第28話 モラトリアム
ショーンは、がらんとした執務室をゆっくりと見回す。
棚や引き出しに収まっていた書籍や資料は、すでにこの部屋から運び出されている。
この部屋を使うこともこれからは少なくなるのだろう。
後悔と共に寂寥を噛み締めていると、ノックが響いた。
入室を許可すると、シャーロットが入ってくる。
「お父様。
お呼びと伺いましたが」
執務机ではなく、応接用のソファセットの方にかけているのを見て、驚いたようだった。
以前であれば、この部屋でシャーロットがショーンの姿を見るのは、執務机で書類の決裁などをしているところだっただろう。
だが、今はもうショーンが決裁するような書類はほとんど無い。
フェリクスと相談しながら急いで業務の移譲を行なっており、それも粗方済んでしまっている。
もっとも、ある程度詳しく協議しないと担当を割り振れない部分は、そっくりそのまま宰相に投げただけなので、その分宮廷貴族が忙しくなっているだけとも言えるが。
それでもとにかく、国政の業務から国王を切り離すことを優先する必要があった。
結果として、ショーンは以前からは考えられないほど暇になっていた。
「うむ。
まあ座れ」
シャーロットを対面のソファに招き、向かい合って座る。
「先ほど、ノーマン家から早馬が参った。
反乱軍の討伐を完了したとのことだ。
王子リオン、ローレン公爵エリオット、近衛隊長カルニス、三名の首謀者は全員戦死。
一部の重傷者を除き、生存者はおらぬ、と」
覚悟はしていたのだろう。
シャーロットは声を出さなかった。
だが、その表情は青褪めている。
胸が痛む。
特別に仲の良い兄妹だったわけではない。
だが、ごく普通の家族としての交流はあった。
その家族が戦場に散ったと聞いて、平静でいられるわけが無い。
王としても、父としても、多くの後悔がある。
だが、事がここに至ってしまっては、これよりも良い解決策は無かっただろう。
「これで、共和政への移行は成るだろう。
その準備は宰相のもと、宮廷貴族が行っておる。
もはや我らに、それに関わることは許されぬ」
これからアルスターが取る共和政という政治形態について、王妃と娘にも説明はしてある。
それがどういったものか、完全に理解しているわけではないだろう。
ショーン自身、理解しているとは思うが、実際にそれで運営される国については想像が及ばない事が多い。
だが、はっきりしていることもある。
ヴェスタ家には、もはや何の力も無くなるということだ。
王家の直轄領は全て没収され、『国』の直轄地となる。
王家の資産は全て没収され、『国』から支給される王室費で日々を営むことになる。
王家の実権は全て剥奪され、『国』の指示通りに飾りとして振る舞うことになる。
「私は良い。
自らが招いたことだ。
リオンが命を落としたこともそうだ。
側室たちには実家に帰らせることにした。
子らにとっても、その方がまだ生きやすかろう。
だが、流石に王妃や嫡出の王女にその道は無い。
お前には、ヴェスタ家を継いでもらう以外の道を与えてやれぬ。
お前には何の責任も無い。
だと言うのに、辛い人生しか残してやれない。
すまぬ」
ショーンは娘に対し、深く頭を下げた。
「お前の婚姻も難しくなる。
我らに政略的な価値はもはや無い。
むしろ、政略的な価値を見出す者との婚姻は絶対に避けねばならぬ。
そのような輩と繋がれば、今度は家の存続も許されぬだろう。
ヴェスタ家には、歴史の証人として静かに家を継いで行く他に道は無い」
しばしの沈黙が落ちる。
シャーロットが、ゆっくりと唇を開いた。
「いえ。
むしろ、これで良かったのでしょう。
婚姻や婚約が調っていた場合の方が厄介なことになったかと存じます。
相手が国外であれば、その縁を口実に干渉して参りましたでしょうし、国内であればお兄様と呼応して反乱に加わったでしょう。
その場合、ヴェスタ家自体の存続も危うかったと存じます。
それをしないような家であれば、離縁や婚約解消となっていたでしょう。
いずれにせよ、縁が無かったのです」
血の気の引いたままの表情で、俯き加減で。
「これで良かったのでございます。
わたくしには、女王など務まりません。
ただ静かに家をつなぐ。
その方がわたくしに向いております」
自分に言い聞かせるように言う娘の姿が悲しかった。
「それで、わたくしをお呼びになったのですね」
「はい。
忙しいところを申し訳ありません」
シャーロットは、王宮の庭園のガゼボでオリヴィアと向かい合っている。
オリヴィアとは近い将来、義理の姉妹になる予定だったのだ。
昔から交流がある。
むしろ、リオンとオリヴィアの間よりも交流が深い。
シャーロットにとっては、最も身近で信頼できる女性だ。
「わたくしは、王女として嫁ぐ前提で、今まで生きてきました。
相手が他国の王族であれ、我が国の貴族であれ、婚家との絆をしっかりと結ぶ事が役目でした。
それが突然、女王になるのだと言われました。
お兄様が王位継承権を剥奪されたために、わたくしが継承権が第一位なのだと。
大変混乱しましたし、それ以上に国を背負うという重みに押し潰されそうでした。
それでも、ヘンリック殿に助言をもらい、わたくしなりに覚悟を決め、どのような王となれば良いのか、必死で考えておりました。
だと言うのに、今度は女王となる道も無くなり、ただの貴族として生きることになると。
いえ、ただの貴族よりも不自由ですね。
どのような形であれ、力を持つことを憚らねばならないのですから。
……もう、どう生きれば良いのか、分からないのです」
