キャロットケーキ

 昼過ぎ。

 ココは大学の事務所から厨房へ戻るところであった。

 階段を降りていると、階下から話し声が聞こえてくる。


「子どもを連れて試験を受けるなど、何を考えているのかね」

「すみません。でも今日は母の体調が悪くて、この子をみてくれる人がいないんです」

「なら別日に追試を受けることだ」


 姿は見えなかったが、この陰気な声はドミトル教授だろう。話の内容からして相手は学生のようだが、小さな子どもを育てながら大学に通っているのだろうか。


(大変だなあ)


 とぼんやり思いながら、ココが階段の踊り場を曲がろうとしたとき、先ほどの声の主と思しき女学生と鉢合わせた。腕には一歳になろうかという子どもを抱えている。ココはぺこりと会釈して、女学生の横を通り過ぎた。


(あんなの見たら、リリとララを思い出しちゃうな)


 仕事で家を空けることが多かった母の代わりに、双子の妹たちの面倒をみていたのはココだった。

 母が搾乳しておいたお乳を哺乳瓶で飲ませ、おしめを替え、風呂に入れたり寝かしつけたり、母親以上に世話をしていたのである。


 そんな昔の思い出にひたっていると、階上から子どもの泣き声が聞こえてくるではないか。

 条件反射。というのが相応しかろう。

 ココはさっと踵を返すと階段をかけあがり、泣きじゃくる幼子を抱いた女学生の肩を叩いた。


「実はさっきの話聞こえてしまって。その、よかったら試験の間、厨房でその子預かりましょうか」

「え? でも……」


 女学生は喜んでいいのか訝しむべきなのか、迷っている様子である。


「あ、申し遅れました。私、食堂の料理人です」

「ええ、見かけたことあるわ。だけどいいのかしら。あなたも仕事があるでしょう?」

「はい。でも試験の間くらい大丈夫ですよ」

「そう。じゃあ、お言葉に甘えさせてもらおうかしら」


 というわけでココは、女学生の子どもを預かることになった。

 



「赤ん坊なんか預かってどうすんだよ」


 幼子を背負って仕事を再開したココに、ノアは怪訝な目を向けていた。

 一方、ミランダおばさんは、


「可愛らしい子だねえ」


 とすっかり骨抜きにされている。

 確かに幼子の面倒をみるなんてココの仕事ではないわけだが、かといって放っておくこともできなかったのである。それに試験の間、幼子を一人預かったくらいで、仕事に差し支えることはない。双子を育てた姉ちゃんを、舐めないで頂きたい。 

 ココは幼子の面倒をみながらいつも通り仕事に励んだ。


「はい。じゃ、皆さんおやつの時間です」


 厨房恒例のおやつ休憩である。

 今日のおやつはキャロットケーキだ。


 一歳すぎだというこの幼子は、すでに手づかみで食べ物を食べられるようになっていたので、母乳を飲ませる必要はなかった。ただ胃袋がまだ小さいので、三度の食事だけでは栄養をしっかり摂取しきれない。なので幼子にとって間食はただのおやつではなく、大事な食事の時間であった。


 天気がいいので、ココたちは気分転換がてら外でおやつを食べることにした。

 裏口を出たところの広場に敷物を敷いて、みんなでそこに座る。ミランダの淹れてくれたお茶をお供に、それぞれキャロットケーキにかぶりついた。

 

 ココの作ったキャロットケーキは、ほろっと崩れるスポンジ部分の上に濃厚なチーズクリームが乗せてあり、その二層が舌の上で溶けると、まったりほろほろの舌触りといい、ニンジンとシナモンの香りといい、大人も思わずうなってしまう出来栄えであった。


 ずっと胡乱な表情をしていたノアも、キャロットケーキを一口食べてからはすっかりご満悦な顔になっていた。

 もちろん幼子のほうもバクバクと頬張って、いっちょ前におかわりを要求する次第であった。

 



