追憶の桜
鈴汐タキ
第1話
春は出会いの季節である。青空の下を昔よりも遥かに早く散りゆく桜をみると、嫌でもそう思ってしまう。
俺、
とんと季節の変わりに疎くなってしまったというのに、この感傷だけは何時迄も心の奥から沸き上がってくる。
入学に卒業、そして就活。聞けば日本だけの慣習らしいが、人生の岐路はいつだって桜と共に行ってきたのだから仕方の無いことなのだろう。
ふぅ、と口内に留めていた煙を吐き出して、目の前に広がる景色を濁す。
大学の時にカッコつけて吸い出した煙草。いつでも辞めれると嘯きながら吸い続けて、気づけば辞めるつもりも無くなってしまった。
煙草の煙と一緒に、言葉に出来ない感情を吐き出して世に捨てる。昔は、楽しい瞬間にこそ嗜んでいたが、今となっては嫌な思い出と一緒にいる事が多くなってしまった。
これも、俺が大人になった証拠、なんだろうか。
芽吹きの春に似合わない黒の背広がやけに窮屈に感じる。最後に着たのは大学生だったころのせいだろう。きっと、普段のスーツよりも肩が重いのもそのせいだ。
二千二十四年の春。
肌寒さが薄れ、陽気な陽射しと共に訪れた今年の春は、別れの春だった。
「何で、こんな事したんだよ……
一人溢した言葉に返してくれる人は近くにいない。葬儀の合間、無償に煙草が吸いたくなって抜け出して来たのだから当然だった。
それが、俺の親友だった男の最後の経歴。
名前の通り、周りを照らす明るい男だった。おちゃらけすぎているのが偶に傷だったが、やる時はやるいい男だった。
そんな彼の最後の選択が、自ら命を絶つことだったなんて今でも信じる事が出来ない。
「…………冠番組、持つんじゃなかったのかよ。」
不思議な事に彼の安らかな顔を見ても涙は出てこなかった。何の感情も湧かなくて、時間が飛んだような感覚が続いて、今漸く友人とは一生の別れになった実感が漏れ出るように湧いてきた。
四年前の春、大学の最後。それが晴人と会った最後の記憶。
小学校から大学まで、年数にして二十二年。幼馴染と一括りにするには長過ぎる時間を共に過ごしてきた男との思い出。
高校では文化祭で一緒に漫才をやった。身内だけが笑ってくれた何の面白味の無い漫才を。
大学に入ってからは、お笑いサークルで正式にコンビを組んで、小さな舞台や、サークル内のコンテストで芸を磨いていた。
たった数年前だというのに薄れてしまった記憶。 お世辞にもウケていたといえる記憶は無いが楽しかったのだけは覚えている。
そんな俺達が互いの道を進むと決めたのも、大学での事だった。
俺は就職して社会人に。あいつはお笑い芸人を目指して東京に。不思議と悲しくは無くて、何となくそうだろうなぁ、と互いに理解していた。
長い時間を過ごしてきたからこそ、互いの性格もわかっていて、選ぶ選択肢も見え透いていた。
だからか、お互い止めはしなかった。
俺は晴人に現実を教えようとしなかったし。
晴人は俺に夢を教えようとしなかった。
道を違えても、関係は無くならない。
十年後か、それとも一年後か。
必ず二人で安い居酒屋で楽しく笑えると。
そう。思っていたのに。
「………………約束、どうすんだよ、馬鹿野郎……。」
結婚式のスピーチ。
二人での旅行。
東京の案内。
顔を赤らめて二人で決めた約束も全部おしゃかになってしまった。
四年もあれば、そりゃ人は変わる。でも、こんな変わり方をするだなんて思っていなかった。
こんな事なら、忙しさを理由になんてせず、一回は東京に行けば良かった。
そんな遅過ぎる後悔が波のように押し寄せてくる。
話したい事はたくさんあった。
