第十一話

 ビルの屋上に降り立つ。射出の勢いとは対称的に、着地はいやに素直だった。

 豪雨で眼下に広がる夜景は霞んでいるが、街に明かりが灯っているのが分かる。

 暗闇を導くともしびと呼ぶにはいささか頼りなく、深海に瞬く魚たちの瞳のような静けさは、この光景を永遠であるかのように錯覚させる。


「思っていたほど街が暗くない。避難していないのか?」


「浸水しているときは、下手に動くのも危険。ほら、あの辺りを見て。おそらく、膝の上まで水が来てる」


「増水するならどの場所も均一に水位が上がるものだと思うんだけどな」


 雫が指した方向に目を向ける。あそこは大学周辺で学生が多く住んでいる……。住宅地には用水路が張り巡らされており、そこが一気に溢れたのだろう。だが、そうならないために水門もある。町全体に影響が出る前に、その区画だけで被害が大きくなることなんてあるのだろうか。


「街全体を視る。浸水が著しく激しい場所を洗い出せるし、奴の足跡を見つけられるかも」


 望遠鏡の倍率を変えるように、眼に写す世界の尺度を変える。全ての要素を点で視るから捉えきれない。この街を覆いつくさんとする濁った水を面で捉える。

 過去の像が視えた──街を浮かび上がらせるように、増えた水が巻き戻されていく。


「最初に浸水し始めたのは──大学前の大通り……? あそこも確かにハザードマップでは浸水想定区域だったけど、標高は他よりも少し高かったはず。他よりも先に水が来るなんてことは……」


「局所的に雨を降らせることは神の異能でできるし、水遁の術のように大量の水を呼ぶことも出来るけど、その類じゃないようね。雨水の流れを操作している感じかしら」


「いや、浸水が早すぎるのは不自然なんだけど、意図的に大量の水が現れたってことじゃなさそう。増水と浸水の広がり方は自然に見える」


 道がまず水浸しになる。そこから枝を伸ばすように、市街地の路地などに水が這っていく。

 街全体が雨水を吸い上げていく様子は不気味な生物のようで気分が悪い。


「大学通りを何で最初に浸水させたんだ?」


「よく見て。あの通りは街のどこを走ってる?」


 学園都市の様相を呈しているこの街では、駅から延びるメインストリートの伸びる先に大学がある。川を越えて城を横切ったところで東に湾曲し、しばらく伸びた先に大学が設置されている。


「大学通りが東西に走っているでしょう。あの一帯で大きな道はあそこだけ。そして北に行けばすぐに山。逃げるなら南だけど、そのためには通りを突っ切らなきゃいけない」


「逃げ道を塞いでるってことか。というか、そうならないために地下に雨水貯留管が張り巡らされているはずなんだけど」


 豪雨対策として一般にイメージされるのは、ポンプ場で排水を強化するものだろう。

 このシステムは下水道管に分水施設を造り、下水道管内に一定量以上の水が溜まると、下水道管よりも低い位置にある貯水管に流すというものだ。

 貯水管に溜まった水は近くの川に流される。川にそれを受け入れる能力がない時は、ポンプ場で運転時間や排水量を調整する。

 つまり、溢れる分を一時的に取り込み、河川に余裕が出来てから戻すという便利なものだ。


「排水性能を凌駕するほどの水が一気に押し寄せてきたってことかよ」


「そういうことね。奴の狙いは完全に街の人間の殲滅……人を守る使命を負った守り神が人を攻撃することを目標にするなんて、何者かに誑かされたのかしら……そうだ

 としても目的は何なの?」


 拳を握りしめ、歯を軋ませる雫。彼女がこれほど分かりやすく憤怒を露わにしたのは初めてのことだ。


「維澄、洪水の起点は分かったでしょう。そこから奴の歩みを辿って。根城を見つけるのよ」


 大学通りの伸びる先を目で追う。そうだ、大学から真っすぐ通りを西に進んだら──


「雫、城だ! 東西に走るメインストリートは城を横切った所で曲がる。大学通りという一本道のゴールを東にある大学前にするなら、そのスタート地点は真西にある城がちょうどいい」


 雫は手を叩き、


「それよ! やっぱり維澄は犯人探しが天職ね。それに、城は街の守りの要。あそこを手中に収めているなら、街にそれなりに大きな影響を及ぼせるはず」


 と言ったが、ここで俺には疑問が浮かんだ。

 城が街の守りの要──というのはすんなり理解できた。だが、それが敵の手に落ちているというのは一体……。


「前に言っただろ、城は街のシンボルだって。それが乗っ取られたのに何も気が付かないのか?」


「あれは人間が人間のために造ったものだから……人間の文化に過干渉しない以上、無暗に手は出さないわ。あそこは人間が守ってるし」


「人間が守る?」


「人の身で悪霊や妖怪に立ち向かう者──封魔師ふうましのことね」


 もちろん初めて聞く単語だ。とにかく、人間の世界にも頼りになる勢力がいるということだろう。

 でも、城が奪われているということは、


「彼ら、勝てなかったみたいね。でも、街の一部の楔はまだ保持されているから、完全敗北ってことでもなさそう」


 それでも、人間は立ち向かっているようだ。

 城に突入すれば、封魔師たちと共闘出来るかもしれない。


「じゃ、急いで行きましょ!」


「おい、またアレを……」


 周囲に風が巻く。


「うーん、今回はちょっと遠いね。着地の安全が約束できないから、しーっかり掴まっててね」


「やっぱりかよぉ」


 もう抗議も諦めた。今度は自分から雫に掴まりに行く。


「風よーし、視界よー……くはない、相棒よーし、だいたいよーし」


「そこはオールグリーンと言ってほしかった」


 俺の呟きは風音にかき消されて誰の耳にも入らない。空しくも、風雨は強まる一方であった。


「飛んじゃうよー!」


「あ、あーーー!」


 呼び集められた空気の奔流が俺たちを夜空に押し出し、二人は雨に駆ける。

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