第二話

「はぁ、はぁ」


 やはり疲れる。ぬかるんだ山道は歩きにくいことこの上ない。毎月通っている道なのにまるで初めて来たみたいに別物に見える。雨のメカニズムだとか水分の循環を科学的に解明することはできても、自然のことを人間が真の意味で理解することなどできないだろう。


「ああ……ようやく見えてきた」


 木々の間を抜けると木の無い空間に出た。

 そこには、人の手で綺麗に加工された花崗岩や御影石が並んでいる。俺はレインコートのフードを取り、一礼してからその場に足を踏み入れる。正しい作法かどうかは知らないし、自分にとっては赤の他人であるけれど、ここに居る者たちに対しては礼を尽くすべきだろう。

 俺はしばらく歩いていき、一番奥まで進んだところで足を止める。


「お久しぶりです──父さん、母さん。生憎の天気ですが、雨で汚れも綺麗になるでしょう。この季節の雨は冷たいでしょうけれど、まぁ、仕方ないですね。親不孝とは分かっていますが、例によってお菓子もお花も用意できていません。学生はなにかとお金が必要なので大目に見て下さいね」


 いつものように両親に挨拶をする。供えるものもないので、これだけで目標は達成だ。

 父は俺が高校に上がってすぐに交通事故で他界した。母はもともと身体が弱くて、父が亡くなったショックで体調を崩し、事故の一か月後に後を追うように亡くなった。

 当時暮らしていたのは都会だったけれど、父の弟──叔父の計らいで両親のお骨は故郷の地に移された。家族を亡くした俺は遠縁の親戚に預けられ、高校卒業までをそこで過ごし、大学進学を機に叔父のもとで居候することになったというわけだ。

 一般的に見ても決して幸福とは言えない生い立ちだろうけれど、もっと苦しんでいる人もいるだろうから、俺が弱音を吐くわけにもいかない。


「淡泊だと自分でも思いますけど、もう行きます」


 親子の再会ではあるけれど今一つ実感がない。多感な時期に身近な人間の死を体験したからか、死者を悼むということがこの年になってもピンとこないのだ。


「さあ、帰ろう。叔父さんも心配するし」


 俺は来た道を戻ろうと振り返ろうとして──視界の隅に白い影を認めた。


「──!」


 気が付くと地面を蹴っていた。滑って転びそうになるが何とか姿勢を戻して次の一歩を踏み出す。運動神経は良いほうじゃないが、高校のときの体力テストはなぜか上位に食い込んでいた。ただ跳んだり走ったりするくらいなら人並み以上にこなせる自信がある。


「速い」


 しばらく全力で運動する機会がなかったから衰えているのは仕方ないが、本気で身体をフル稼働させているというのに全く追いつく気配がない。


「なあ、待って……待ちやがれ!」


 思わず声を荒げ、らしくないことを口走る。

 白い影は曲がりくねった山道をすいすいと進み、どんどん山を登っていく。いつも墓地までしか登らないから、この先がどうなっているかは知らない。

 眼前に広がる樹木のカーテンは感覚を覆いつくす。自身が今どこにいて何が見え何が聞こえ何を感じているかも分からなくなる。

 もう、どうしていいか分からない。たかが低山と舐め腐っていたのは事実だ。認めるしかない。怖い怖い怖い。木が雨が山が、俺を圧し潰そうと圧し掛かってくる。

 今できることはあの白い影を追うことだけ。今の俺にはソレしか見えていない。このままアレを追いかければ、何か良くないことが──そんなことはどうだっていい。とにかくこの恐怖から逃れたい。その一心だ。


「ァ、あァ」


 急な坂を準備運動もなしにダッシュしたものだから、身体中の筋肉が骨が関節が悲鳴を上げる。悲鳴を上げたいのは俺のほうだ。黙って言うこと聞いて動きやがれ。

 かなりの距離を走った気がする。雨粒に叩きつけられながら顔をあげると、木々の隙間から真っ黒の雲が覗いた。


「頂上が近いのか」


 そう声が出た。進行方向に向き直り脚に力を込める。遠く視線の先に白い影はもう見えないが、この先に必ずいる。理由はやはり解らないが、そんな気がするんだ。

 坂を駆け抜けると開けた所に出た。周囲は雨のせいでよく見えないが、あの湖と城の天守、街のど真ん中にある大学がうっすらと確認できる。天気がよければああいい景色だなとでも思えただろう。だがそんなことどうでもいい。目の前で理解不能な光景が広がっている。

 巫女服姿の女が山頂で祈っている。地に跪き天に祈っている。


「危なかったぁ、何とか間に合ったよー」


 雨が止んだ。相変わらず曇天だがそれでも降りしきる雨はその手を止めた。眼下の街並みが見えるようになる。自分の暮らす街をこんなふうに俯瞰したのは初めてだが、その感動よりも今自分の遭遇している未知に意識は全て割かれている。


「ん、あー、えっとですね」


 女は立ち上がり、俺に話しかけてくる。その表情は、漂う雰囲気は、年相応の少女それで、背骨を串刺しにするような戦慄は微塵も無い。


「あははー見られちゃいましたかー……これはまずいですねーまさかこんな雨の日に山に来るお馬鹿さんがいたとは」


 ごく自然な流れで侮辱されたがそれよりも重要なことが。やっぱりアレは人じゃなかった。ユーレイかなんかの類なんだ。詳しいことは俺の与り知らぬことだがあの祈祷で雨を止めたんだ。これは、俺みたいなフツーの奴が関わっていいモノじゃなかった。

 なのに、今目の前にいるコイツからは一切そんなものは感じられない。疲労と認知不協和で今にも倒れそうだ。


「えーっとですね……あ、まずは自己紹介をしますね。わたしのことはしずくと呼んでください!」


 俺の混乱をよそに雫は暢気なことを言って、


「わたし、この土地の神様なんです!」


 俺の人間としての常識を跡形もなく粉砕した。

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