大学の時の彼女とは別れてしまった事、社会人になってから頭が軽くなった事、タバコの銘柄が変わった事、キャバクラはそんなに楽しく無いって事。
もう、伝える事が出来ない些細な出来事が、積み重なって心の底に沈んでいく。
「……そろそろ、戻るか……。」
手にあるタバコはフィルターぐらいしか残っていなかった。たった一吸いしただけだったのに。
仮にも友人代表のような俺が長く離れ過ぎるのは良くない。晴人のお母さん達も心配するだろう。
タバコを灰皿に押し込んで、春の空気を肺に流し込む。排気ガスのような都会の空気の中に、少しだけ春の匂いがした。これじゃ煙草と変わらない。銘柄はカースモーク、フレーバーは桜。
……こんなしょうもない事を伝える相手はもう居ない。
後は棺を車に乗せて見送り、火葬場で彼だったものを突くだけ。それが終えれば、さっさと帰って酒を飲もう。幸い今日は土曜日で明日も仕事が休み。
浴びるように飲んでも引く尾は無い。それだけが幸いだ。多分、この後も俺の瞳が潤うことは無い。
それは違うだろうから。
晴人の最後は笑って送ってやらないと。
最後に俺が出来る精一杯の贈り物。
きっと堅苦しいのは嫌だろうから。
なんせお笑いが好きで、人が好きで、楽しいのが好きな、そんな、大馬鹿、野郎だった、から。
「…………あぁ、くっそ。何だよ、クソ馬鹿野郎。何かあったなら言えよ……。誰も馬鹿にしねぇだろ……っ!」
溢した音は、まばらに通る車の音に消されるような、そんな弱い音色で。
それでもじっとりとした後悔の色を滲ませた、誰のためにもならない言葉達。
気づけなかった。
言ってくれなかった。
会いに行かなかった。
帰ってこなかった。
助けてやれなかった。
助けを乞わなかって。
なんで、なんで、なんで。
全部過ぎてしまった事で、遅過ぎた思いが、今になって心を締め付ける。
下を向くのが嫌で、空を見上げてるように顔を上がると、雲が流れて、眩しい日差しが俺の濁った瞳を乾かしてくれる。
晴人は約束を破ったが、俺は破らない。
だから、大丈夫。景色が見えづらいのも、声が出にくいのも今だけで、時期に元に戻る。
見送る時は笑顔でいてやれる。
そんな情け無い心情を流すかのように、一際強い風が吹いた。
風に合わせて桜の花びらが舞う。
散り際の美しさ、そんなものを見せつけられたような気分が、どうにも今は好きになれなくて、思わず目を伏せる。
春は別れの季節である。
きっと、俺はこれから春が来る度にそう思ってしまうのだ。この綺麗な景色を見て、嫌でも思い出してしまう。
今度会った時には文句共に拳の一つは叩きつけてやる。だから、もう少しだけ待っていてくれ。
目を開けると、視界は良好。
二、三度、喉を震わしてみても、大丈夫。
風も収まって、花びらは地に落ち着いた。
勝手で悪いが、少しばかり早めに別れの挨拶を済ませておくとしよう。
「よしっ。……達者でな、晴人。」
決別を飲み込むようにそう告げる。
誰も聞いていない独白。1秒もすれば、雑踏に消えてゆく、儚い想い。
『お、おう。そっちも元気で八雲。』
――だったはずなのに。何故か、言葉が返ってきて。
『つーか、どうなってんだよコレ。何か浮いてんだけど俺っ!しかもちょっと薄いし!え、ほんと何コレ。さっきまで荷物纏めてたのに!』
聞き覚えのある声が、鼓膜の中を騒がしく跳ねていく。
『え、もしかして、俺幽霊になってる!?嘘だろ、なんでだよっ!……えぇー、マジで理解不能なんだが……。いやでも、エピソードトークに使えるのでは?』
有り得ない。気持ちの悪い妄想だ。