耐え切れずに、涙が溢れた。
卒業式のあの日以来、激流に呑まれる木の葉のような日々だった。
大きく変わる状況に翻弄されながら、それでも己に課された役目を果たそうと必死だった。
だが、必死でもがいている最中にその役目自体が消えてしまった。
シャーロットには、何をすれば、どこを目指せば良いのか、分からなかった。
これまでずっと、与えられた役目を果たすために生きてきたのだから。
「失礼いたします」
オリヴィアが席を立つと、シャーロットの隣に座る。
肩に手が回り、そっと引き寄せられた。
シャーロットは、姉になるはずだった人の肩に目元を乗せた。
静かに、時が過ぎる。
春の盛りを迎えた温かい風が、心を落ち着ける花の香りを運んでくる。
小鳥達が、小さな嗚咽を覆い隠すように歌う。
伝わる人肌の温もりが、孤独を溶かしてゆく。
やがてシャーロットは、静かに顔を上げた。
「恥ずかしいところを見せてしまいましたね」
「いえ。
お辛い御心の内を察せず、申し訳ございませんでした」
シャーロットは静かに首を振る。
オリヴィアはオリヴィアで、大変な状況だったのだ。
シャーロットのことにまで気を配っていられる余裕など、あるはずが無い。
誰もが、自分のことで必死だった。
誰が悪いわけでもない。
強いて言うならば、元凶が悪い。
落ち着きはしたものの、何となく離れ難い心地でいるシャーロットをよそに、オリヴィアは何かを考えている。
やがてそれがまとまったのか、オリヴィアの視線がシャーロットに向いた。
「それではノーマンを訪れてみられてはいかがでしょうか?」
「ノーマンを?」
突然出てきた単語にシャーロットは虚を突かれた。
「はい。
わたくし達アルスターの者は、ルガリア流域の諸侯を除いて、ノーマンについてあまりにも無知でございます。
今回の件で、それを思い知りました。
今後のアルスターがどうなるのか、鍵を握っているのはノーマンでございましょう。
ですので、もっと詳しく知らなければならないと存じます」
「それは、同感です」
シャーロットは頷く。
ヘンリックとの会談で、感じたことだ。
「わたくし達が無知であっただけで、ノーマンには様々な優れたところがございます。
軍事力だけの田舎者ではないのです。
幸いなことにわたくし達の世代には、ソフィア様やヘンリック様がおられます。
少し上にはアルバート様もおられます。
まずはわたくし達が率先してノーマンを知り、一つの国としてまとめていかなければなりません。
実は今、宮廷学校の教授陣に、講義の中にノーマンへの視察を入れられないか、提案しているのです」
「まあ」
驚いた。
そして少し落ち込んだ。
シャーロットが「感じた」だけで終わっていたことに対して、オリヴィアはすでに具体的な行動を始めている。
「すぐには実現しないかもしれません。
ですが、少なくともわたくしは今年の夏にはノーマンを訪れてみる予定でおります。
ノーマン貴族の方々や、商人達から多くのことをご教示いただきましたが、やはり自らの目で見なければ、真に知ったとは言えないと存じます」
「それは、輿入れの準備ということでしょうか?」
オリヴィアの頬に朱が差した。
視線が逸れる。
「確かにそのようになる可能性が高いとは存じますが、例えそれが成らなかったとしても、行くべきと愚考しております。
これから、一つの国として真にまとまるためには、必要なことでございます」
「そうですね。
ヘンリック殿も申しておりました。
ノーマンはアルスターを伴侶だと思っている、と」
「はい。
夫婦の良い関係とは、お互いがお互いのことをよく知るところから始まると伺います。
であれば、わたくし達もノーマンを知るところから始めるべきかと存じます。
何もノーマンに移住するわけではございません。
むしろ、ある程度慣れた者でないと、ノーマンの冬は命の危険があると伺っております。
わたくしも、少なくとも数年は、夏の間だけの滞在に留める予定でおります」
オリヴィアの視線が、再びシャーロットに戻ってくる。
「もしよろしければ、殿下にもご同行いただけませんか?
王家や宮廷貴族が何を間違えたのか、ご一緒に見聞していただき、考えていただけないでしょうか。
いずれ、宮廷学校にノーマンのことを教える教授も必要になりましょう。
もともと教授は、能力があり、かつ家を背負わない立場でないとなれない職業でございます。
殿下の場合、ヴェスタ家をお継ぎにはなられるのでしょうが、家の力を伸ばすことは求められないどころか、避けなければならないお立場になられるかと存じます。
となれば、そういった生き方もあるのではございませんか?」
シャーロットは目を瞬かせた。
それは、考えたことも無い生き方だった。
「もちろん、そのような生き方に今から定める必要もございません。
確かにシャーロット様は、今は何者でもなくなりました。
そのことを不安に思われるのは当然のことでございます。
ですがだからこそ、選べる生き方は、むしろ増えたのではございませんか?
きっと、今は見えていらっしゃらないだけなのです。
何者になるかを急いでお決めになる必要もございません。
環境を変えて、それを考えるというだけでも、良い時間になるかと存じます」
その言葉が、すとんと、シャーロットの胸に落ちた。
そうか。
今は何者でなくても良いのか、と。
何が解決したわけでもない。
だが。
シャーロットは、久しぶりに、胸の奥まで息を吸えた気がした。
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