4-6. あの言葉は胸にあるか

「リシューが園江先輩と第一体育館裏にいる」

 岩田先輩のその言葉が私の頭の中で木霊していた。

 ――園江先輩には、総務長の醜聞スキャンダルをばら撒いているという容疑がある。

 園江先輩が黒幕だったんだ。あの人が総務長の醜聞スキャンダルを、醜聞ゴシップを、言い触らしていたんだ。

 私は唇を噛みしめながら走った。

 山沢先輩が総務長としての仕事をサボってセミナーハウスに立て籠っている話を流布させた。そういうのが許せない藍崎先輩に密告したのも園江先輩なのだろう。

 金和先輩の一件は、彼女自身の恋愛スキャンダルに見えてその実、清らかな恋愛をした金和先輩の対比として恋愛騒動を起こした黒澤先輩が叩かれる構図になった。

 三騎士から上手いこと佐藤先輩だけを選抜して一年生への粘着事件へと発展させた。阿良木先輩と至御先輩は反体育祭じゃないから攻撃対象にしなかった。

 松田先輩にまつわる黒い話を蒸し返した。元々裏側の人間だったから醜聞スキャンダルにしやすかった。

 全部園江先輩だったんだ。園江先輩の差し金だったんだ。

 私は泣きそうになりながら走る。何で気づかなかったんだろう。どうして分からなかったんだろう。毎度毎度誰よりも早く醜聞ゴシップを掴んで私たちに持ち掛けてきたのは園江先輩だった。そりゃ彼になら噂の発生前に情報を掴めるわけだ。だって、彼が噂を立てた張本人なのだから。

 くそ、くそ、くそ。

 悔しい。あの人の掌の上で転がされていた自分が情けない。しかもそれだけじゃない。私の大切なリシュー先輩のことも……そして今、そのリシュー先輩のことを……。

 私は全力疾走で第一体育館裏へ向かった。二年生の教室から第一体育館に行くには階段を下りる必要がある。下りが苦手な私。それでも、丁寧に歩いて下りるのがもどかしかった。

 最悪、落ちそうになったら跳べばいい。

 私はスピードを落とさないで階段へと差し掛かった。意外にも、転ぶことなく下りることができた。私は目的地を目指してひたすらに走った。ただ、全力で、全力で、走って、走った。



 ――いた! 

 第一体育館の裏側に行くには、部室棟の上階にある廊下を駆け抜ける必要がある。体育教官室があるから、あまり派手なことはできないが……しかし今は非常事態だ。臆している場合ではない。私は全力疾走で廊下を駆け抜けた。そうしてやってきた体育館裏で、園江先輩に対峙したリシュー先輩を見つけた。私の目に飛び込んできたのはリシュー先輩の背中。何だか遠くて、小さく見える。

「先輩!」

 大声で、私は二人の空気に割って入る。

 この「先輩!」はリシュー先輩に向けてでも、園江先輩に向けてでもあった。

「全部割れましたから!」

 しかしこれは園江先輩に向けて。

「園江先輩、あなたがこの一連の事件の黒幕だったんですね!」

 と、リシュー先輩が振り返ってぽかんとした顔を私の方に向けた。それから何かを言いたげに口を動かしたが、しかし激情に飲まれていた私は彼の言葉を待たずに続けた。

「山沢先輩の一件で藍崎先輩に告げ口したのもあなたですね!」

 ああ、どうしよう、胸から勢いよく言葉が溢れる。

「金和先輩のゴシップに見せかけて黒澤先輩を攻撃した!」

 私はもう、止まらない。

「三騎士の中で佐藤先輩だけを選んで炎上させた!」

 そしてそう、これが最後だ。

「松田先輩には黒い噂がつきまとうから苦労しなかったでしょうね! 彼のことは攻撃しやすかったでしょう!」

 と、この頃になってリシュー先輩が口を開いた。

「おい、花生。待て待て。落ち着けって」

 そう、私の方にやってきて、なだめてくる。

「落ち着けって落ち着けるもんですか!」

 私が叫ぶと、しかしリシュー先輩は困ったような顔をして私の目を見た。

「まぁ、気持ちは分かるが……」

「なら黙っててください! 園江先輩、見損ないました。あなた、私たちに依頼を持ち掛けておいて、その裏で……」

「おいおい待て待て!」

 と、リシュー先輩が声を大きくした。

「事態はそう簡単じゃねぇんだよ」

 え……? 

