第15話 啓蒙
オリヴィアはシュレージの第一城壁を出てすぐの、月の女神セルナの神殿を訪れていた。
徒歩だ。
伴うのは侍女のフローリアのみ。
最近馬車という乗り物が外国から伝わってきたが、お世辞にも乗り心地が良いとは言えず、オリヴィアはあまり好きではなかった。
かと言って馬で来るほどの距離でもない。
シュレージでは月神セルナは太陽神ニルスとともに同じ神殿で祀られている。
そしてニルスの神殿は、どこの国であっても同様の構造をした、開放的な中庭が特徴だ。
中庭の中心には大きな石塔が立ち、周囲の床の石畳には繊細な紋様が彫り込まれている。
この庭全体が、巨大な日時計になっているのだ。
日時計を読み取り、刻を告げる鐘を鳴らすのは、古来より続く太陽神の神事だ。
故に、神官たちが刻を読み取ることを邪魔することは許されない。
だが一方で、その邪魔をしない限りは、この中庭はあらゆる人々に開放されている。
そのため、所狭しと建物の立ち並ぶシュレージでは、貴重な憩いの場ともなっていた。
今も多くの王都民が、歓談をしたり食事をしたりと思い思いに過ごしている。
その中庭を抜けると、奥にはそれぞれの神の拝殿がある。
オリヴィアはセルナの拝殿に入る。
中は静寂に包まれていた。
セルナは夜の静寂と安息の守り手だ。
だから、その拝殿は厚い石造りで外界の音と隔離され、また意図的に満月の月明かり程度の明るさに保たれている。
そして理性と知性を司る神でもある。
だから、思索に耽る場所を求める者はよくここに来る。
拝殿にいくつも設置された椅子に座り、オリヴィアは静かに考える。
以前から、こうして訪れることは多かった。
次代の王妃として、考えるべきことは多かったからだ。
だが、果たしてそれは十分だっただろうか。
最近そのことをよく考える。
確かにリオンは王となるには相応しくない人物だろう。
しかし、自分とて王妃に相応しい人物だったろうか。
王妃たる者、偏ることなく国全体のことを考えなければならない。
そう考えて行動していたつもりだったが、自分の考えや行動は王都の中に偏っていたのではないだろうか。
今回の事件に関連して、深く関わるようになったノーマン家。
彼らがどれだけ大きな存在なのか。
食料生産力は乏しいが、優れた産品を持つが故に経済的に豊か。
アルスター貴族が束になってかかっても勝てなかった、精強な軍の持ち主。
知っているつもりでいたことは、間違いでこそなかったが、全く足りなかった。
優れた産品を持つのは確かだが、東の果てや西の国からも商人がやって来るほどとは思っていなかった。
その産品も、作り出すためにどれほどの研究をしているのか。
養蜂、とでも言うのだろうか、蜜蜂を家畜のように使役して蜜や蝋を作らせるなど、魔法としか思えない。
経済的に豊かなのは確かだが、王国全体の経済活動を左右するほどの存在という意識はなかった。
ノーマン家との取引が止まるだけで、王都でも名だたる大店がいくつも潰れるほどとは。
ノーマン家のことだけではない。
中部の中小貴族のことだってそうだ。
「オリヴィア様」
と、その思索を遮るように、女性の声がかかった。
振り返る。
銀糸の刺繍で装飾を施した、セルナの神官服を纏った女性。
顔馴染みの神官だった。
「リニス様」
「少しお久しゅうございますね。
お噂をお聞きして心配しておりましたが、お元気そうで安心いたしました」
リニスは静かに微笑んだ。
夜の安息の守り手たるセルナの神官らしい、子守唄を歌う慈母のような笑みだった。
もっとも、怒らせると大変なことになるのも、戦神でもあるセルナの神官の特徴だが。
「ありがとうございます。
セルナ様のお導きのおかげをもちまして、日々安らかに眠れております」
「それはよろしゅうございました。
ですが、今は何かお悩みのご様子ですね。
よろしければお聞きしましょうか?」
リニスが問いかけて来る。
