第十話
「ねぇ! 行く当てはあるの!?」
後ろから雫の叫ぶ声が聞こえる。
「今から探すんだよ!」
店を出てからしばらく走った。地面はすでに茶色く濁った水に覆われ始めており、視たところ、このペースで増水すれば二時間後には腰までの高さになるだろう。
「ホントに考えなしね……戻れなくなったらどうするの?」
「祟り神をどうにかすればいいんだろ」
「簡単に言わないでよ。そいつをどうにかするのがわたしの仕事なのよ」
今走っているのはこの街のメインストリートにあたる。ここを真っすぐ進めば、街を二分する川に架かる橋にでる。現在もっとも危険度が高い場所なら、何か見つかるかもしれない。
「川に向かってるのね。確かにあそこが祟りの居る一番可能性が高い。実際、この街を沈めたかったら川を氾濫させるのが一番手っ取り早い。分かってると思うけど、そうなったら本当に死ぬわよ」
そんなことは理解している。今だってすでに街はヴェネツィアみたいになっているのだ。動かなくなった車が道……だったところに乗り捨てられている。
現在の水位はくるぶしあたり。まだ何とか脚で動ける程度だが、膝より高くなったら下手に動くほうが危険だ。
「絶対にマンホールとかに落ちないでよね。わたしでも助けられないわよ」
「そいつは心配無用だ」
すでに俺の脳はキャパオーバーだが、今は常時過去視を使っている。水面の渦巻きがどこから発生しているかを視て、汚水が吸い込まれている場所を見分けている。雨で水面が揺れ、視界もままならない中では、視界に投影されるように過去の像が写るのは非常に便利だ。
「もうすぐ川だぞ」
かなり走り続けたところで橋が見えてきた。アーチの頂点から雨水が滑り落ちており、美術館に置いてある現代アートのようだ。
「まだこの辺りにも人がちらほら居るぞ……駅がそこにあるからか。公共交通機関が麻痺してるし、どうするんだ」
「このまま川が洪水を起こしたらとんでない被害が出るわよ。すぐに奴を見つけ出して止めなきゃ」
足元を流れる水に逆らい、橋を駆け上がる。
橋のちょうど真ん中に着き、俺は川全体を視る。
二時間分遡って視たが、やはり、ニュースで言っていた想定よりもはるかに増水スピードが早い。すでに異常だらけだが、どこか目立っておかしいところを必死に探す。
と、川の中央に何かがいたのに気が付いた。およそ三時間半ほど前の過去。ちょうど雫と山で出会ったころの時間だ。
「雫、俺たちが山に居たころ、ここに何かが居たみたいだ」
「何か、って何よ。もっとよく見て説明して」
「空間の過去を視るだけで疲れるんだ……見たところ、着物を着ていたみたいだ。多分白色。死装束にも見える」
俺の視界の奥、川の中央上空にソレは居た。信じがたいことに、人間が宙に浮いていた。
そして、宙に舞っていた。宙を舞う、ではない。言葉通りの意味で、空中で舞を踊っていたのだ。
純白の死装束は雨に濡れ、その寂しさを引き立てる。だが、揺らぐ袖は飛沫を散らし、降り注ぐ雨に消えることない確かな存在であることを示している。虚空を踏む裸足は咎人を思わせるが、その足取りは軽やかで、一目で舞に秀でていることが察せられる。唸る川と雨の音の中で安らかに踊るソレ──死装束の少女は静謐と形容するに相応しかった。
「雫……祟り神でも舞を踊るものなのか? 俺にはむしろ清らかささえ感じられるが」
「死装束……? 人の死は神様に与えられた命を返すということ。祟り神がそんな人間の象徴のようなものを着ているはずがない」
「じゃあアレは何者なんだ」
「人に仇成す時点で、祟りか妖怪変化の類であることは間違いない。でも、自然に干渉している時点で、守り神が堕ちた祟り神の線が濃厚よ」
「とにかく、あいつを探し出して何とかすればいいんだな」
再び白い人影に目を凝らす。──こちらに近づいてきて、橋の欄干の上に降り立っていた。
少女は波が立ち始めた川を見下ろし、何かを口走る。
「あ、たし、の、」
よく分からなかったが、何かを言い切った後、少女は満足そうに笑みを浮かべた。
「は、は、あはは」
先刻感じた清らかさは霧散した。生気の無い虚ろな瞳には濁る川が写る。笑ってはいるが、楽しんでいるとは思えない。ただ、この街が滅茶苦茶になることを望んでいるだけのようだ。
かくん、と首だけが傾いてこちらを見る。過去の像なので俺のほうを見たわけではないと分かっていても、やはり寒気がした。