 そして夕刻。そろそろ幼子の母親が迎えに来る時刻。のはずだったのだが。


「母親が来ないなあ」

「そのうち来るでしょ」


 ココたちは学生たちに夕食を提供しながら、幼子の母親を待つことにした。

 だが夕食の片づけが終わる頃になっても、母親は来なかった。ミランダおばさんも心配してくれたいたが、彼女は彼女で自分の家族が待っている。ミランダが自宅に帰ったあと、ココとノアは厨房で母親が来るのを待っていた。


「教室見にいってみるか?」

「うーんでも試験はとっくに終わってるだろうし、教室にはいないんじゃないかな」


 すでに試験は終わっている時刻なので、おそらくどこかで道草をくっているのだろうが、こんな広い大学の敷地では探しようがない。今できることは厨房に母親が来てくれるのを待つことだけだった。


 それに幼子は夕食を食べたあと眠ってしまったので、叩き起こして連れまわすのも可哀そうだろう。と、二人で話をしていたとき。


 異変が起きた。


 ココが寝ていた幼子の様子を見てみると、幼子はなんだかぐったりしている様子である。抱き上げてみれば、ひどく体が熱い。


「この子、熱があるみたい」

「ええ? うわ、ほんとだ。ったく母親はこんなときに何してんだ」


 ノアは憤慨しているが、これくらいの子はよく熱を出すものだ。そう焦ることはない。

 再び毛布の上に寝かせたところ、急に幼子の身体がビクビク震え出した。最初は手が震えているだけだったが、やがてその震えは全身に広がっていく。


「おいこれ、やばくないか」


 ノアが不安そうな顔をココに向ける。ココも子どもがこんな風になるのは、今まで見たことがなかった。


「どうすんだ。もうこの時間じゃ、どこの病院も開いてないぞ」

「でも大学の隣に大きいのがあるでしょ。あそこなら……」

「あそこは駄目だ。治療を受けられるのは貴族だけだ」


 話しているうちに幼子の震えは止まったが、何やら幼子の顔色が悪い。

 ココは幼子を抱きかかえて立ち上がった。


「どこ行くんだよ」

「病院じゃないけど、あてがある」

「はあ? あてって、おまえ……」


 戸惑っているノアを厨房に置いて、ココは裏口から飛び出した。幼子を抱え、小走りで夜道をかける。だが幼子を抱えたままというのは思うように走れないものだった。


「おおい! ココー!」


 後ろから聞こえた声にふり返ると、ノアが荷車を牽いて走ってくるのが見えた。


「子ども抱えながらじゃ大変だろ。これに乗れ」


 ココは礼を言うと、ノアが牽いてきた荷車の荷台に乗った。


「ところでどこまで行くんだ?」

「研究棟まで、お願い」

 



 研究棟につくと、門番が怪訝な顔をしながらココたちのそばへやってきた。この前会った門番とは違う男だ。


「君たち何者だ?」

「大学で働いてる者ですが、ドクター・ユトの部屋に行きたいんです」


 門番は幼子を見て眉をひそめる。


約束アポは?」

「ありません。でもこの子の調子が悪くて、ちょっと診てもらえないかと――」

「おいおい、君たちなあ。大学の先生は、お忙しいんだ。そんな赤ん坊、いちいち診てたらキリがないだろ」


 街の医者に行け、と門番は面倒くさそうに手をふるだけで全く取り合おうとしない。


 ココとてそれが道理なのは分かっていた。本来なら彼の言うとおり街医者に行くべきだ。しかし、かかりつけでもないのに、時間外に急患を診てくれるところは少ない。それに下調べもせずに行けば、無免許の闇医者に当たることもある。