 私はリシュー先輩の顔を見る。いくらかやつれた顔。このところずっと一人で、しかもハードな活動をしていたから疲れているのだろう。

 しかし先輩は私から目を離すと、今度はしっかりした目で、三年五組ブラウン総務長、園江健斗を見つめた。

「まぁ、おおよそは今花生が言った通りっすよねぇ? 先輩?」

 リシュー先輩のその言葉に、目の前にいた園江先輩が応じる。

「山沢の愚行を藍崎にチクって藍崎を怒らせた」

 園江先輩は一歩、私たちの方に近寄ってきた。

「金和に注目を集めることで金和周りの醜聞スキャンダルを目立たせた」

 また、一歩。

「三人の総務長の中から佐藤だけをピックアップして炎上させた」

 園江先輩が足を止めた。

「松田の黒い噂を掘り起こした」

 リシュー先輩が、鼻から息をつく。

 園江先輩が最後に、続けた。

「これらを先生側にも認知させて、四人の総務長を懲戒に追い込むように仕向けた」

「やっぱり……」

 私は思わず、園江先輩に食ってかかる。

「どうしてこんなこと、したんですか!」

 園江先輩が黙る。私の質問の意図が分からなかったのかと、私はさらに続けた。

「青派の……反体育祭派の総務長たちの醜聞ゴシップを掻き立てて、しかもその一連の事件について私たちに火消しをさせて、いったい何がしたかったんですか!」

 すると私の隣にいたリシュー先輩が口を開いた。

「今、まさにその話をしていた」

 二人の先輩が、示し合わせたかのようにため息をつく。

「園江先輩はそうせざるを得なかったんだ」

「……そうせざるを得なかった?」

 私がリピートすると園江先輩が口を開いた。

「お前らには悪いことをしたと思っている」

 いやぁ、とリシュー先輩が応じた。

「仕方ないっすよ。俺が先輩の立場でもそうしたと思います」

「どういうことですか?」

 私が訊くと、リシュー先輩が私の方を見た。

「園江先輩はある人物から任務ミッションを与えられた。俺たちが園江先輩から与えられたように、な」

任務ミッション?」

「ああ」

 リシュー先輩が目線を前に向ける。

「その人物は、園江先輩がそんけい……」

 そう、彼が説明しかけた時だった。

「成瀬利秋くん」

 いきなり、背後から声がした。

 それは渋くて低い声で、お腹の底にずしんと響くような、いい声だった。そして、それはおそらくそれなりにお年を召した男の人の声で、私の中の何かが、本能的に警告を出した。

「そこから先は私が話そうかな。お隣にいる後輩さんは、ちょっと名前を把握していないね。席を外してもらいたい気もするが、まぁ、いてもらっても……構わないかな」

 そう続いた男性の声に、私とリシュー先輩は振り返る。チラリと一瞬、横目で見たリシュー先輩の顔は絶望に沈んでいた。何? 何? 疑問符ばかりが頭に浮かぶ中、振り返った先にいたのは……。

「私もこの学校の校長を始めてからまだ二年しか経っていないが、それでも君は優秀な生徒だと確信を持って言えるよ、成瀬くん」

 そう、私たちが振り返った先。そこにいたのは。

 総白髪。彫の深い、外国人みたいな顔。

 白い肌。

 パリッとしたスーツ。

 我らが湘南高校の、校長先生――。

 柳生やぎゅう匡則ただのり先生がそこにいた。

「さて、そうだな。何から説明したものか……まぁ、結論から、言おうかね」

 驚いている私に向かって……そう、明らかに私の方に向かって、柳生先生は告げた。

「全ては私が仕向けたことだよ」

 まるでこの世の摂理を説いて教えるような口調だった。「太陽は東から昇るんですよ」みたいに、「全ては私が仕向けたことだよ」と……。

「反体育祭派の……青派の総務長たちを陥れて、懲戒処分直前まで持っていくよう仕向けたのは私だ」

 言っていることが分からなかった。だから私は、チラリと横を向くとリシュー先輩の方を見た。

 彼の顔……警戒と、失望に染まっている。

「ああ、そうだ園江くんはね」

 柳生校長先生は、優しい顔のまま残酷に園江先輩を指し示す。

「私の手となり足となり、生徒の中に入り込んで反体育祭派の連中を追い詰める手助けをしてくれた。総務長の暗い噂を掻き立て、私たち教員の懸念事項となるまで燃え上がらせて、その後は私がバトンを受け取って……ありがたく思っているよ。とても優秀な生徒だ」

 私は園江先輩の顔を見る。どこか沈んだ、英雄の顔……。

「まぁ、実際に謹慎だの停学だのに持って行く気はなかったがね。ただ彼らがしばらくの間活動できなくなればそれでよかった。圧をかけたかったんだ。そうだね。体育祭本番までは大人しくしてほしかったかな。いや、何、体育祭そのものまで取り上げるつもりはないよ。当日は満喫してほしい。我が伝統の体育祭を。我が至上の祭典体育祭を」

 リシュー先輩がつい、と私の袖を引っ張った。私はされるがままに先輩の後ろに回った。

「大変だったよ」

 柳生校長は続ける。そこにいたのは底が見えない何かをたたえた、かつてのだった。

「私には体育祭を守るという使命があった」

 先生が一歩一歩こちらに近づいてきた。

「我が校の体育祭は日本一だ。これを譲ることはできない。縮小なんて以ての外だ」

 先生の顔を見る。黒い何かに、染まっている……! 