ファンタジーは画面と文字の中にしか無いのがこの世界。
そんなフィクションは起こるはずがないんだ。
『あっ!そうだ、八雲!俺の事、見えてる?聞こえてる?』
「……俺ってここまで狂ってたっけ。」
『見えてんじゃ〜ん!聞こえてんじゃ〜ん!さっすが頼りになるねぇ!……で、今どういう状況なわけ?』
「……お前の葬式だよ。頼むからとっとと消えてくれ。流石に気持ちが悪い。」
ふわふわと非現実感を万歳で、何処まで軽い調子な妄想晴人が語りかけてくる。
確かに晴人が言いそうなテンションと言葉で、余計に自分の脳みそが気持ち悪い。
今更、女々し過ぎるだろ。
『ひっどい!……この間涙ながらの別れをした友達に言うことかそれ!…………ってか、俺の葬式っ!?』
なるほど俺の妄想らしく、こいつの記憶は俺と別れた辺りまでらしい。随分と都合の良い話だ。
どうせなら、恨み言に一つや二つでも言ってくれた方が楽なのに。
「はぁ……どうやったら消えんだ、こういうの。病院行くしかねぇのかなぁ。」
『消えてたまるかっ!?それより、俺本当に死んだん!?死因は!?酒?煙草?それとも痴情のもつれ!?』
「だぁー!うっせぇ!妄想の癖にぎゃあぎゃあ喋んな!!」
『誰が妄想か!ここにいるだろ!正真正銘の晴人君が!……浮いてるけど。』
「それが妄想だっつってんだろ!幽霊なんか現実にいるわけねぇだろ!」
『八雲ホラー嫌いだもんね。』
「そういう問題じゃねぇよ!!」
最悪だ。無視すればいいのに、つい返してしまった。まるで本当に晴人がいるような、そんな懐かしい感覚のせいだ。
よくもまぁ、ここまでそっくりなイメージを創り出せるもんだと、我ながら関心してしまう。
二十年来の付き合いをこんなところで実感したくなかった……。
『どーやったら、信じてくれのさぁー。』
「どうやっても信じねぇよ。お前は妄想。以上。終わり。」
ふわふわと俺の周りを旋回しながら、耳障りの良い言葉かけてくる妄想に渾身のお気持ち表明。
ピシャリと会話切って、これ以上は対話しないと意思を見せつける。
妄想は心の弱さが表に出た形と聞いた事がある。
なら、強い意思をもって跳ね除ければいい。
『そうだ!俺しか知らない事とか言えば信じるよなっ!』
「…………。」
言えるもんなら言ってみろ。
お前は俺の記憶から生まれてきた紛い物。
どうせ、そんな事は言えっこない。
『例えば、キャッシュカードの番号!俺のはね〜』
紡がれる四桁の数字。
なるほど確かに晴人本人しか知らない情報だ。
本当なら、な。現物が無いなら判断しようもない。よって、証拠にはならない。
『駄目かぁ……。えっとじゃあ、晴人が後輩の美鈴ちゃんに好かれてたとかは?俺、相談受けてたのよねぇ。彼女いるって、教えたら諦めてだけど。』
……………………。
……いや、別に?
対した事じゃないし?
確かに美鈴ちゃんは可愛い子だったけど、そもそも本当かわからんし?
ちっとも、この野郎とか思ってない。
そもそも俺彼女居たし、教えろや、とか微塵も思ってないし。
……つか、妄想でこんな事言わせるって、その事実のほうが耐え難いんだけど。
『えぇー、コレも駄目?んー、じゃあ…………あっ!そうだ!俺のオカンの右胸にホクロがあ――』
「言わんでいいわっ!!!」
『へ〜い!俺の勝ち!どうよ、信じた?ちなみに全部本当の話ね。』
やっちまった…………。
いや、けど、しょうがないだろっ!?
小さい頃から可愛がってもらったおばさんの恥部事情なんて聞きたくないだろ!
あぁー、くっそっ。
妄想、だろ。どう考えても妄想だろっ!
そんな話、現実にあるわけがないだろ!?
