失われたパン
ルスランに呼び出された。
ココは朝食の片付けを終えてから、研究棟にある彼の部屋に向かっていた。
――ルスランの仕事を手伝う。
それがこの大学食堂の料理人になる際の条件だった。
(何をさせられるんだろう)
とぼんやり考えながら食堂前の中庭を通っていると、木陰に置いてあるベンチに、一人の青年が座っているのが見えた。ひょろっと背が高く、痩せた鹿を彷彿とさせる青年である。確か寮生のはずだが、最近食堂で姿を見ない。
どこか外へ食べに行っているのかもしれないな、と勝手に納得してベンチの後ろを通り過ぎようとしたとき、彼の手にパンが握られているのが見えた。
「そのパン、もしかしてモンタル地方の?」
ココはパンにつられ、思わず青年に話しかけていた。
「あ、うん。そうだよ。君もモンタル出身なのかな?」
「違うけど、この前本で見たから」
彼の持っているパンは『失われたパン』と呼ばれるもので、パンを二度焼きして乾燥させたものだ。なぜ『失われた』という名かというと、本来捨てるはずだったパンという意味なのである。捨てるのがもったいないので、乾燥させて保存食としたもの。二度焼きのおかげで水分は抜けて日持ちするが、そのかわりカッチカチになる。
「どうして最近食堂に来ないの?」
「気づかれてたんだ」
「食堂でご飯食べながら、よく植物学の本読んでたでしょ?」
「驚いたな。そんなことまで見てるのかい?」
「そりゃあ、毎日同じ席に座って、分厚い本を読んでたらいやでも覚えるよ」
鹿顔の青年は頬をかいた。
「実は恥ずかしい話だけど、食堂で食事する金がないんだ」
このクルル大学では、貧しい学生のため寮費は無料である。しかし食事代は別だった。
「試験が近くて、どうしても新しい辞書が必要でさ。残ってたを使っちゃったんだよね」
「次の仕送りはいつなの?」
「金曜には送ってくれるはずなんだ。だからまあ、それまでの辛抱だよ」
そう言って鹿顔の青年はカッチカチのパンを頬張ってみせる。笑ってはいるが、むしろいっそう、げっそりして見えた。
金曜までとなるとあと五日。それまで彼は、このカッチカチのパンだけで凌ぐつもりなのだろうか。
これは本来そのまま食べるものではなく、スープなどに浸して柔らかくしてから食べるものである。この鹿男君はスープも買えないということなのだろう。
可哀想ではあるが、金がない者は食べられない。これは世の常である。
ココは鹿顔の青年と別れ、研究棟へ向かった。
研究棟。
それは教授・講師たちの研究室がある建物。さらに各部屋の奥には居住できるスペースが併設されており、そこで暮らすか、外の家から通うかは教授や講師によって様々だった。
ルスランがどちらなのかは、ココは知らない。
研究棟に着くと、すぐに守衛が近寄って来た。
「お嬢ちゃんがクルタリカさんかえ?」
頷くと、守衛がルスランの部屋まで案内してくれる。薄暗い階段を昇りながら、守衛が言った。
「ドクターは先ほど、研究棟を飛び出して行かれましてね。クルタリカさんには、部屋で待っていて欲しい、と言付かってやす」
ルスランの部屋は、不思議なものがいっぱいだった。
ココは辺りを見回しながらゆっくりソファの隅に腰かける。すると部屋の片隅に、大人の男には似つかわしくないものが置いてあるのが目に入った。
クマのぬいぐるみである。
ココは立ち上がって、そのクマを拾い上げる。
首のところに金色のペンダントをつけたクマは、全体的に毛羽だっていて控えめに言っても汚かった。劣化の具合からして、かなり年季の入ったものと思われる。
(まさかこれを毎日抱きしめて寝てたり……)
そんなことを考えながらクマの目をじっと見つめていると。
「俺の私物がそんなに気になるのかい?」
後ろから聞こえた声に、ココはびくりと飛び跳ねた。ふり返ると、診察鞄を持ったルスランが、部屋の入口に立っていた。愉快そうに口元をニヤつかせながら、こちらを見つめている。
「そんなに熱い視線で俺の私物を見つめるとは。さては君、俺に興味津々なのかな」
「違います。クマの顔を近くで見たかったです」
「素直じゃないなあ。俺が何で、クマさんのぬいぐるみなんか持っているのか、知りたいんだろう?」
それは確かにその通りだ。その通りなのだが。
絶対に肯定したくない気分である。
「仕方ない。素直になれない君に、特別に教えてあげよう。そのぬいぐるみはね、昔、患者にもらったものなんだ。医者には誰しも忘れられない患者というのがいるものでね」
ルスランは昔の出来事をかみしめるような表情で語った。
反撃の機会をうかがっていたココであるが、その機会は失われたようだ。患者の話が出てくると、もう何も言えない。いくら彼が腹立たしくても、このクマを贈った患者に罪はないのだから。
