2-5. 二人の幸せを応援します

 ※以下、金和先輩の告白。


「湘南高校応援団はぁーっ! 『あの言葉』を胸に戦う湘南生の皆さんっ! あなたのことをぉーっ! 応援しまぁす!」

 私が初めて前野くんを意識し始めたのは去年、二年生の体育祭の時だった。この年の体育祭実行委員は結構杜撰ずさんで、得点の集計でミスをやったり進行を間違えたりとまぁいい加減だった。

 体育祭終盤。合計得点を加味した順位の発表の時も、実行委員はもたもたしていて、グラウンドで座りながら待機している生徒たちをやきもきさせていた。私たち応援団は、そんなぽっかり空いた空白の時間を埋めるために駆り出された。ちょっと余興でも。そんなことを言われてみんなの前にほっぽり出された。

 一応言っておくと、毎年体育祭の閉会式のタイミングで、応援団のパフォーマンスはある。体育祭という戦場を駆け抜けた英雄たちを慰撫するために勝利の舞を舞う、それが私たち応援団チアリーディング部のミッション。もちろん応援団応援団部の方……学ランに鉢巻を巻いてフレーフレーをする人たちも、青春の唄や校歌を声高に歌うことで選手たちを慰撫する。

 しかし問題の余興というのは既にそうした勝利の舞を舞い終わった後のことだった。ぶっちゃけた話私たちには切る手札がない。何かやってくれと言われてもやれることはやった後なのだ。すっかり狼狽えた私たちの前に、いきなり彼は立ち上がって「任せろ」と笑った。それがあの前野まえの昌義まさよしくんだった。

「三々七拍ぉー子ッ!」

 応援団団長、前野昌義くんは太鼓の千田せんだくんと旗手の桑野くわのくん、磯田いそだくんを駆り出すと即興の応援の舞を演じてみせた。三々七拍子。フレーフレー。そしてオリジナルアレンジの校歌斉唱など、様々な演目を一気呵成にやり切る。ハイカラな、しっかり上までボタンを留めた学ランに身を包んで絶叫し、大きく腕を振る彼の姿はそれはもう、立派だった。

 そんな彼の姿を見ていると、私の心にも、火がついた。

「ねぇ、行こう!」

 私は近くにいたチアの子に声をかけた。折しも演目は二週目のフレーに差し掛かったところで、私は近くにいたチアの子の手を引くと大衆の前に躍り出た。

 それはもう、一生懸命に踊った。

 体育祭と言えばメインは仮装のダンスだ。各カラー思い思いの衣装で思い思いのダンスを踊る。でもこれは、チアのダンスは別枠だった。仮装のダンスは自分のために舞う。でも応援団の、チアのこの舞は他でもない、見ている人の心に火をつけるための舞だ。私は先程、前野くんの応援に火をつけられて前に出た。だから私のこの舞も、誰かの何かに火をつけられれば。これを見ている先輩たちの、明日から始まる厳しい受験戦争を乗り切るための心のよすがになれば。そう思って舞った。一生懸命に、舞った。

 ひとしきり踊ったところで、体育祭実行委員が集計終了の合図を送ってきた。精も根も尽き果てた私たちの前で、しかし前野くんは凛としていた。応援団だから。応援団団長だから。ピシッと大きく胸を張って、枯れていてもおかしくない喉を大きく開いて、最後にこう、叫んだ。

「我々はッ、湘南高校応援団であるッ!」

 それから周囲にそっと目配せしてくる。だから私たちも胸を張る。

押忍おすッ!」

 腰を逸らせ絶叫する応援団の後ろでボンボンを振る私たち。体育祭は三年生の戦争だ。ならばこの、応援は。

 私たち二年の、三年生に送るエールなんだ。



 ひとしきり、そんなことを語った金和先輩はすっと髪をかき上げて微笑んで見せた。何だかとても、美しい。そう言いたくなる笑顔だった。

「金和先輩に関して、『澤田の彼氏、前野を奪った』っつー噂が立ってます」

 リシュー先輩がそうつぶやくと、金和先輩は静かに頷いて「うん。知ってるよ」と告げた。それからこう続ける。

「私自身、前野くんのこと好きだから」

 静かに吐き出されたその告白は、しかし虚しく図書館の空気に溶けて消えた。

「きっと誰かに内緒で話した恋バナに、尾鰭おひれがついて広がったんだと思う」

 誰にも言うなよ。私は知っている。これまで多くの噂話が、この言葉のロケットに乗って色々なところへ散っていったことを。そして噂は怪物で、知らぬ間に体のパーツを増やして大きく強くなることを。

 今回は誰かが噂を「立てた」んじゃない。金和先輩の悩みが勝手に成長して噂として「立った」んだ。ここに来て、リシュー先輩がまるで回り込むようにして金和先輩に接近している理由が分かった。