こうして、思索に耽る者たちの話を聞くのもセルナの神官の役目だった。
会話を通してインスピレーションを与えるのも、理性と知性の神に仕える者の神事なのだ。
過去にも、何度もお世話になっている。
「……お願いできますか?」
「承知いたしました。
それではこちらへ」
リニスに案内されて、拝殿の奥の個室へ向かう。
拝殿で話していては他の利用者の思索の妨げになるし、詳しい話は他人に聞かれたくないことも多い。
そのため、セルナの神殿にはこういった部屋がいくつも用意されている。
ここでの会話は絶対に漏れることは無い。
神官たちは神事としてここでの会話を行うからだ。
その内容を他人に漏らすなど、神につば吐く行為と言っても良い。
ポルトレーンと同等以上に秘密が保たれる空間なのだ。
個室の一つに入ったオリヴィアは、リニスに向けて話し始めた。
卒業式とその後の事件のこと。
事件をきっかけに知ったノーマン家のこと。
事件の後の混乱のこと。
そして、アルバートに請われて行った調査の結果、知ったこと。
調査の際、多くの中小貴族の子女や、時には当主本人にも会った。
公にはとても言えないことですが、と言いながら重い口を開いて教えてくれた事実。
その窮状に、自分は何もできないという不甲斐無さ。
それらを黙って聞いた後、リニスは静かに口を開いた。
「オリヴィア様は『無知の知』を得られたのですね」
「『無知の知』、でございますか?」
「はい。
『自分は無知である、ということ知る』という言葉でございます。
はるか昔の異国の賢者の言葉とされており、セルナ神殿でも古くから言い伝えられておりますね。
あらゆる知は『無知の知』から始まるのだ、と。
人は誰しも生まれ落ちた時には『無知の知』を持っております。
幼な子があらゆることを人に問うのは、己の無知を無意識にせよ知っているからでございましょう。
ですが多くの場合、成長し、多くのことを知っていく過程で、人は『無知の知』を失います。
これだけのことを学んだのだから、己は知っているのだと、無知では無いのだと。
しかし、人の知などたかが知れたもの。
全てを知ることなどできようはずもございません。
故に、様々なことを知るたびに『無知の知』を取り戻すことが、真の知性であろう、と」
オリヴィアの脳裏をリオンが、次いでソフィアがよぎる。
リオンは、懸命に多くのことを学んでいた。
その過程で『無知の知』を失い、そのまま自分の知ることの範囲の中でしか、物事を考えられなくなってしまったのではないだろうか。
ソフィアは、逆に『無知の知』を失ったことなど、生まれてから一度も無いのではないだろうか。
そしてオリヴィア自身は、自分は知らないことばかりだと、最近思い知った。
これが『無知の知』を得るということなのだろうか。
「『無知の知』を得られたのであれば、あとは知ることでございましょう。
自分が何を知らないのか、をお考えください。
それが分かれば、それを知る術をお考えください。
そうして必要な知が集まれば、自ずと為すべきことも見えてまいりましょう」
「……はい」
「はるか東方、シノンに生きたという軍略の達人の言葉がございます。
『敵のことを知り、自分のことも知っていれば、百度戦っても危うい戦にはならないだろう。
敵のことを知らず、自分のことも知らなければ、一度戦うことすら危ういだろう』と。
これは軍略だけに通じる格言ではないでしょう。
私の知る限り、今までオリヴィア様は何か問題が起これば、まず当事者の話を聞き、意図や状況を知ることから始めていらっしゃいました。
王妃になる者としては、どこかに偏った行いはできないと仰って。
だからこそ諸卿も、公にはできぬと言いながらも、オリヴィア様には事情を打ち明けてくださったのではございませんか?
オリヴィア様の今までの行いは、無駄ではなかったということではございませんか?
