成瀬利秋の仕事

 今年入学したばかり、釣り上げられた魚もかくやと言わんばかりのピチピチ女子高生である私の、親愛なる先輩にして新聞部副部長、そして伝説の幽霊部員でもある成瀬なりせ利秋としあきと言えば授業も、そして掛け持ち部活の剣道部もサボって新聞部室であだち充の『H2』を読んでいることで有名である。幽霊部員の不名誉な称号は剣道部の先輩たちからつけられた。同期はもう諦めムードというか、そもそも頭数には入れていないらしい。

 あ、言い忘れていた。

 湘南高校は兼部OKである。一人で複数の部活を掛け持ちしていい……というより、しないとおかしいくらいの空気はある。もちろん野球部のような顧問が厳しい部活は兼部はできないのだが(そしてこの厳しい顧問というのは多くの場合湘南生のバッシングの対象になるので、この哀れな先生は裏でこそこそ悪口を言われていることになるのだが)、しかしおよそ八割の生徒が何らかの部活を掛け持ちしている。例えばフェンシング部と家庭部、例えば卓球部と漫画研究部、ある者は陸上部と映画研究部と地理研究部、ハードな楽器人生を送る者は吹奏楽部に弦楽部と、そんな具合である。

 問題の成瀬利秋先輩、通称リシュー先輩も剣道部と新聞部と文芸部とジャグリング部と美術部とクイズ研究部と……あと何だか分からない部活を三つくらい掛け持ちしているなかなか多趣味な先輩である。ちなみにこの「リシュー」は本名「利秋としあき」を新聞部部長の岩田いわた真緒まお先輩が「リシューって読んだ方がフランス人っぽくていいんじゃない?」と発言した結果浸透したニックネームである。

 さて、そんなリシュー先輩は私の相棒ペアだ。この春、三年生の鏑木かぶらぎ藤馬とうま先輩から引き継いだ学内コラム『潮騒の風』の編集者として共に取材、執筆を行う仲である。

 失礼。自己紹介が遅れた。私は津嶋つじま花生かお、一年三組ホワイト。出席番号十八番。血液型不明。身長百六十センチの女子フェンシング部部員である。そして当然ながら新聞部を兼部している。

 さて、ゴールデンウィークも終わり仮入部期間も終了。三年生の送別会も終わった五月中旬。

 この日、私は新聞部としての活動デビュー、すなわち初の、部活動としての取材日だった。緊張もする。しかし待てど暮らせどリシュー先輩がやってこない。待ち合わせ場所は昇降口前、購買部付近。ここに放課後になってからずっと立っているのだが、取材時間五分前になってもやってこない。部室集合ではなくここに来いと先輩自ら連絡してきたにも関わらず、はて。

 ……あんの馬鹿、また『H2』読んでるな? 

 たかだか入部後一カ月半の後輩に「あんの馬鹿」と呼ばれるあたりリシュー先輩の先輩としての威厳は察してなお余りあるほどの堕落ぶりであるが、しかしあの阿保でも私の相棒ペア、信頼すべきパートナーである。電話をかける。LINE通話。しかし出ない。もう一度かける。やはり出ない。メッセージを送る。〈仕事ですよ! 取材ですよ!〉。しかし既読すらつかない。そもそもアナログ派のあの人のことだ。スマホに電源を入れているか、それどころか今朝スマホを持って家を出たかさえ定かじゃない。自分の帰宅時間を調べるためにポケット時刻表を持っているような人なのだ。もしかしたらGoogle検索もできない可能性さえある。

 ……なのに新聞部公式Xはあの人が運用してるんだよな。もう何が何だか分からない。仕方がないので私は残り五分の内三分を先輩の呼び出しに当てることにし、猛ダッシュで第一体育館を目指す。

 新聞部部室は第一体育館下、格技場の裏手にある四つ並んだ文化部室の内の一つだった。昇降口からアクセスするのはさほど手間ではないとは言え、急ぐのであれば階段をそれなりの速さで下りる必要がある。そして私は恥ずかしながら、階段を上るのは得意だが下りるのは苦手だ。走って下りると足が絡まる。なので手すりに手を置きながら、慎重にだが急いで、階段を下りて新聞部室前に駆け付ける。

「コラ! リシュー先輩コラ!」

 ドアをがんがんとぶん殴る。ちなみに新聞部室のドアはずいぶん昔に鍵をかけたまま紛失したとかで完全に開かずのドアである。よって部室に入るには窓からの侵入になるのだが、この窓は他の窓の例に漏れず胸ぐらいの高さにあるので跨ごうとするとスカートの中にある乙女の純情が漏れ出る形になる。よってこの侵入経路には多くの場合椅子や机、もしくは足場になる何かがあるのだがこの日はどういうわけかなかった。まぁ大方リシュー先輩のドスケベが乙女の純情目当てに取っ払ったのだろうが、その手には乗るか。私はドアを殴り続ける。

「コラ! 今日は取材だぞ! コラ!」

 すると部室の中から大欠伸が聞こえてきた。あああ、と半ば叫び声のような欠伸である。あの畜生、リシュー先輩が中にいる確かな証拠だ。

「おお、花生」

 呑気な声が窓の向こうから聞こえる。

「入っていいぞ」

「入るかボケ」

 するとリシュー先輩は悲しそうな声を上げた。

「俺一応先輩なんだけどなぁ」

「だったら先輩らしく振舞ってください」

 私は手首の腕時計を見る。おのれ、約束の時間まであと一分半。

「今日は取材ですよ! 早く出てきてください!」

 すると私の言っていることがようやく理解できたのだろうか、先輩がガラガラと窓を開けてひょっこり顔を覗かせた。

「それマジ?」

 どうも失念していたようである。

「マジ!」

 私が真面目な顔でそう告げるとリシュー先輩は何も言わず部室の中に引っ込み、すぐさま愛用のモレスキンと、誰だかにもらったとかいうウォーターマンとを持って外に出てきた。ひらりと華麗に窓の枠を乗り越え、私の横に着地する。うーん、六点! 

