1-2. 立候補

 さぁ、そういうわけで翌日。一時間目の授業が始まる前、朝早くの学校。私たちは一路、「疾風迅雷しっぷうじんらい水面みなも切り裂く」三年九組ネイビーの教室に行った。学校というのは不思議なものでフロアが変わると雰囲気がガラリと変わる。規格は変わらないはずなのに、階段の上と下とで全く景色が違う。それは学年ごとの特色が表れているのか、まるで国が変わったかのように、違う。

 私たち一年生のいるフロアの九組ネイビーの教室は何だか不思議ちゃんが集まっているというか、クラス内のグループも「え、ああいう雰囲気の子とこういう雰囲気の子が一緒のグループなの?」という驚きに溢れる教室だった。だが三年九組は違った。

 まず教室の目の前の廊下が汚くない。ロッカーの横や窓の縁(余談だが湘南高校は船をモチーフとした建築なので窓が丸い)、埃や指紋、汚れなどが一切ない。みんなきちんと私物はロッカーに入れているし、近くにある傘立てですらビニール傘の一つに至るまで丁寧に畳まれて収納されている。それどころか、本来なら泥だらけ埃塗れになるはずのそれが綺麗で清潔な状態で保たれている。すごいな。とんでもない綺麗好きさんがいるのだろうか。そう思って、リシュー先輩と一緒に教室の入り口に顔を覗かせる。

〈整理整頓! 体育祭は俺たちの生活態度も点数に入る!〉

 そう書かれた張り紙が目に飛び込んできた。ははぁ、なるほど。どうもこのクラスは仮装や競技は最低ラインこなして減点を少なくする作戦でいるようだ。ある意味で賢い。スポーツでも勉強でも、こういう人間が勝利を掴んだりするものだ。

 藍崎先輩には私が前以てアプローチしていた。昨日リシュー先輩と作戦会議をした時点で私と同じフェンシング部にいる九組ネイビーの子に話しかけ、アポイントメントをとってもらっていたのだ。

「おう、お前らが新聞部か」

 三年九組ネイビーの教室の奥、室内後方窓際の一画にその先輩は待ち構えていた。腰に手を当て立ち尽くし、数名の男子生徒と野良猫会議よろしく話し込んでいたらしい。入り口に私たちの姿を見るや、その矢のようによく通る声で私たちを突き刺してきた。威圧。短く刈り込まれた頭に彫刻で切り込んだような細い目が鋭い。身長も百七十五以上はありそうでまぁまぁな体格だ。しかしそんな大物相手にリシュー先輩が口を開く。

「こんちわぁ」

 おいおいそんなだらけきった態度で大丈夫か? 見たところあの藍崎先輩、かなり神経の尖っている感じの人だぞ。私がそんな風にハラハラしていると、しかし剣道部の幽霊ことリシュー先輩はジトっとした目で藍崎先輩を見つめた。まるでその英気を吸い取ってやるぞ、と言わんばかりに、粘着質で湿度の高い目線を藍崎先輩に送っていた。いつだか園江先輩に不意打ちを喰らった時の彼はどこへやら。リシュー先輩も覚悟を決めれば総務長相手にメンチを切れるということが明らかになり私は密かに彼を見直した。

 すると藍崎先輩が応えた。

「まぁこっち来いよ」

 リシュー先輩がちらりと私の方を、まるで「行けるか?」とでも訊いてくるかのように見つめた。私はと言えばもちろん、部活の仕事のためならたとえ火の中水の中草の中森の中、土の中雲の中そして先輩たちの中にでも喜んで飛び込んでいく覚悟でいたので黙って真剣に頷いた。先輩が安心したような顔を、一瞬だけした。

「失礼しまぁす」

 リシュー先輩はだらりと一礼すると教室の中に入った。

「おう、その子が俺に取り次いだ津嶋花生って子か」

 藍崎先輩が私をひょいと見つめる。私は頷く。

「はい。岸谷きしたにくんに紹介していただきました」

 すると藍崎先輩は困ったような顔をして一言、「フェン部(※フェンシング部の略)の岸谷くんは俺の先輩の弟だからな。悪い態度はとれねぇぜ」とつぶやいた。なるほどそういう力関係が。

