第2話
客が離れた隙を見計らい、壁を背にスマホを開いた。検索サイトで『関東 感染症』と検索する。トップヒットは、つぶやきの投稿だった。バレないように音を消して、再生してみる。
最初に流れてきたのは、水溜りを前に、立ちすくんでいる女性の姿が映っている。特に取り留めのない映像だったが、その女性は、Tシャツに短パンとラフな格好をしていて、肌は異様に白く、表情自体は髪に隠れてあまりわからなかったが、口元からなにか透明な液体が垂れている。なにかの映画の宣伝かとも思ったが、こんな時期にすることでもない。
動画を閉じリプライを確認していると、この女性の右腕に人の歯形がついてあるらしく、感染経路はそこからじゃないかと書かれていた。
「月城さん、このベランダってどっち向きでした?」
「南向きです」
「そうなんですね、千葉の家では北向きだったんで、日当たりがすごい悪かったんですよ」
「それは辛いですね」
「お風呂場はどんな感じでしたっけ」
「あ、佐藤さん、案内してあげてくれる?」
「わかりました」
結衣が客を連れて離れて行った隙に、ほかに該当の動画がないかスクロールしてみる。どの映像も似たりよったりで特に収穫はなかった。画面を閉じ、ポケットに戻そうとすると振動した。どうやら妹の美咲からメッセージアプリでリンクが送られてきているようだ。
『もし、近くに関東から逃げてきたやつがいたら、すぐ逃げろ』
「やば、えげつないタイトルついてんじゃん」
スマホで撮っているのか、手ブレがひどい。なにかに追いかけられているのか、空を向いたり、地面が映ったり、安定しない。路地裏でも走っているのか、エアコンのダクトや、ビールの空き缶、パンパンに詰められたゴミ袋があちこちに散乱している。そのまま走り続けているものの、どうやら行き止まりらしく、やっとまともな映像がが見れるようになった。
撮影者は、行き止まりの壁を背に待ち構えている。小刻みに映像が乱れているのは、手が震えているからなのか。音を消しているため、話しているのは確認できないが、息遣いが聞こえてきそうなほどに緊迫感があった。
三人の男女が歩いてくる。共通しているのは、全員服装が乱れており、女性に関しては、上の服を着ていない。いずれも、肌は白く、口元には血が滲んでいる。黒目がない。白濁しているようだった。
意を決した撮影者は、近くにいた女性に体当たりをして、逃げようと試みる。何かにつまづいたのか、引っ掛けられたのか、前のめりに倒れたところを、覆い被さられ手や足を噛まれてしまったようだった。よくできたホラー映像だとも思う。でも、あまりにリアルで、指を噛みちぎられているところも、CGの入り込む余地がないほどにリアルだった。
「戻ってくるの遅いな」
廊下とリビングを仕切るドアをあける。暗い廊下にスマホのライトを向けた。廊下の左側には洗面所やお風呂、右側には洋室がある。洗面所から順番に確認していくも誰もいない。洋室の扉に手をかける。なにかが挟まっているのか、びくともしなかった。
「お客様、なにかありましたか?」
返事もないため、扉に耳をあててみる。
「ぐちゃ、ぐちゃ、ぐちゃ、ぎぎ」
咄嗟に力を入れ、思いっきりドアを蹴り飛ばす。洋室は一段下に作られており、段差があったために引っかかっていたのだろうか、開いたのと同時に、客が転がっていくのが見えた。
「結衣、なにがあったんだよ」
首筋から見たこともないくらい大量の血を流し仰向けに倒れている。
「薫、大好きだよ」
結衣の右手がそっと頬に触れて、力なくフローリングに落ちた。跳ねた血が顔にかかる。もう瞳はなにも映していない。
「グウウウウウウ」
スーツの男が歪に匍匐前進しながら結衣の身体に近づいてくる。あの動画は本当だった。でも、いまはそれどころではない。怒りに任せるように、足を振り上げ、男の後頭部をめがけて振り下ろした。骨の折れる鈍い音が聞こえる。
「グヴェグウウウウウウウウウウ」
「死ね」
何度も何度も何度も何度も頭を蹴り続けた。思いのほか頭蓋骨が硬く、運動不足の身体にはかなり応えたが、どうにか動かなくなった。スマホから聞き馴染みのない通知音が聞こえたが、そんなことはどうでもいい。
「結衣、結衣、結衣、結衣、なんでだよ、なんでなんだよ。俺には無理だよ。お前がいなかったら生きていけないって」
やっと付き合うことができたのに、お互いに好きになれたはずなのに、なんでこんなことで奪われないといけないんだ。
最後には二人だけでいたくて結衣の身体を抱え上げリビングまで運ぶ。そっと床に寝かせると一緒に横になった。固い床も気に留めず、緊張と急な動きに痛めた身体を伸ばす。胃の痛みに耐えながら、そっと目を閉じれば、意識が次第に溶けていき、眠りに落ちた。
いつまでそうしていただろうか、なにか落ちてくるのを感じて目を開けると、結衣の顔があった。でも、それは結衣であっても、別のなにかに変貌していた。角膜は白く濁り、薄い灰色になっている。抵抗しようとも思わなかった。ただ、もう終わりにしたかった。
「ウウウウウウウ」
「結衣?」
「グウウウウウウウ」
結衣は突然、立ち上がると壁に向かって頭を打ちつけ始める。
「もういいんだよ。俺はもうここまででいいんだ」
「早く、逃げて」
「結衣」
「私は、薫を殺したくない。ゾンビにもなりたくない、だから、薫の手で殺して」
背中越しに聞こえてくる声は、弱々しくも凛としてはっきりとした意思があるように感じた。
「結衣、もしかしたら、まだ治せるかも知れない。だから、頑張って病院にいこうよ」
「グウウウウウウウウウ」
一心不乱に頭をぶつけ続ける。壁紙は剥がれ、血はインク缶をぶつけたように飛び散っている。
「ギギギ」
結衣が振り返ると、もうそこにかつての面影はなかった。額はへこみ、鼻は歪な形をして、半開きになった口からは絶え間なく唾液が滴り落ちている。そうして、手を伸ばして、一歩ずつ近づいてくる。
「結衣」
「グググギッギギギギ」
彼女の最後の思いを叶えるために、俺は、もう覚悟を決めるしかなかった。
両腕を払いのけ床に押し倒す。拳に力を入れると、目を閉じて振り下ろした。
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