 ココがどうしたものかとノアの顔を見た時、後ろから声が聞こえた。


「こんなところで何してるんだい?」


 ふり返ると、白髪碧眼の男が不思議そうな表情でココたちを見下ろしていた。


「あ、えっと。この子が――」


 と経緯を説明しようとすると、ルスランは黙ったまま、ココの腕から幼子を抱き上げた。


「熱いな。中で診るから君たちもついてきなさい」




 ココとノアは、幼子を抱いたルスランについて研究棟に入った。

 ルスランはソファに幼子を寝かせると、ヘラのようなもので幼子の口の中を確かめる。いつものヘラヘラした笑みはどこかに消えていた。


「熱以外に何か変わったことは?」

「さっき急に震え出して、そのあと顔色が悪くなりました」

「その震えはどんな感じ? 左右同じように震えてた?」


 ココとノアは顔を見合わせる。


「……たぶん」

「そうか。おそらく熱性のけいれんだろう。そんなに恐いものじゃない。吐いたりはしてないね?」


 ココは頷いた。


「なら顔色も戻ってきているし、心配する必要はないよ」


 そう言いながらルスランは、幼子の頭を優しくなでていた。その横顔は、ココの知っている彼とは、なんだか別人のように思えた。


「熱さましの坐薬だけ渡しておこうか」


 ルスランは診察鞄の中をあさる。小袋から中の薬をいくつか取り出しながら言った。


「それにしても、まさか君に隠し子がいたとはなあ」


 ココを見上げるルスランには、いつもの笑みが戻っていた。


「違うって分かってて言ってるでしょう、それ」


 目を細めるココを見て、ルスランはからから笑う。


「なら誰の子なんだい?」

「ある学生の子を預かったんです。試験の間、中に連れて入れないから」


 と言いながら、ココは幼子の母親のことを思い出した。もしかしたら今頃厨房にやって来ているかもしれない。

 ココは幼子を抱き上げ、薬を受け取ろうとすると、ルスランはノアに紙袋を差し出した。


「君がノア・ブラン君だね」


 クルタリカ君から話は聞いてるよ、とルスランに微笑みかけられたノアは、カチコチに石化してしまっていた。

 



 研究棟を出たココとノアは、荷車とともに厨房への道のりを歩いていた。帰りは、ココも幼子を抱きながら自分で歩く。

 その隣で荷車を牽きながらノアが口を開いた。


「おまえさあ、何でルスラン・ユトと知り合いなんだ?」

「ノア、彼のこと知ってるの?」

「当たり前だろ。大学、ってか帝都じゃ有名な医者だぞ。皇宮でだってよく女官たちが騒いでたしな。すんげえ美丈夫イケメンで腕利きの医者がいるっつって」

「え、あれ? 皇宮には専属の医者がいるんじゃなかったっけ」


 皇族を診察できるのは、侍医と呼ばれる専属の医者のみのはずである。


「うん本当はそうなんだけど、妃のなかに難しい病にかかってる方がいるんだ。で、その病はドクター・ユト以外の医者は診れないんだって。だから特別、陛下が診察を依頼したんだってよ。聞いた話じゃルスラン・ユトって、伝説的な医者の弟子らしいからな」


 ルスランがそんなに腕利きの医者だったとは、ココにとっては驚きだった。人は見かけによらないものである。


「それにしても、おれすんごい緊張しちゃったよ。本物のルスラン・ユト見るの初めてだったしさ。ありゃあ女官たちが騒ぐのも納得だな」

「ノアは、ああゆう人が好みなの?」

「いや好みってか、逆にあの見た目を嫌いな奴っているのか?」


 まあ確かに黙っていれば、見目麗しいのは否定しない。黙ってさえいれば。



 厨房に戻ると、母親が泣きながら待っていた。

 試験の後、少しだけ休憩しようと思ったらうっかりベンチで眠り込んでしまったらしい。


「本当に、本当にすみませんでした。私ったら、なんてことを」


 ココとノアになだめすかされた母親は、幼子と薬を受けとると、何度もお辞儀をしながら帰っていったのだった。

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