第4話
駐車場の空いている区画に停車する。大規模な集合住宅のため常に複数の空き区画があった。血濡れのハンドルに、赤い手形のついたドア、普通なら警察に通報されていてもおかしくない。不審な出立ち。
「社用車だし、どうでもいいや」
カバンを片手に、屋内へとずんずん歩いていく。マンションの2階に住んでいるため階段でもよかったが体力の限界だった。
エレベーターが降りてくる。開いたと同時に乗り込もうとすると、若いカップルとぶつかりそうになった。
「じゃまや、どけ」
「あ、すみません」
上下スウェットに、茶髪のホスト崩れみたいなチンピラと、胸ばっかり育った脳に中身が1ミリリットルも詰まってなさそうな女、電子タバコを吸いながらエントランスへ向かっていく。あれは死ぬな。でも、あの女くらいは救ってやるのもやぶさかではない。どうせ、これからド〇〇にでもいって、意味のない安いブランド品とか、香水とか、ゴミみたいなぬいぐるみでも買うんだろう。あの二人の車は軽自動車で、ウケでも狙って、キ〇〇ちゃんではなく、あの青いペンギンのマスコットとかを並べているに違いない。謎の容器に入った得体の知れない芳香剤も二つはあるはず、予備も三つくらいはあるだろう。
いつも通り鍵を差し込みドアノブを回す。勢いよく開けると風の通り道になるからか、廊下のドアが激しく音を立てて閉まってしまうため慎重に開ける。そのことで、なんど妹や母に叱られたかわからない。
「ただいま。母さん、美咲、無事なのか?」
「お兄ちゃん、お母さんが、早く助けて」
「え、なにがあったんだよ」
革靴を脱ぎ捨て、妹の部屋へ飛び込む。
「お母さん、お母さんが」
もう嗅ぎ慣れてしまった血の臭い、錆びた鉄のような鋭い異臭が鼻腔を貫いた。足元には見慣れた背中が転がっている。首筋には冗談みたいに包丁が突き刺さっていた。
「母さんを殺したのか?」
「違うの買い物から帰ってきて、すぐにお風呂にいったの。汗をかいたって言ってたから流すために入ったんだと思う。それから1時間くらいずっとシャワーを出しっぱなしだったから、気になってドアを開けたら、噛みつこうとしてきて、慌ててリビングに逃げたの。それで刺しちゃった」
「ゾンビになったってこと?」
「そう。お兄ちゃんにも教えてあげたでしょ?あの動画の通り、ゾンビなんだよ」
病弱だった母は、そう長くは生きられないと思っていた。ある程度は覚悟していたけど、こんな最後になるなんて想像もできない。まさか実の娘に殺されるなんて。心が理解することを拒絶しているのか、不思議と涙は出てこなかった。
「頭、つぶさなくても大丈夫かな?お兄ちゃん、まだ動く可能性もあるから、これで終わらせてあげて」
「こんなもん、どっから持ってきたんだよ」
「隣の男の子、野球部なんだって。廊下に置いてあったから勝手に借りてきちゃった。でも、みんなの共用部分なのに、物を置いておくなんて、ダメだよね」
手渡された金属バットを握る。まともに触ったのは小学校の野球の授業以来だった。あの当時は重く、もっと大きく感じていたが、いまとなっては軽い。こうやって気づいていくことが大人になるってことなのかもしれない。
「ほら、早くしないと。いつ復活するかわからないから」
言われるがままバットを振り上げる。あとは、力強く振り下ろすだけ。顔が見えなくて本当に良かったと思う。きっと耐えられないから。それでも走馬灯のように母が病にかかる前の、あの幸せだった頃の三人の時間、思い出が蘇ってくる。
「いいの?私がゾンビになっても」
逡巡を敏感に感じ取ったのか、妹は俺を睨め付けていた。
「死んだお母さんと、私、どっちが大事なの?」
「う、ううう、うわーーー」
目を閉じて思いっきり後頭部を叩いた。反動で両手が痺れる。握力さえ最早ないのか、バットは手から離れ、血溜まりのなかへ落ちていった。
「お兄ちゃん、ありがとう。きっとやってくれると思ってた」
美咲に抱擁されながらも呆然と考えていた。母親の死、ゾンビ、久しぶりに話す妹と、変わりすぎるその態度、今日1日であまりにも色々なことが起きすぎている。
「お兄ちゃん、ちょっと臭いかも。シャワー浴びてきたら?あとはこっちで片付けておくから。着替えも用意しておくし」
追われるように廊下へ押し出される。振り返れば閉まり始めるドアの隙間から、妹が少し笑っているように見えた。
「きっと疲れすぎて、変なこと考えたんだ」
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