第3話

 いつまでそうしていただろうか、なにか落ちてくるのを感じて目を開けると、結衣の顔があった。でも、それは結衣であっても、別のなにかに変貌していた。角膜は白く濁り、薄い灰色になっている。このまま放置していれば噛み殺されて、俺もゾンビになるだろう。それでも抵抗しようとも思わなかった。ただ、もう終わりにしたかった。


「ウウウウウウウ」


「結衣?」


「グウウウウウウウ」


 結衣は突然、立ち上がると壁に向かって頭を打ちつけ始める。


「もういいんだよ。俺はもうここまででいいんだ」


「早く、逃げて」


「結衣」


「私は、薫を殺したくない。ゾンビにもなりたくない、だから、薫の手で殺して」


 背中越しに聞こえてくる声は、弱々しくも凛としてはっきりとした意思があるように感じた。


「結衣、もしかしたら、まだ治せるかも知れない。だから、頑張って病院にいこうよ」


「グウウウウウウウウウ」


 一心不乱に頭をぶつけ続ける。壁紙は剥がれ、血はインク缶をぶつけたように飛び散っている。


「ギギギ」


 結衣が振り返ると、もうそこにかつての面影はなかった。額はへこみ、鼻は歪な形をして、半開きになった口からは絶え間なく唾液が滴り落ちている。そうして、手を伸ばして、一歩ずつ近づいてくる。


「結衣」


「グググギッギギギギ」


 彼女の最後の思いを叶えるために、俺は、もう覚悟を決めるしかなかった。


 両腕を払いのけ床に押し倒す。拳に力を入れると、目を閉じて振り下ろした。


 また、スマホから通知音が響く。気に留めることはない。事切れた結衣の死体を前に、膝を抱えて泣いていた。


 全身から噴き出す汗にスーツはびしょ濡れになっている。目の前にはすでに動きを止めている本当の意味での死体、閉じ切られた室内は、窓が湿気に覆われるほど、じめじめとしている。すでに陽は落ちており、真っ暗になっていた。ベランダを見れば、地獄の入り口のように暗闇が広がっている。電気のつかない室内に、死体二つと男が一人、連続殺人犯と疑われても言い訳できないだろう。


 警察に電話しよう。大阪がいまどういう状況かわからないけれど、なにかしないと。


 スマホを起動する。充電が残り20%しかない。通話アプリを開き、3桁の番号を入力する。お馴染みの呼び出しが聞こえる。


「現在、通話が大変混み合っております。お掛け直しください」


 一方的に通話は終了した。もしかしたら、同時多発的にこのような状況が各地で起こっているのかも知れない。それなら、警察も救急も繋がるはずがなかった。大阪には800万人近い人間が暮らしている。そうして、東京や関東から避難してきた人間が10万人から約100万人近くいるかもしれないと思うととうにキャパシティは超えているだろう。


「美咲に電話するか」


 泣き疲れぼんやりとした頭で思う。妹の美咲とはここ数年まともに会話もできていない。けれど、今ならそんなことを気にせず、話すことができるような、根拠のない自信が腹の底から湧き上がってくる。これまでに澱のように、脳にこびりついていた思考のカスみたいなものが綺麗さっぱり涙と一緒に流れていったのかもしれない。


 メッセージアプリの通話ボタンを押す。数コールしたのち、電話は切られた。


「えぇ」


 もしかしたら、実家でなにかあったのかもしれない。よくよく考えてみれば、引きこもりの妹と、病弱な母という、どうにもならない二人だ。急いで家に帰らないと。


 脳裏に他の同僚の安否を確認することもよぎりはしたものの、これだけのことが不特定多数の場所で行われているのだとしたら、お互いにもう気にしている余裕もないだろう。


 車に乗り込み実家にナビを合わせる。早くシャワーも浴びたいし、血や肉片でドロドロになった両手を洗い流したかった。


 入り組んだ生活道路を抜け国道沿いに出る。相変わらず路駐が多い。ただ、午後とは異なり、どの車にも人がおらず、街全体がやけに閑散としているように感じる。この時間帯なら帰宅するための人や、買い物帰りの主婦など多くの人で賑わうはずの場所で、人っ子ひとりいないのはあまりに不気味だった。


 カーナビを操作してラジオをつける。不快なリズムと高音の不協和音が突如として流れはじめる。


「大阪府民のみなさま、こちらは大阪府警察です。ただいま、感染症の広がりを受け、不要不急の外出を自粛をお願いしております。現在、感染症の具体的な発生原因、また、ワクチンについては、調査中となっております。ソーシャルネットワーキングサービスなどのデマ情報を鵜呑みにしないよう落ち着いた行動を心がけてください。また、非常事態であっても、犯罪行為は遡って処罰の対象となります。焦らず、最寄りの警察署に電話してください。つながりにくい場合は、大阪府が提供しているアプリ……」


 憲法に非常事態の規定がないため、警察や自衛隊は拘束する権利も、国民に対して移動を制限する権利も持ち合わせていない。憲法を停止し人権を止めることができないから、街を徘徊しているゾンビさえ射殺することはできない。有事の際になんて弱い国なのかと、人ごとのように思った。


最後までお読みいただきありがとうございます!

皆様からの★評価とフォローが更新の励みになっております。

よければ、★評価とフォローよろしくお願いいたします。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る