 この人、澤田先輩と前野先輩につけ入る隙がないと分かった途端、総務長の恋バナを突き詰めたり、金和先輩のことを好きな人を探ったりと、金和先輩の周りを潰していった。噂を誰かが「立てた」のではなくどこかで「立った」と確信していたんだ。だから「金和も黒澤も守れ」という園江先輩からの依頼にも安請け合いした。この一件に犯人がいないと分かっていたから……いや、いたとしても、それは人の意識の集合体的何かが勝手に広めた、言わば「全員が少しずつ犯人」という状況だったから、元凶がボヤけていると、そう思っていたんだ。

 私が一人感心していると、金和先輩がしゃべり続けた。

「よくないよね。前野くんとさぁだ(※澤田先輩の愛称だと思われる)との関係を邪魔するつもりなんて全くないの。むしろさぁだは前野くんを幸せにしてほしいし、前野くんもさぁだを心から愛してほしいし、だから私は邪魔で、だからその、私、本当に……」

 胸がキュッとしてきた。何その切ない気持ち。自分の恋心はさておき好きな人の幸せを願うその心の何と美しいことか!  

 しかしまぁ、実際のところ、金和先輩の立場に立ってみると物事はそう簡単でもなかった。目の前で完結している美しい恋に挟まる自分の邪な恋。辛い。でも想わずにはいられない。そんな恋。

 はぁー、どうするのこれ? どう決着をつけるのが正解なの? っていうか正解あるの? 乙女の恋に解答集はあるの……? なんて思っていたところに、リシュー先輩が相変わらずのだらしない声で挟んできた。

「告ったんすか?」

 んなわけねぇだろ阿保が黙ってろ。

 うっかりそう言いそうになったが危ない危ない。乙女の純情に触れるがあまり私自身の凶暴な野性が剥き出しになるところだった。しかし金和先輩はそんな私の葛藤も構わず、リシュー先輩にこう返した。

「ううん」

 するとリシュー先輩は続いた。

「何でっすか」

 何でって好きな人には好きな人がいるからに決まってんだろこのダボがいい加減に……。

「……何でだろ」

 不意に、金和先輩の声に力の火が灯った。

「え? 何でってその辺り金和さんも分かってなかったんですか……?」

 私がついそんな質問をぶつけると、しかし金和先輩は私に初めて気づいたような顔をして「言っちゃいけない理由なんてある?」と訊き返してきた。な、なるほど。さすが長年続く女子禁制の総務長文化に切り込んでいった女傑。常識を疑うことを忘れない。

「言ってみりゃいいんすよ。フラれるって分かってるならむしろやりやすいじゃないっすか。答え分かってるんですし」

 リシュー先輩がどこまでも無神経にそう告げる。私は思わず先輩をつねりそうになる。

 しかしリシュー先輩は静かに続けた。

「好きを好きって言っちゃいけない理由なんてないんすよ」

 妙に、深い言葉だった。

「むしろ金和さんが気にすべきは、気持ちを素直に吐き出してもなお前野先輩や澤田先輩と良好な関係を築く方法だと思います」

 金和先輩がぽかんと、リシュー先輩の方を見た。それから少し、口をパクパクさせると彼女は顔を綻ばせた。

「そっか……」

 破顔はやがて大輪の花に変わる。

「そっか!」

 それは眩しい笑顔だった。

 太陽のような、向日葵のような。



〈――三年生? 高校生活の終わり? ううん。まだまだ。私の青春はこれから始まるんだ。私の恋が始まったように。私の想いに花が咲いたように〉


 あれから。

 金和紗織先輩は私たち新聞部にとあるエッセイを投稿した。自身の三年間を振り返りつつ、恋に部活に体育祭にと、自分が駆け抜けた青春闘争を語る三千字程度のショートエッセイである。

 企画したのはリシュー先輩だった。

 しかし、この立案が通るのより先に、まず金和先輩の告白があった。

「いきなりごめん。あのね、さぁだにも聞いていてほしい。私、前野くんに話したいことがある」

 あの図書館で。あの後すぐ。私たちの目の前で。

 中庭で仲良く談笑している前野先輩と澤田先輩の前に姿を現した金和先輩は、いきなりそう、真っ直ぐな目で告げた。私とリシュー先輩は少し離れたところでその様子を見守っていた。

 金和先輩は少しの間、指を結んだり、開いたり、それから頭を少し揺らしたり、気持ちを揺れ動かしていたが、やがて意を決したように前を向くと……前野先輩の方を向くと、それから真っ直ぐに、気持ちを伝えた。

