが覗き込む後ろで鐘がなっている。
「私は大丈夫だから、講義に行って」
集まっていた学生たちはバラバラと散って行った。ココは首を左右にふって辺りを確認する。肝心のババロアはどこにも見当たらなかった。ひどく怯えていた様子だったから、どこかへ隠れてしまったのだろう。
「ああ痛」
青空に腕を掲げると、両腕はみごと血まみれだった。
夜である。厨房に笑い声が響いていた。
「あはははは」
腹を抱えて笑っているのはルスランだ。
傷だらけの腕を見て、しつこく理由を聞いてくるので経緯を話したのだが、ココは彼に話したことを猛烈に後悔していた。
「そんな笑わなくてもいいでしょ」
乾燥唐辛子を刻む手をとめ、ふり返ったココの顔を見て、ルスランはまた笑い出した。
(そこのカリーに唐辛子全部入れたろか)
そんな不穏なことを考えているココの足元で、ぼとり。何か落ちる音がした。
足元を見たココは思わず飛び上がる。そこには死んだネズミが転がっていた。
「にゃふん!」
ネズミのすぐ近くにババロアが座っている。相変わらずの目だが、表情だけはどこか満足げである。
「その猫、ネズミ獲れるみたいだな」
ルスランが涙を拭いながら言った。
これなら唐辛子粉はいらなかったか。いや、そんなことはない。ババロアのことである。このネズミは、まあ今日の礼に、と頑張って獲ってきた奇跡の一匹、ということもありうる。というかそんな気しかしない。
とそんなことを考えていると、いつのまにかルスランが横に立って、ココの腕を見つめていた。
「猫が無事なのはよかったが、君の傷をそのままにしておくのは良くないな」
洗っておこう、と言ったルスランに両肩をがっしり掴まれ、ココは無理やり椅子に座らされた。
「え、いや、これくらいの傷大丈夫ですよ」
という言葉は耳に入っていないようで、ルスランは厨房の物を勝手にごそごそあさりはじめる。
あっという間に、水差しやら桶が目の前に準備された。
けっこうです、と抵抗するのも虚しくココの腕がルスランに捕らえられる。そして彼はもう片方の手で水の入った水差しを持ち上げた。
と、そのとき、ルスランのうしろ、調理台に置いてある塩壺の蓋が開いているのが見えた。
(まさか)
この水差しの中に塩を入れたのか。
(傷口に塩をぬるなんて)
いったい何を考えているのだ。鬼畜すぎる。怪しい医者だと思っていたが、これは予想以上である。
(逃げねば)
だが腕は引こうが押そうが、どうしても彼の手から抜けない。実家のドアで攻防を繰り広げたときも思ったが、この男、どうも筋力が半端ないようだ。こっちは毎日重いフライパンで鍛えているというのに、それでも全く歯が立たない。医者なんて頭デッカチのヒョロヒョロのはずなのに。
と失礼なことを考えているココの腕に、ルスランは水差しの中身を注いでいく。
ぎええ、沁みるう!
(…………あれ?)
痛くない。むしろ水より何も感じないくらいだ。ココが首を傾げていると、ルスランは得意げに微笑んだ。
「これは浸透圧の問題だよ」
ルスランの話では、人間の体液と同じ塩分濃度にしてあるので水で洗うより痛くないのだという。
よく分からないがとにかく痛くないのはよかった。ただ、痛くない代わり、塩水をかけられながら優しく手でさすられると……なんというか、背中がぞわぞわする。
「あの。くすぐったいんですけど」
たまらず呟くと、ルスランは目を細め睨んでくる。
「処置してるんだから我慢しなさい」
この綺麗な顔で睨まれると凄みがあった。ココは抵抗をあきらめ、百面相しながらなんとか耐える。
ふう。
やっと洗い終わったらしい。これで解放されたと思って立ち上がろうとしたとき、ルスランに肩を押さえられた。
「どこに行くつもりだい?」
「どこって、もう終わりましたよね」
聞かれてルスランが視線を下に下げた。まさか。
「あ、足は引っかかれたんじゃないですよ! 木の皮でちょっと擦ったくらいで……」
というささやかな抵抗虚しく、足がとられえられる。ルスランは得意げな様子でまた水指を手に取った。
「にゃっふ、にゃふ、にゃふ」
カウンターの方から腹立たしい鳴き声が聞こえてくる。横目で見やればカウンターの上にババロアがいた。その表情は心なしかほくそ笑んでいるように見える。
(誰のせいでこんなことになっていると……!)
その夜、厨房の外まで、少女の悶えるような叫びが聞こえたとか、聞こえなかったとか。
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