「ほんで俺に用ってのは何よ。新聞部なら『取材』って枠組みで来そうなのにわざわざ『用』ってしたところに何か感じるけどな」

 鋭い……私は確かに藍崎先輩に取り次ぐ理由を「用があって」とした。リシュー先輩の指示だ。

「新聞部の取材って形にすると成果物求められるからな。藍崎先輩に山沢先輩への攻撃をやめてもらえるか、そういう『結果』が不確定な今、入り口は慎重にしたい」

 まったく、この人普段は手抜きゾンザイいい加減なくせに仕事の時だけ妙に繊細で丁寧なんだから。

「ああ、いやぁ、取材の取材みたいなところでしてね」

 リシュー先輩はゆらりと体を揺らした。

「まぁ、学校の、もっと言えば総務長の噂話ゴシップを集めているところなんですがね」

「総務長の噂話ゴシップ?」

 藍崎先輩が目に見えて嫌そうな顔をした。

「そんなもん集めて何にする」

「大した話じゃないんっすよ」

 しかしリシュー先輩も臆さず、我々には当然その話を聞く権利があると言わんばかりに対抗する。

きたる体育祭に向けて、総務長という存在をより身近に感じてもらおうっていう企画です」

「噂話なんかで何で総務長を身近に感じるんだ?」

「ほら、メジャーリーガーの大谷選手が地元で高校の頃の友達と一杯やってた……なんて話、何だか砕けていい感じの話に聞こえるでしょう? そういうのをやりたいんです」

 リシュー先輩の巧みな言い訳に、藍崎先輩は一瞬、糸が解けるようにして緊張を解いた。それから続けた。

「何で俺に来た」

一組パープルからか九組ネイビーからか、『どちらにしようかな』で決めまして」

 すると藍崎先輩は今度こそ肩の強張りをすとんと、まるで石でも手放すように落とした。

「俺の話でよけりゃ何でも話すぞ」

「じゃ、早速」

 リシュー先輩はモレスキンのノートを構えた。

「藍崎先輩の、体育祭の一番の楽しみは?」

 先輩はハッキリと答えた。

「そりゃ後輩たちの笑顔さ。下の世代が心底楽しそうにしているのは見ていて嬉しいからな。俺たち三年九組ネイビーのみんなもそう思ってる」

「三年生として立派なもんで」

 リシュー先輩はすらすらとノートにペンを走らせるが……あっぱれ、何も書いていない。ハッタリだ。取材に見せかけて山沢先輩への本心を訊き出すつもりだ。

九組ネイビーの体育祭での見せ場って言ったら何ですかね」

「仮装だ。派手なのやるらしいぞ」

「テーマは?」

「『おもちゃ箱から脱走するブリキの兵隊』の話をミュージカルパレード風に」

「なるほど。面白そうですね」

「B.B(※バックボードの意。詳細は『ゴールデンドリーム』参照)もおもちゃ箱から出てくるおもちゃたちの絵にするんだ。足の先から頭のてっぺんまで、藍色一色で染めていこうというのが俺たち九組ネイビーのテーマだ」

「へぇへぇ」

 リシュー先輩はペンを走らせるふりをしながら続ける。

「ここからがその、噂話ゴシップについてなんですがね」

 リシュー先輩が、まるでメインディッシュの前に小皿を差し出す料理人の如く短く前置きをした。

「藍崎先輩の心配事ってありましたら教えてください」

 遠回しに行く作戦だ……私は固唾を呑んでリシュー先輩を見守った。普段のリシュー先輩らしくない。

 これでも一応、リシュー先輩のやり口は見たことがあるから分かる。だって私は、私たち新入生に新・新聞部としての意気込みを訊く企画でリシュー先輩に取材された身なのだから。いつものリシュー先輩はズバズバと快刀乱麻を断つが如く鮮やかに話を引き出してくるのだが……どうにも今日は歯切れが悪い。

 もしかして私がいるからか? 私がいる手前、総務長の逆鱗に触れるようなことがあったら大変だからか? 総務長に怖いイメージを持たせたら体育祭が楽しめなくなるから? 湘南高校での学校生活に陰りが出るから? 後輩だからって、そんなに庇うことないのに。私だって前に出たいのに。