他の方では知り得ないことを知ることができたのですから」
そうなのだろうか。
彼ら彼女らは、自分を信じてくれたということなのだろうか。
オリヴィアに話せば、何かしらの活路を見出してくれるかもしれない、と。
もう、王妃となることもなくなった、ただのオリヴィアを。
オリヴィア自身を、信じてくれたのだろうか。
「ありがとうございます。
何ができるかはまだわかりませんが、できる限りのことをしてみようと存じます」
「はい。
セルナ様のご加護とご武運をお祈りいたします」
リニスに見送られ、オリヴィアは歩み始めた。
まずは知ることから始めよう。
そう決めたオリヴィアは、自分にもっとも不足している知識は何か、と考えた。
それはほぼイコールで、宮廷貴族に不足している知識である。
そして、それをもっとも詳しく知る人物に聞くことにした。
「これほど早く、再びお目にかかることが叶うとは思いませんでした」
「何度も呼び立てて面倒、と思われていなくて良かったわ」
恭しく頭を下げた肥満体の商人、ゴディル商会のヴィオと笑顔で挨拶を交わす。
以前、ノーマン家について聞いた豪商である。
ちなみにオリヴィアは彼の名を知らず、フローリアに教えてもらい、自分はこんなことも知らなかったのか、と少し落ち込みもした。
「早速で悪いのだけれど、今回売って欲しいのは、あなたが普段商っているものではないのです」
「左様でございますか。
そうなりますと、何か遠方からのお取り寄せをご希望でございますか?」
「いいえ。
あなたの知識を売って欲しいのです。
無論、あなたの商いの秘密や極意を聞き出そうというのではありません。
商人の目から見たこの国のことを教えて欲しいのです」
「……これは意外なご注文でございますね」
ヴィオは目を瞬かせていた。
貴族の令嬢が平民の商人にこのようなことを言い出すとは、歴戦の商人にとっても意外なことだったようだ。
「このままではいけないと思ったのです。
我が王国の中心はアルスター平野の農地です。
それ故に、王家も多くの貴族も農業には詳しくても、商業や工業には疎いと言わざるを得ません。
ですが、以前あなたから聞いた状況や、わたくし自身で調べたことを合わせて考えると、この国の中心部にも、商業や工業をもっと栄えさせる必要があるのだろうと思いました。
でなければ、ルガリア流域の諸領やノーマン領に引き離されるばかりだろうと。
それは王国を分断する原因となりかねません。
そうなってはあなたも困るでしょう?」
「それはもちろんでございます」
「ですが、わたくしは自分の手でお金に触れたこともありません。
お父様やお兄様、王家の皆様もそうでしょう。
その有様で有効な商業の奨励策が打てるかと言えば、難しいと考えました。
ですので、あなたの目から見た考えで良いので教えて欲しいのです。
なぜ、あなた達商人はノーマン領を魅力的だと感じるのでしょうか。
ノーマン家のように商業や工業を発達させるためには何が必要でしょうか」
「……左様でございましたか」
ヴィオは、少しの間、目を閉じて考えたようだった。
「私も工業のことは門外漢でございます。
ですので商業に関して、あくまで私の経験でしかございませんが、お答えさせていただきます」
「ありがとうございます」
オリヴィアの礼に、ヴィオは少し驚いたようだったが、気を取り直して言葉を続けた。
「まず申し上げさせていただきたいのは、オリヴィア様ご自身が金に触れたことが無い、というのは何も悪いことではございません。
ノーマン家の方々とも多少のお付き合いをさせていただいておりますが、あちらのお家でございましても、ご自分で金を持って取引をする、などということをなさるのは、ランフォード閣下とソフィア様くらいなものでございましょう。
王族、貴族の方々が個々の取引に煩わされることの害の方がよほど大きかろうと存じます。
私ども商人が王族、貴族の方々に求めることは、突き詰めれば一つでございます」
「それはいったい?」
「道の安全でございます」
ヴィオは言い切った。
「過不足ない商品と過不足ない買い手があり、それを繋ぐ安全な道をご用意いただけるのであれば、商いは自然と栄えます。
