第6話 美咲
美咲は野菜炒めの玉ねぎを器用に避け別の皿へ移しながら、話していた。
「いや、それでもお前になにかあったら俺は」
「私を一人にするの?お兄ちゃんがゾンビに噛まれて帰ってこなかったら、それこそ私はどうやって生きていけばいいわけ?」
美咲は今にも決壊しそうなほどに涙を溜め、こちらを見ていた。お風呂上がりで上気した顔、元々整っていた容姿は大人になるにつれて、危険な、それこそ一線を越えてしまいそうなほどに、色気に満ち満ちている。透き通るように白い肌、若くシミひとつない健康的で触れれば跳ね返ってきそうなほどの弾力、俺とは子供の頃からあまり似ておらず、兄妹として疑われるくらいに似ていない。鼻筋も通った端正な顔立ちに薄いピンク色の唇、母に似て胸は大きく育ち、いつの間にかTシャツを勝手に使われているけれど、もう形は崩れてしまっているくらいに大きく実っていた。
「それは、そこまで考えてなかったかもしれない」
「だと思った。絶対に一緒にいくから」
「玉ねぎ食べないの?」
「お兄ちゃんにあげる」
美咲は堆く積まれた玉ねぎの塊を差し出した。
「俺、もう食べ終わってるんだけど」
「私も」
睨み合いが続くなか、俺は諦めたようにワザとらしく皿を受け取ると口の中に放り込んだ。野菜炒めのタレもかかっていて、それほど苦くもないのに、なぜ食べれないのか不思議だ。こんなに美味しいのに。
「ありがとう」
「どういたしましてっと、今日はめっちゃ疲れたから俺はもう寝るわ」
俺は美咲の分もあわせて食器を台所の流しに置いた。汚れが固まらないようにある程度、お湯で流す。温かくなったからか、ボンっと間抜けな音が台所から鳴った。
「私の部屋、もう使えなくなったから、お兄ちゃんの部屋で一緒に寝ていい?」
美咲はシャカシャカと歯を磨きながらなんでもないような感じで言った。
「それやったら、俺はソファで寝るで」
「うー、今日は一緒に寝よ。ほら」
美咲は俺の背中を押して、部屋の中に押し込んだ。そのままベッドに押し倒すと電気を消す。暗闇に順応するまであまり近くが見えない。お互いの息遣いだけが聞こえる。
「わかったよ。今日だけだからな」
「うん」
俺は歯を磨くため、洗面所に向かった。いつもより丁寧になってしまったのは、息が臭いと思われたくないからだ。他意はない。
そうしてベッドに戻ると美咲は先に寝ていた。背を向けるようにして横になる。
「お兄ちゃん」
美咲は抱きついてくる。色々なものがあたっているから、心臓が跳ねた気がした。口のなかの水分はいつの間にか空っぽになってしまったみたいで、唾液を飲み込む音が、美咲にまで聞こえてしまったかもしれないことを恐れた。
「もう忘れよ。今日一日のこと。そのためなら私も」
美咲の手が伸びてくる。それは抵抗しようとすれば撥ね退けてしまえるほどに弱々しく、それでいて意思のある冷たい手だった。深い海の底に沈んでいく。堕落していく。「それでも堕ち切ることはない」ともう一人の冷静な自分が隣から語りかけてくる。「人は堕ち切るほどには強くないから」22、23歳の頃に読んだ随筆の一編だった。明日になれば、また陽が登れば新しい自分でいられる。いまはその過程なんだ。
行為が終わったあと、久しぶりに夢をみた。それは子供の頃、父親が蒸発する直前に二人で近所を散歩したときの思い出だった。珍しく父は晴れやかな、憑き物が取れたようなそんな表情を浮かべている。ここ最近はずっと母と喧嘩していて、家の雰囲気は最悪だったけど、なにか上手くいったのか、今日はよく笑い、元気そうにしている。
「お母さんとは仲良くできたの?」
「ああ、もう喧嘩することはないよ」
逆光であまり顔は見れなかったが父に頭を撫でられ嬉しかったことだけは覚えている。
「今度は薫が美咲を守っていかないといけないよ」
「うん」
その日も夏の訪れを予感させる蒸し暑い一日だったけど、二人でいたその時は不思議と暑さを感じず、時折、涼しい風が身体を通って行った。
翌日、父は帰ってこなかった。そしてその散歩が父を見た最後だった。
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