「体育祭を邪魔することは許さない。私が体育祭を守る」

 何が青色学ラン運動だ。

 柳生先生はそう続けた。

「私が赴任してくるなり何だ、体育祭を見直すために総務長になった大角圭一郎とかいう不届き者が、学校内で幅を利かせていただと? 確かにこの学校は生徒の権限が強い。それはいいことだ。自由を重んじる湘南の特性だ。素晴らしい。だが、伝統を汚す輩にそれは不必要だ。自由は、それを正しく使える者にのみ与えられるべきだ」

 先生の歩みは止まらない。

「園江くんはいい仕事をしてくれたよ」

 ふと私は振り返る。背後にいる園江先輩は、口を結んで立ち尽くしていた。

「反体育祭派の総務長たちの不正を、愚行を、見つけ出して私に伝える。大事おおごとになるように生徒たちの間で悪い話題として広めることも忘れない。そうして燃え上がった案件は私の下にいる教師たちが拾う。拾った話は校長である私のところまで流れてきて、そしてその後は……いや、実にいい仕事をした。さすが私を尊敬しているだけはある」

 君。

 そう、先生が私のことを視線で示す。

「君には一つ嘘をついていたね。私が『伝説の総務長だなんて言い過ぎだ』と。あれは違うなぁ。私は確かに『伝説の総務長』だった。そしてそれは今でもそうだ。伝統を重んじることができなくなった哀れな総務長たちの目を覚まし、再びあの体育祭を復権させるという『困難な道』に挑む稀代の総務長にして現校長。それが私だ」

 さて。柳生先生がそう、立ち止まった。

「成瀬利秋くんだったね。君はとてもいい仕事をする。だが少し、頑張り過ぎた。ここで少し休むといいだろう」

「や、休む……?」私は怖くてつぶやいた。

 休む。それが意味するところ。私の胸に、冷たい一滴が垂れた。

「君は知り過ぎた。知らなくていいことまで知ってしまった。そして危険だ。君には武器がある。ペンという武器がね。こちらの都合で大変申し訳ないんだが、体育祭本番まで少しその武器をしまっておいてもらえるとありがたい。そうだな、具体的には登校を控えるといいんじゃないかな。何。仮装のダンスは仮装パートに頼めば動画を送ってもらえるよ。それで練習すればいい。何なら私の方から一言添えておこうじゃないか」

 柳生先生がリシュー先輩を睨む。その視線はまるで有刺鉄線のように鋭くて、しっかりとリシュー先輩を絡めとった。先生が体を半歩後ろに引くと、リシュー先輩がよろよろと一歩、前に出た。

「校長室で少し話そう。何、悪いことはしない。ああ、そうだ。園江くん」

 柳生先生が園江先輩に声を飛ばした。

「この子を送ってあげてくれるか。ええと、名前は知らないんだが……」

 先生は私を、笑顔で見つめた。ちらりと足元の上履きを見る。学年色の入った上履きを。

「一年生だね。まぁ、まだ懲戒を経験するには早いだろう。ペンの使い方もまだ知らないだろうしな。大人しくしていてくれるね。君が大人しくしてくれるなら、この成瀬くんの安全も保障しようじゃないか」

 そ、そんな……。

 リシュー先輩を、人質に取る気だ。

「行くぞ」

 園江先輩が私の肩を掴む。私はよほど、先輩の手を振り解いてリシュー先輩の元へ駆け付けようかと思ったが、しかし脚が震えて駄目だった。大きい……大きい……私みたいな一年生が相手取る人間として、校長先生は……柳生匡則先生は……。

 リシュー先輩が校長先生に連れられて歩き出す。私は泣きそうになった。どうしよう。どうしよう。また何もできない。また何もできないままリシュー先輩を失ってしまう。どうしよう。どうしよう。

 そう、パニックになっていた時だった。

「花生!」

 リシュー先輩が大きく、叫んだ。私は顔を上げる。

「あの言葉は胸にあるか!」

 その一言で、ハッと、忘れていた呼吸を思い出す。

 を思い出す。


 ――Always do, what you are afraid to do.

 ――最も困難な道に挑戦せよ。


 最も困難な道。

 一瞬で、思考が走る。

 新聞部。

 体育祭。

 私にできること。

「行くぞ」

 園江先輩が私の肩を引っ張る。導かれるまま、私は歩き出した。

 頭には、私の胸には、燃えたぎる私の心にはずっと、あの言葉があった。


 ――Always do, what you are afraid to do.

 ――最も困難な道に挑戦せよ。


『マフィアの憂鬱』 了

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