第十二話
場所は変わり、居酒屋、「はばきり」にて──
「ほーい、
「遅い。お前もこんな雨の日に出歩かなくたっていいだろ。見ての通り、今から避難する。お前も早く準備しなさい」
娘の帰還に一安心する。このまま事故に巻き込まれていたらと思うと、たとえ子供が成人していても心配になってしまうのが親心というものだ。
藤村君も先ほど店を出て単独で避難所に向かった。彼の自宅はまだ浸水区域に入っていないらしく、急いで戻って荷物を取るとか。
家まで戻って出発するころには近くまで水が来るかもしれない、と忠告したのだが、静止も聞かずに出て行ってしまった。
こういう時、しっかりと意見を述べず、勢いに流されてしまうのは大人として弱いところだと自覚してはいる。もし、これで彼が危険な目にあったらそれは私の責任だろう。
「えぇ……やっと戻ってきたのにまた雨の中出ていくのー?」
「避難指示が出てるんだぞ。ここに残ったって危険なのは変わりない。本当に動けなくなる前に出るぞ」
「へーい」
気の抜けた返事をして奥に上がる雪音。後ろに流した長い髪は濡れそぼっている。今年で二十一歳になる若い娘らしく美容には気を使っているようで、髪を伸ばすのはいいが、腰の上まであるのはやり過ぎではないかと父親としては気になる。
がしがしと乱暴に頭を拭くのに使われたタオルに目をやる。髪を伸ばしている割には、その管理は無頓着の一言に尽きる。雨水に濡れた黒髪が傷むことすら、彼女にとって些事に過ぎないのか。
「そうなったのは……」
背負ったばかりのリュックを降ろす。時間が無いことは分かっているが、心配性な私は何度でも確認してしまう。
懐中電灯……電池……ラジオ……他にもいろいろあるが、何もない所に放り出されても少しは生きながらえることができそうな品々が詰め込まれている。
再三の点検でようやく安心が得られた。レインコートの裾を伸ばす。店の安全確認もできた。今すぐにでも出られる。
「私のせいか……」
棚の上に置かれた、色褪せた写真を見る。
写真には、スーツ姿でも隠し切れない頼りなさげな雰囲気の痩せた男と、セーラー服に身を包み、賞状筒を両手で胸の前に持っている満面の笑みの少女。
証書を広げればいいのに、と言ったが相手にされず、友達の所へ走っていってしまった娘。去ってゆく雪音の背中を見つめながら、頬を撫でる風に乗り、顔に張り付いた花びらを
とても明るくて、よく笑う子だった。それは大人になった今でも変わらない。
五、六年は会う機会がなかったはずだが、維澄に対しても昔のように接してくれている。ぎこちない私と違って、雪音と維澄はすぐに打ち解けていた。
「お父さん……維っちゃんは? 奥にもいないんだけど。どこへ行ったの?」
「あいつは……友達と先に避難したよ」
「友達? ここに来てたの?」
「ああ。一緒に飯食ってたな」
「普通は、お友達だけ返すでしょう? 何で維っちゃんまで行っちゃったの?」
「そいつは……急に出て行ったから分からん」
この年になって娘に詰められるとは、何とも情けない。
「お父さん、維っちゃんに何かあったらどうする気?」
「……」
「ああ、もう。さっさと行くよ」
呆れる雪音をなだめるようにテレビが喚く。
〈……速報です。……城の一部城壁と石垣が崩落した模様です。原因は不明とのことで、新たな情報が入り次第お伝えいたします。市内は現在百ミリを超える猛烈な雨を観測しており、落雷と突風による被害を各所で確認しております。避難指示が出ている地区の方は直ちに避難をしてください。難しい場合は自宅や頑丈な建物の中に避難を……〉
「ここら辺ももうダメだな」
戸を少し開けて外を確認するが、もはや数メートル先も見えない。目の前には水に覆われた街並み。気が付けば、玄関の上まで水が来ている。床上浸水までするようなら、下手に外に出るほうが危険だろう。
「お父さんがぐずぐずしてるからよ……。仕方ないから、二階に上がるわ。あ、玄関に土嚢を置くくらいは手伝うけど」
「頼む……」
濡れていないレインコートを脱ぎ、物置に向かう。こんなこともあろうかと、準備はしておいた。このまま避難を開始するつもりだったが、こうなっては、店の後処理のために少しでも水を防ぐ手を打ったほうがいい。
厨房などは特に、汚水が入ってしまったらもうお終いだ。食品を扱う以上、衛生面に抜かりがあってはならない。
「お父さん、維っちゃんのこと、もっと関心を持ってあげたらどうなの?」
土嚢を担ぎながら、絞り出すように雪音は問いかける。
それは、何度も言われたことだ。
「……分かってる」
維澄は兄貴の忘形見だ。自分の甥のことは大切に思っている。
あいつも昔から寂しい思いをしてきた。大人として、そこはサポートしてやらねばなるまい。
だが、上手く距離感がつかめない。傍から見ればそっけない対応をしているように感じるときもあるだろう。私としても、積極的に会話が出来るように心掛けているつもりなのだが。
「気持ちは分かるけど、大変なのはお父さんだけじゃない。
「今話すことじゃない」
会話を一方的に打ち切り、立ち去ろうとする。
はっきり言うと、私は兄貴とあまり仲が良くなかった。結局、この店を継いだのも私だったし、大好きな物書きで稼いでいた兄貴のことは疎ましく思うこともあった。
終ぞ、現在に至るまで、彼の著作を読むことはなかった。小説を書いていたらしいが、私の耳に噂の一つも入らなったということは、あまり売れなかったのだろう。
「そう……でも、いつかは腹を割って話しましょう。維っちゃんと、お父さんのためにも」
「維澄のことはちゃんと大切にしているよ。……何かあっては、あの子の母親に合わせる顔がないからな」
あの時──母親の陰に隠れるように小さくなっていた少年──まだあどけなさの残
っていた維澄に言われたことを思い出す。
──何も知らないくせに──
涙ぐんではいたが、その眼は私を刺し貫く気かと思えるほど鋭かった。
維澄がこっちに来た時は、大人しそうな青年に成長していたことに驚きを隠せなかった。彼が高校時代に過ごした遠縁の
都会の幸せな家にいたというのに、今更田舎の叔父の下へ行くと決まったときは、彼なりに葛藤もあったことだろう。私も、わざわざこちらを選んで来てくれた維澄を失望させてはならない。
「維っちゃんは頑張り屋さんだから……気にかけてあげてね」
返事もせず、私は逃げるように階段を上る。卑怯者、と内なる己が吐く。
城が壊れそうだとニュースで言っていた。避難所は反対方向だし、近づくことはないはずだが、維澄も雫さんも大丈夫だろうか。
維澄のことは信頼しているけれど、それでも心配な私であった。
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