第二話 秉燭夜遊
五
「ここもいつのまにかお街になってきたわねー。夜なのに明るいなんて大昔じゃ考えられなかったのよ」
「この辺りはね。自然が減るのは神様にとっては面白くないかもしれないけど」
時刻は午後七時を過ぎており、街が夜の盛りに入ろうとするなか、俺たちは川に架かる橋の上を歩いいていた。
湖に注ぐこの川は街を南北に二分する。市内を移動するには必ず橋まで行かなくてはならないので不便極まりない。河川断面が小さいせいで水位が低下しにくく、大雨の時には昔から洪水が発生していた。ダムの建設などの治水である程度は緩和されたものの、今のような雨が続いたらどうなるかは目に見えている。
「そうでもないよ。人間たちが幸せに暮らしていけるならそれでいい」
「でも、それは雫たちを信じなくなってるってことだろ。寂しくはないのか」
「いいの。もともと神様は人間そのものに対しては不干渉だし、守るべき存在の自助努力は嬉しくもあるわ。ただ、自然への影響を無視した無茶苦茶な開発はいただけない」
「その点、ここいらは人口も少ないおかげで土地開発は限定的だな。人間と自然がその境界線をきっちりと分かっているみたいだ」
「そうね。人間と自然の共存がここまで上手くいっているのは守り神として誇らしい」
「俺はこのままでもいいと思うんだけど、もっと土地を開発して都会に近づけようとか言っている奴もいるんだ。たしかに、田舎には人は集まらない。若者も外に出ていくばっかりだし、戻ってくることもない。ここだって、捨ててしまえるほど悪いところじゃないはずなのに」
俺は割れたタイルの欠片を足先で小突く。弾かれた欠片は軽い音を立てて転がった。
毎日多くの人間が行き交うこの橋ですら割れたタイルが放置されたままだ。直す金がないのか、はたまた誰も気にかけていないのか。自分たちで作ったものくらい管理するべきだろう。
「維澄だってその若者なのに、批判的なことを言うのね……。で、この川を見て何か思うことはないの?」
俺は雫に促されて川に目をやる。
「増水しているが……ちょっと視てみようか」
自然を相手にすると、無機物の過去を視るときよりも疲れる気がする。特に規模が大きい物はさらに疲れる。自然の物かつでかい物である川の過去を視たらとんでもなく疲れるだろう。
揺れる水面を凝視する。
水面の一点から、自身の視点を俯瞰に移行させるように高く意識する。俺の眼は川の全てを捉えた。
川岸を視ると、水位が急激に上がっていたのが分かった。遡った時間は四時間ほどか。脳が疲労を訴え、ひどい頭痛に襲われる。
「維澄、大丈夫?」
「あまり慣れていないんだ。日ごろは出来るだけ視ないようにしてるから」
「で、何か分かったかしら」
「いや、雨が降ったから増水しているって当たり前のことが確認できただけ。やっぱり、過去が視えたって変わりないだろ」
年甲斐もなく少し拗ねたことを言ってしまった。特別なことを期待されたのに、何の成果も挙げられないというのはやはり気分が良くない。率直に言えば悔しい。
「そういえば、こんだけ大雨続きなのに、思っていたほど街の人たちは慌ててないな」
「これだけ毎日のように雨が降っていたら、日常の風景になるでしょう。それに、大ごとになるかもしれないなんて考えていなんでしょうね」
雫は呆れたように言い放った。命懸けで戦ってきた者としては、危険がすぐそばにあるというのに全く危機意識がないというのは複雑な気持ちだろう。
そんなやり取りをしているうちに橋を渡り切った。ここから先は街の中心部だ。専門店など大きな店があるのもここだけで、買い物のためだけに街に来るものも多い。観光地である神社や城が近くにあるためか、宿泊施設も駅の周辺に展開している。
「眠らない街だぜ……もっとも、都会ほどじゃないから深夜には誰もいなくなるだろうけど」
「今の時間だと、仕事終わりの人たちが外食してるころかしら」
「へえ、詳しいね」
「人間社会に溶け込むためにも、人間についてはある程度の知識はあるわ」
「普通の人間には雫はどう見えるんだ。というか、人間社会に溶け込む必要性なんてあるのか」
自然を相手にするのが仕事ならば積極的に人間と関りを持つ必要はないし、神様は人間に不干渉と言っていたはずだ。