「私、前野くんのことが好き」

 風が一陣、吹き抜けた。

「でも、さぁだのことも好き。二人とも好き。だから二人には、幸せになってほしい」

 にこっと、向日葵が微笑んだ。でも切なさそうにこう続ける。

「ごめん、いきなりこんなこと」

 気づけば、金和先輩の目には薄っすら涙が滲んでいた。そりゃそうだ。フラれると分かっている恋に身を投じたのだから。叶わぬと分かっている相手に想いを告げたのだから。

 私が切なく悲しく思っていると、リシュー先輩がそっとハンカチを渡してきた。

 ……この人ハンカチ持つ人なんだ。そんな意外性を見つけた気がして涙もどこかに行ってしまった。

 が、それはそれとして三人の恋愛劇は続く。

「私、二人とも大切だから。大切な人には幸せになってほしいじゃん? だからこうして、言いに来ました!」

 ふと澤田先輩を見ると、彼女はうんうんと、やはり涙を浮かべそうな顔で頷いている。

「かなわっち……」

 そう、つぶやいている。

 しかし当の金和先輩は、滲んだ涙をそっと指で拭うと、またも明るい笑顔を……太陽のような笑顔を二人に向けてこう宣言した。

「私、応援してるね! 応援団チアリーディング部の金和紗織は二人の幸せを、応援します!」

 いえーい、とチアのキメポーズをする金和先輩。しかしそれから、どっと両ひざに手を突くと。

「それだけ。はーっ、気持ち言えてすっきりしたぁ!」

「あは……はは」

 次に声を上げたのは澤田先輩だった。彼女は金和先輩に明るい笑顔を向けるとそっと近寄った。

「何だ、かなわっちまさくんが好きだったかー。分かる分かる。ありがとう。うちら男の趣味まで合うなんて気が合うね」

「うん!」

「おいまさ、てめーこんないい女二人に惚れられてどうだ? 満足か?」

「何だよそれ」前野先輩も楽しそうに笑っていた。

「まぁ、人生に数度しかないというモテ期ってやつかな」

 あはは。前野先輩の困ったような、でも嬉しそうな笑顔。

 それから三人は楽しそうに談笑し始めた。どんな話をしているのか、遠くからはよく聞き取れなかったが三者間に不穏な空気は一切なく、梅雨時不意に見えた晴れ間のような、暖かくて長閑のどかな空気が流れていた。

 そんな景色にぼんやり見入っていた私の肩を、リシュー先輩がちょいと小突いた。親指を立てて後ろをそっと示してくる。

 振り返るとそこにいたのは黒澤先輩だった。

「げっ」

 思わず声が出る。しかし黒澤先輩の目には涙があった。リシュー先輩が尻ポケットに両手を入れながら、さも「たまたま通りがかりましたよ」という顔をして黒澤先輩に訊ねる。

「どうかされましたかー、黒澤先輩」

「いやっ、そのっ、俺はっ、俺はぁ」

 うわ、本格的に泣き出したよ。もう私には分からん。年頃の男の子の考えることというのが、エジプトのヒエログリフよりも難解で奇妙なもののように思える。

 しかし男泣き(?)をしている黒澤先輩は続ける。

「俺はっ、あんなに美しい恋というものを初めて見たっ……」

 どうやらしっかり事の顛末を見届けていたようである。

「それに比べて俺の想いの何と邪な……自分のことしか考えていない……」

「一歩前進、っすね」

 リシュー先輩が分かったような分かってないような、やっぱり分かっているようなことを言う。

「恋のいいところはそれっす。失敗しても成功しても、その先にまた何が続いていても、新しい自分に会うことができる」

 私はぽっとリシュー先輩の方を見つめた。

 新しい、自分に。

 私がまだ知らない恋愛というのには、そんな作用があるというのか。

 泣き崩れるみっともない黒澤先輩を見て私は思った。

 初対面の時あんなに凛としていた、四角四面カタブツ大仏の黒澤先輩が、一人の女の子にフラれただけで(だけでって言い方もあれかもしれないけど)こんなにボロボロ泣いている。後輩の、しかもその中でもかなりだらしないというかみっともないというか情けない部類のリシュー先輩に背中を擦られ何と哀れなことか。

 恋ってこんなに変わるんだ。形無しになるほど変わるんだ。自分が空っぽになっちゃうんだ。

 私が恋したらどうなるんだろう。私の恋は……どうなっちゃうんだろう。

 純粋な好奇心が湧いた。それと同時に、「もし?」のルートへの考察も自然と流れた。もし、私にも澤田先輩にとっての前野先輩みたいな人がいるとしたら。金和先輩にとっての、黒澤先輩にとっての、大切な人が、愛しい人が、私にできるとしたら、どんな人だろう。

 ふと、目に留まる。

 よしよし、よしよし。背中を擦るリシュー先輩。

 まぁ、あんたではないでしょうよ……。

 ――多分。

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