ノーマン領には、それがございます。
先日申し上げたような産品がノーマン領にはあり、それを求める買い手は王国中にいらっしゃいます。
逆にノーマン領が買い手として求める食料が、王国中にございます。
そしてノーマン家の皆様が、道中の安全に心を砕いてくださっています。
ノーマン領軍の強さは有名ですが、かの軍は何も遊牧民との戦いのみをしているわけではございません。
広い領内をくまなく巡回して、治安の維持に努めております。
ノーマン領には盗賊の類はおりません。
そのような行為を働こうものなら、領軍が地の果てまでも追いかけて皆殺しにするからです。
その評判が定着しているので、今では試みる者もいないでしょう。
獣の類に襲われることすら稀でございます。
少なくとも交易路の周辺では、領軍が徹底して殺すか追い払うかしております。
ノーマン領では、寒さにさえ気をつければ、交易の道中で野営することに不安を覚えることはありません。
ですから商人は高価な品物を安心して運ぶことができ、それによって商業が栄えているのです。
ルガリア流域も同様でございます。
以前はルガリアと言えば、アルスターの北壁でございました。
北岸には遊牧民が闊歩しているため、川を利用した交易には常に不安があったと聞きます。
北を見張るために川そのものの見回りが十分ではなく、川船を襲う賊もいたそうです。
ですが、今やルガリアは『壁』ではなく『道』です。
ノーマン領から源流のニスヴィオ領までをひとつなぎにする巨大な、そして安全な道でございます。
この道を通って交易することに、私ども商人は一片の不安もございません。
それが、商業が栄えている理由でございましょう」
「……中央部の平野では、道に不安がありますか?」
「あまり大きな声では申し上げられませんが、ございます。
小さな領地が多うございますから、領境に盗賊が巣食っていることもございますし、領地によっては関所で商品を召し上げられることもございます。
それを防ぐために袖の下が必要となることも。
具体的な話はご勘弁を」
「わかりました。
よく話してくれました。
ありがとうございます」
「とんでもございません。
王国全体で今よりも商いがやりやすくなるのであれば、私どもとしてもこれに勝る幸せはございません。
オリヴィア様のご参考になりましたならば、幸いでございます」
ヴィオが代金を受け取って辞した後、オリヴィアは考える。
やはり、どう考えても鍵はノーマン家ということになる。
彼らに国政の中心に参画してもらって、その知見を活かしてもらうことができれば、多くの問題が解決するだろう。
だが、どうやって。
ノーマン家は半独立と言って良い自治権を持っている。
ノーマン領の統治にアルスター王国を関わらせないが、逆にアルスター王国の統治に関わってこようとすることも無い。
そんな彼らを国政に引っ張り込むにはどうすれば良いのか。
婚姻というカードが、どうしてもチラついてしまう。
流石にもう、自分自身がそれを望んでいるのは自覚している。
それだけに、このカードを使うのが政治的に最善なのか、冷静に判断できている自信が無い。
ともあれ、それをするのであれば、王国の大きな転換となる。
ただでさえ反発が予想されるのに、余計な波風を立てせるわけにはいかない。
「フローリア。
リオン殿下と近衛隊に対する監視を強化できる?」
「お任せください」
「流石にローレン公爵領までは手が伸ばせない?」
「領内、という程度であればできますが、公爵の身辺近くとなると難しいかと存じます」
「そう。
仕方ないわね」
王都の中であればレーヴェレット家の諜報網は優秀だが、外となると準備が足りない。
だが、「敵を知る」ことを怠ってはならないだろう。
「ランフォード子爵のお役に立たないとなりませんものね」
「もう!
何を言っているの!」
ソフィアとの会談の時にもしっかり後ろに控えていたフローリアが、からかうように言った。
オリヴィアの頬に朱が上る。
とは言え。
少しはあの方に近づけただろうか?
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