その視線の先には──駅。少女がここに居た時間では、まだ人が多くいたはず。この街では駅周辺に所業施設や飲食店が集中しているので、必然的に人が集まる。やはり、人間を狙っている祟り神なのか。
少女は再びふわりと宙に舞い上がり、どこかに飛び去ろうとする。
俺は後を追うため、さらに過去を遡って視ようとして──
「が、あぁ」
眼に火花が散り、脳を割ったかのような痛みが走る。ふらついた俺は、冷え切った手すりに寄り掛かった。
「大丈夫なの!?」
「ちょっと視すぎただけだ。俺が視えるのは四、五時間分が限界みたいだな。あの子をもっと視ようと思ったけど、なんだか頭が理解を拒んでいるみたいでだめだった」
手すりに体重を預け、崩れそうになっていた身体を持ち直す。
「くそっ……この川に来る前にどこに居たのかが分からない。この街全体を見渡して、雨の様子が著しく変わっていたところを辿れば移動した軌跡が割り出せるかも」
「そんなこと言っても、さっきの子を視ただけでそんなに疲れるのでしょ。街全部を対象になんてしたら、情報量が膨大過ぎて、五分程度の過去を視ただけで脳が焼き切れるわよ」
それは俺自身が一番理解している。これまでの生活でこれほど能力を使ったことはなかったが、それでも限界というものは自覚できる。これ以上やったら壊れるぞ、という本能の訴えは否が応でも身体、精神の活動にブレーキを掛ける。
その点、俺の過去視は自動的、すなわちほとんど本能のように常時作用する。普段はむしろ、この眼が必要以上に働かないように意識を割いているくらいだ。その気になればいくらでもこの頭など壊してしまえる。
「大丈夫だ、考えがある。ちゃんと試したことはまだ無いけどな」
脳がオーバーフローするのは情報過多でパンクするからだ。ならば、必要でないものを対象から外せばいいはず。
「視る対象を限定してみる。もちろん視界には全部入っちゃうけど、雨雲と雨を一つの塊として捉えれば定義的な情報量は減らせるはず。あわよくば、あの子を見つけてそれだけを視れば手っ取り早く追跡できる」
「そんな無茶な……でも、維澄がそう言うなら試してみる価値はあるわね」
「自分で言っておいて何だが、近くに街全部を見渡せる場所なんてあの山くらいしか無いな」
「あら、意外と視野は狭いのね。ほら、周りをよく見なさい」
御覧なさい、と腕を広げる雫。その先にあるのは、
「地銀本部のビルか……確かに、あそこはこの街で一番高い建物だな。湖と川が交わるところにあるし、この街の自然を見たいならこれほど適当な場所はない。ここから十分も走れば着くけど、中に入れるとは思えないぞ」
「走る時間も勿体ない。飛んでいくわよ」
飛んでいく? 物凄く急いで行くって意味でいいのか?
「あ、ああ。急いで行こう」
「りょうかーい! じゃあ、ちゃんと掴まってね!」
雫が俺の腰に手を回し、しっかりとホールドする。
何だか嫌な予感がしてきた。
「おい、待て。まさか、物理的に飛んでいくのか?」
「そのまさかよ。ほら、わたしと肩組んで。空中で放り出されても知らないわよ」
「どうやるんだよ!?」
「ほら、いつか風を起こしたことがあったでしょ。あれの応用よ。風を集めて気流にのって飛ぶんだけど、正確には吹き飛ばされると言ったほうがいいわね」
風を集める……自然を司る神様である雫なら造作も無いことだろうけど、世界へ対抗手段をそんな気軽に使っていいものなのだろうか。
「維澄が能力の過剰使用で疲れるように、わたしも自然の力を使いすぎると疲れちゃうのよね。クールタイムが必要なの。でも、雨を止ませたりするのと比べたら、ちょっと飛ぶくらいはたいしたことないの。よし、もうちょっとね……」
周囲に空気が渦を作る。今は雨が降っているからか、風も湿っており、舞う雨粒が当たって痛い。
いつか見た風とは比にならないほど濃い空気。集められた風が俺たちを取り囲む。
「よーし、行くわよー!」
「おい! まっ……うあああぁぁぁ!」
カタパルトで射出されたように、一気に高度が上がる。バチバチと叩きつけられる雨は機銃掃射さながらだ。
さっきまで立っていた街が遠くなり、ビルの屋上目指して加速していく。地に足が着いていないというのは何とも落ち着かない。
重力から解放されたこの浮遊感──宙で舞う少女も、この感覚に浸っていたのだろうか。
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