 だから、私は口を開いた。

「Xで色々発信していらっしゃいますよね」

 私の言葉にリシュー先輩が剣の先を突きつけられたような顔をした。

 しかし私は構わず続けた。

「山沢先輩について」

 私はリシュー先輩に目配せした。単刀直入。これに限る。

 すると、二つ年下の後輩にいきなり突っ込まれたことに驚いたのか、藍崎先輩は一瞬目を丸くするとこうつぶやいた。

「だってあいつムカつかね?」

 私の質問の効果か、藍崎先輩は勢いよく負の感情を表に出した。

「ぜってー勉強してるしよぉ。総務長なら自分のことだけ考えないで周りの奴のことも考えろってんだ。他のパート員に迷惑をかけてまで……」

 まぁ、別に勉強することは悪いことじゃねーんだけどさ。

 藍崎先輩はそう前置きしてから続ける。

「総務長に選ばれた以上はみんなの期待も背負ってるわけよ。それを一切合切無視してさ、自分だけのために時間使うって何か違わね?」

「総務長の中には……」

 リシュー先輩がようやく調子を取り戻したような顔になって告げた。

「総務長の中には、先代の総務長からの推薦で仕方なく、という人や、周囲から祭り上げられてしまった結果なる、というような人もいるらしいっすけど」

「でも最低限の拒否権はある」

 藍崎先輩はリシュー先輩の追及を返す掌で一撃した。

「本当になりたくなければ『なりたくない』と意思表示すればいい」

「そういう表明が苦手な人だったら?」

「そんな人はそもそも総務長の候補者として選ばれない。次期総務長の呼び声が上がった以上は、何かしら突出したものがあるはずなんだよ。抑えようとしても抑えきれない何かがな。そんな『何か』を持った人間が、言いたいことも言えない、なんてことはあり得ない」

 やや難がある意見だ……もしかしてこの藍崎先輩は、体育祭に対して何かしら狂信的なものがある人間なのかもしれない。

「まぁ、問題の山沢先輩にもそうした『何か』があったに違いねーと」

 リシュー先輩の総括に藍崎先輩が頷く。

「体育祭はみんなで作り上げていくものなんだよ。それが何だ、先頭に立つ人間が率先して壊しに行ってるんじゃ世話ねぇ」

 言いたいことは分かる。立場のある人間になったのならなおのこと、ということだろう。

 藍崎先輩は続けた。

「それに聞いたところじゃあいつ、立候補で総務長になったんだろ?」

 私は頭の中のメモ帳にさっと書き記した。〈山沢活平総務長が自らの立候補で総務長になったか、裏取りが必要〉。リシュー先輩も同じことを思ったのか、モレスキンのメモに「立候補?」とだけ書き記していた。

「立候補で総務長になったくせに仕事をしないことが気になるわけっすね?」

 リシュー先輩の言葉に藍崎先輩は頷いた。

「まぁ、俺だって推薦やら持ち上げやらでなったんだとしたら同情するさ。それでも最低限の仕事はすべきだとは思うがな。でも推薦でも持ち上げでもねぇ。だろ?」

「裏を取ります」

 リシュー先輩が私の言わんとしていたところをつぶやいた。それから、藍崎先輩に一礼した。

「ありがとうございます。こういう総務長同士の関係性も、記事のネタになる気がします」

「やめろやめろ」

 藍崎先輩は手をひらひらと振った。

「体育祭に水を差すのが俺のやりたいことじゃねぇ」

 それから藍崎先輩は強くしっかりした目を私たちに向けると告げた。

「せっかく湘南生になったんだ。とことん楽しんだもん勝ちだ。言っとくが俺だって大学受験捨ててねーんだぜ。兄貴に続いて俺も早稲田の政経に行きてぇ」

 早稲田……! 高校受験を終えたばかりの私にはまだ大学のネームバリューしか分からない。でも早稲田だ。難しいところなのは間違いない。すごいな。総務長やりながらそんなところを目指すんだ。

「とにかく記事にするならもっと面白いことにしろ。俺の合宿荷物におかんのパンツ入ってた話でもするか?」

 リシュー先輩が笑い出す。それから告げる。

「いいっすね。今度個人的に聞かせてください」

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