けど、万が一、万が一、もし、こいつが俺の想像じゃなくて、本当に晴人の……幽霊、だとかなら。
「……………………。」
『なぁ〜あ、マジで信じてくれって。マジもんの雪宮晴人なんだって。どっちかっていうと、俺の方がびっくりポイント高いんだって。気付いたらこんなんだし、八雲はちょい老けてるし。』
「……老けてねぇよ。」
この周りをふよふよしてる非現実的で失礼な奴が本物なら。
なんで、自殺なんて事をしたのか、それを知れる唯一無二の機会なんじゃないか。
「……、なぁ、もし、もしだぞ。本当にお前が晴人なら。なんで、自殺、なんかしたのか教えてくれよ。」
『…………。』
最低な事を聞いている自覚はある。
現にさっきまでの元気が嘘のように黙りこくってしまった。
ただ、それでも。
聞いておきたいんだ。
こいつが本当に晴人なら、本人の口から、本人の言葉で、何があったのかを知りたいんだ。
それが恨み言でも、しょうもない事でも。
親友として、聞いてやらなきゃいけないんだ。
『そっか……。俺、自殺、自殺したんだぁ。』
「……。」
『何で八雲がそんな顔すんだよ。……悪いのは、俺だろ。んでもって、すまん。さっぱりわからん!』
「……そう、かよ。」
そりゃそうだ。何を期待してたんだが。
本物なわけ無いだろ。こいつは俺の想像。
俺が知らない事は知らない。ただそれだけの話じゃねぇか。
『っていうか、俺の記憶があるのは大学の卒業式終わって、皆で飲んで、東京に行くかーってなってたところまでだしなぁ。』
「何だよ、それ。」
『いやマジだって。だから自殺とか全然実感湧かんし。』
「俺も同じ気持ちだっつーの。」
あぁ、確かに、こんな奴だった。
何処までも軽い調子で、へらへらと元気で、疲れとか、苦しいとかそんなものを周りに見せるのを嫌がってた奴だった。
懐かしい感覚に自然と口元が緩くなる。
相変わらず自分の気色悪さには反吐が出そうだが、この感覚を思い出させてくれた事には少しだけ感謝してやらないと。
『んー。よし、決めた。八雲!』
「何だよ。」
ポン、と音でも聞こえきそうに、手のひらを叩いた晴人擬きが、俺の正面で静止した。
そして、ゆっくりと瞼を開けると、決意のようなものを感じる顔でゆっくりと口を開くと。
『何で俺が死んだか。二人で解き明かそうぜ!』
「は?」
ビシッとあらぬ方向を指差してキメ顔でそう言った。
『今がどんぐらい経ってんのか知んないけどさ。やっぱ、理解できないんだって。俺、多分自殺はしないと思うんだよ。でも、しちゃったんだろ?』
ふわりと姿勢を戻すと一転、真剣な顔つきで妄想晴人がそう続ける。
『だから、何があったのか調べようぜ。その為には多分八雲が必要な気がする!し、調べてるうちに記憶も戻るかもしんねぇ。』
「だから、俺に探偵紛いの事をしろってか?」
『八雲一人じゃないだろ!俺も一緒に二人でコンビ組んで、だよ!』
「そりゃあ…………笑えねぇな……。」
本当に笑えない。
死因を調べた警察に話を聞きに行って、悲しんでるおばさん達遺族の人に、空気も読まず、何で死んだんですかぁー?ってか。
理由を聞かれたら、幽霊になった晴人が知りたいって言ってるんですー。って。
心配されて病院送りか、全員からタコ殴りにされるかの二択だ。
ごめんだね。
確かに知りたいさ。
知りたいけど、妄想にそこまで付き合ってやる理由はない。
「……良いじゃん!俺達コンビが笑えないのは、いつもの事、だろ?」
「っ!」
『なっ?頼むぜ、八雲!俺が東京に行った後、何があったのか調べようぜ!オカンも協力してくれるって。……多分。』
両手を合わせ、頭を下げながら器用に片目だけでこちらを見てくる。
その姿と台詞が、何処までも、本当に。
雪宮晴人にしか、見えなくて。
「…………はぁ。後悔、すんなよ。」
『っ!絶対しない!……また、よろしくな、八雲!』
「ぉぅ。」
にっこりと満面の笑みを浮かべた晴人の顔がやけに眩しくて。少しだけ視界がブレそうになる。
勘付かれるのが嫌で、少しだけ顔を逸らすと、地に落ちて居た桜の花びらが風に乗って舞っているのが見えた。
追憶の桜 鈴汐タキ @shiotaki
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