「わたしは人間に近い神様なの。その気になれば存在の定義を限りなく人間に近い状態にまで持っていける。ほぼ人間として活動する必要があるときもあるのよ」
「どういったときに」
「それは……こうやって街に出るときね」
「監視とか警戒が目的なら、それこそ人間に存在がバレるのはまずいんじゃないのか」
「いえ、どうしても相手にわたしの存在を知覚してもらう必要があるの」
「なぜ」
「だって、お会計できないじゃない」
「は?」
「だから、お買い物するときお金払うでしょ、わたしの存在が分からなかったらできないじゃん」
神様がお買い物だと。常識外れの常識外れなどどう解釈しろと言うんだ。
「な、何を買うんだい」
神様の買い物なんて恐ろしい。山を丸ごと買ったりするんだろうか。
「和菓子よ。ちょっと昔にできたお店でこの近くにあるんだけど、季節のお菓子とかいっぱい種類があっておいしいよ」
意外にも普通だった。それも年相応の少女らしいもの。しかし、五百年生きてきた神様でも舌鼓を打つお菓子店だったのか。なにせ和菓子はお高いから久しく口にしていない。叔父の店で余った安物の羊羹を齧ったのが最後だったか。
「あそこは明治からあるんだぞ……ってことは百五十年くらい通ってるのか」
「そうそう。ずーっと変わらない。何年たってもね」
「どれだけ街が姿を変えようとも、伝えられた味は同じか」
「あそこの名物のお菓子は一度製法が分からなくなってしまったのだけれど、明治初期に職人が苦心の末に復活させたの。それがあのお店の始まり」
「へぇ……それは知らなかったな」
「やっぱり人間って素晴らしいわ。あれだけでも、わたしが使命を守り続けるべきだと思える」
「世界がどうとか言っていたとは思えない。一気にスケールが小さくなった」
「些細なきっかけでも、明日を生きてみようと思えるならそれでいいじゃない」
「まったくだ」
雫は笑っていたような気がするが、彼女の顔を見ることができなかった。特に目標もなく、ただ日々を漫然と過ごしていた俺はその言葉に背後から貫かれたような気がしたのだ。平静を装ったつもりだったが、羞恥に歪んだ顔をしていたに違いない。
「さて──もう街のど真ん中ね。たとえ普通の人間だとか風景に見えても、少しでも怪しいと思ったらすぐに過去を視て。疲労のことを考えたら乱発できないと思うけど、出来るだけ頑張って」
「御意」
侍みたいな返事をした。どうやら、俺はこの説明不可能な状況をどこか楽しんでいるらしい。特別を自覚しながらも、あえて平凡にすぎる人生を送ってきた俺には、この刺激は麻薬のように渇きを潤していた。
「で、今の街を見た感想は?」
声を少し低くして雫が聞く。その様子に浮かれていた己を律した。こんな能天気な神様と一緒に居たら、自分がどんなに危険なものに挑んでいるのか分からなくなりそうだ。
「そうだな、まず人が少ないな。夕方まで雨だったから当然だけど。もしかして、その祟り神も雫みたいに人間に化けているかもしれないのか」
「化けるだなんて失礼ね……でも奴に限って言えばまさにその通り。人に敵なす祟り神が人の形をしているなんて考えただけで恐ろしい」
「じゃあ、なにかおぞましいものが感じられたらそいつかもしれないって認識でいいか」
「そうね。行き交う人々をよく観察して。人でなくても、危なそうなものがあったら視てみてね」
「簡単に言うなよ……けっこう疲れるんだぜ。それに、俺の場合は過去を視ないと始まらない。片っ端から視ていくしかないんだぞ」
不満を漏らすが、神様はそんなことお構いなしに注文を付けてくる。
「そういや、その人間に化けた神様は雫じゃ見破れないのか」
「今のわたしみたいに中途半端な状態か、神の本来の能力を発動している状態なら看破できるわ。でも、祟り神になって、存在のラベルが異なるものになっているならその限りじゃない」
「そこにいるのが当たり前、ってか。それで過去へ遡れる俺はアタリマエへの特効兵器というわけね」
俺は周囲を見渡す。街が雨に濡れているのはいつものことだ。ちらほらといる人たちも傘を持っていたり、ずぶ濡れの姿だったりする。が、視線の奥に見知った人物を見つけた。
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