そんなココの葛藤など知る由もないルスランは、ご機嫌な足取りで執務机に向かうと、机の引き出しをゴソゴソあさり一枚の紙を取り出した。
その紙に書かれていたのは、
『ポポロ料理店、来月開店』
の文字と、店の絵。
その店の外観に、ココは見覚えがあった。
「これもしかして、ブルーノ料理店だった店ですか?」
「そう。新しい料理人を雇って、新規開店することにしたんだ。そこで、ポポロ料理店のメニューを君に考えて欲しいんだよね」
「まあやれと言うならやりますけど。あなたの仕事を手伝うっていうのは、これのことだったんですか?」
「これもそのうちの一つだな。終わったらまた新しい仕事を頼もうと思っているよ」
なかなか人使いの荒い医者であるが、契約なので仕方ない。それでもブルーノにこき使われていたことを思えばずっとましだ。
ただ今は食堂の仕事もはじめたばかりで、さすがに他店の新しいメニュー考案までやるとなると、少々時間がかかりそうである。
「一週間くらい猶予をもらえますか。それなら充分間に合うと思います」
「ああ。それで構わないよ。開店は来月だしね」
ココはルスランの部屋を後にした。
夕食後、ノアとミランダが帰ったあと、ココはルスランに依頼された、ポポロ料理店のメニュー試作にとりかかった。
(乗船病予防のメニューは継続しろってことだよね)
新しい料理人ではなく、自分にメニュー考案を依頼してきたのはそういうことだろう。
ならザワークラウトは常備菜としてメニューに入れるとして、オレンジを使ったレシピも増やしたい。今まで輸入のオレンジは値が高いのでおいそれと使えなかったが、現在は、あの町でも安いオレンジが入手できるようになったのだ。
というのもルスランが港町へのオレンジ販路を増やすよう手配してくれたらしい。軽いのは態度だけでなくフットワークも、だったようだ。
(さて、安いオレンジをたくさん使えるなら)
メイン料理にオレンジを使ってもいいかもしれない。みんながオレンジ果汁を飲んでくれたらいいのだが、船乗りの中には、飲み物は酒しか飲まないという者も多いので、食事にオレンジを入れた方が摂取してもらいやすいのである。
(よし。やりますかね)
ココは袖をまくった。
まずは鶏もも肉に何箇所かフォークを突き刺す。これは焼いた時に肉が縮んで硬くならないようにするためだ。終わったら塩胡椒と薄力粉をまぶし、オリーブオイルをひいたフライパンでこんがり焼き色がつくまで焼く。
あとは料理用の安い白ワインとオレンジの搾り汁を入れて、とろみがでるまで煮たら皿に盛りつける。だがまだ終わりではない。最後にオレンジの搾り汁を追加したら完成だ。
ちょうどオレンジを絞り終えたころ、裏戸を叩く音がした。
ココは勢いよく裏戸を開ける。
そこには、ひょろっとした鹿顔の青年が困惑した表情で立っていた。
「遅いよ。早く入って」
鹿顔の青年は依然困った表情のまま、厨房に入って来る。
「えっと、用事って何かな」
「早くここ座って。これ食べて」
「え、あの。だけど僕、金が……」
ココは苛立ち気味に目を細める。
「なに言ってるの。これは仕事だよ」
「仕事?」
「私はある店の新メニューを考えなきゃいけないの。あなたはその味見役だよ。新しい店がうまくいくかは、あなたにかかってるからね」
しかし鹿顔の青年はまだもじもじしていた。
「ほら! 冷めたら味変わっちゃうでしょ」
ほらほら! とココにせかされ、鹿顔の青年はおずとフォークを手にし、鶏肉を口に入れる。
「……おいしい」
と呟いたあと、青年は猛烈な勢いで鶏肉のオレンジ煮をかきこむ。喉を詰めないか心配になるほどだ。しかも肝心の味の方は、おいしい、おいしいとしか言わない。まったく、改善点を言ってもらわねば雇った意味が無いというのに。
とはいえ、仕事を依頼したからには、対価を支払うのが世の常である。
「これは今回の報酬だよ」
ココはパンとチーズを布で包みながら言った。そしてふと顔を上げたとき、窓の向こうで銀糸のようなものがちらっと光ったように見えた。
外に誰かいたのだろうか。
「報酬ってそんなのもらえないよ」
「仕事したら対価をもらうのは当前でしょ」
腐るといけないから明日の朝には食べて、とココは包みを青年に押し付け、ついでにそのまま厨房から押し出す。
「明日は遅れないでよ」
と言い捨て扉を閉めた。
その後、青年はちゃんと毎日、同じ時間に出勤してきた。おかげでココは一週間後、無事ポポロ料理店のメニューを仕上げることができたのだった。
(そういえば)
しょっちゅう訪ねて来ていたルスランが、この一週間姿を見せることはなかったのは、どうしてだったのだろうか。
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