「行くぞ、花生」

 そう、歩き出した先輩の腕にあるのは。

 群青の下地に銀色のラインで縁取られている、新聞部の腕章だった。



「今日の取材相手は五組ブラウンの総務パート会計係、澤田さわだ香帆かほ先輩です」

 取材時間まで残り四十秒。私は地獄の階段上りをしながら先輩の横で叫ぶ。湘南高校は学年が上がるにつれ上階の教室に移動するので、三年生の教室ともなれば最上階、四階になるのである。

「取材の……内……容は……?」

 剣道部をサボりがちなリシュー先輩の息はもう荒い。私はと言えば運動部一年生恒例の体力づくり練習の成果もあって軽く息が上がっている程度である。

「忘れたんですか? 私リシュー先輩から取材内容聞いたんですけど」

「そう……だっけ?」

 はあ、と私はため息が出る。それから事前にリシュー先輩から聞いていた取材の意図と目的とを他ならぬリシュー先輩に懇切丁寧に説明してやるつもりで口を開く。

「コラム『潮騒の風』の体育祭企画『気になる総務のお姉さん・お兄さん』コーナーの取材の一環です。澤田先輩は体育祭の会計業務に当たり、まだ非公式の予算の範囲内ですが、現時点で一つのミスもしていません。総務パートのお仕事に当たっての心構えだとか、ノーミスの秘訣だとかを取材しに行くんです」

 念のために説明しておこう。

 体育祭と言う以上は体育競技の得点で優劣を競うもの、というのが世間一般の認識かもしれない。

 しかし湘南高校ここは少し事情が違う。

 この体育祭の得点は生徒の生活態度や自己管理の姿勢なども評価の対象になるのだ。すなわち最終下校時刻を過ぎて体育祭関係の活動をした場合は体育祭競技の得点からの減点になるし、自己管理の一環……例えば、各カラーに分配される体育祭予算の運用などもミスがあれば減点になる。そもそも体育祭の予算を生徒自身がそれも一クラス単位で持っていることに驚く方もいるだろうが、まぁそんな学校ところなのである。

 話を戻す。体育祭の競技は一競技勝利すれば十点二十点、最下位でも無得点、マイナス点が発生するのは失格になった時だけ、とにかくルールを守って競技場にさえいればメーターが後ろに振れることのない世界なのだが、会計は一ミスごとに一点引かれる減点法なのである。マイナス評価が発生することになる。会計の一点は比重が大きい。

 五組ブラウンの澤田先輩はこのことに着目し、「会計の失点をゼロにするので私を総務パートにしてください」と「総務パート会計係」に立候補した人物なのである。

 ついでにパート決定の方法についても言及しておこう。

 二年生はその年の体育祭が終わると、パート分けの作業に入る。すなわち誰が何パートの人間になるのか、の決定議論である。

 当然、同じパートに人が殺到することがある。仮装パートなんていうのは陽キャの憧れパートなので人が集まりやすい。必然選挙が発生する。我こそはこのパートにふさわしい、という演説を打って他のクラスメイトからの得票数で競うのである。

 問題の澤田先輩は総務パートが定員を超えた際、「会計の失点をゼロにする」ことを公約として掲げ立候補し、見事総務パートの地位を獲得した女傑である。

「俺あの先輩に頭上がらねーんだ」

 三年生の教室が並ぶ四階に到着した時。

 いつの間に呼吸を整えたのか、リシュー先輩がしおらしいことを言った。

「ジャグリング部でお世話になってるからさ。部活の上下関係ってでかいじゃん?」

 まぁ、同意できる。

「取材も丁寧にやらねぇとなぁ」

「だったら遅刻しないよう気をつけてください」

 私としては至極真っ当なことを言ったつもりなのだが先輩は不服そうな顔をした。何だその顔は。

 まぁとにかく。

 取材の約束時間ジャスト! 

 私たちは三年五組ブラウンの前にいた。三年生の先輩がいる教室に入るのである。リシュー先輩は引き戸を静かにノックした。

 少しの間の後、声が返ってきた。

「おう、入れよ」

 低くて渋いその声は、明らかに澤田先輩の……女子の声ではなかった。

 私とリシュー先輩は一瞬顔を見合わせたが、しかしリシュー先輩は私の意を汲むことなくいきなり「失礼します」と引き戸を開けた。やむなく私は、その戸の向こうにいる人物と対面することとなった。

 空っぽの教室。机も椅子も後ろに下げられている。一人を除いて他に人はいない。

 私たちに入室を促してきた人物、ただその人だけが。

 制服を着崩して、ズボンもどこか土で汚れていていかにもヤンチャという感じの、だがどこか人懐っこい、不思議な印象を放つ人が、窓際の地べたにぺたり。膝を立てて座っていた。

 と、リシュー先輩がつぶやく。

園江そのえ先輩……」

 私は「はい?」と訊き返す。リシュー先輩は即座にリピートする。

「園江先輩」

 そこでようやく私は……新聞部としては恥ずかしい限りなのだけれど、リシュー先輩が二度彼の名を口にしたその時になってやっと、目の前の人物が誰か悟った。

 ここは五組ブラウンの教室。それも三年生の教室だ。そこでこの堂々たる存在感。こんな大物は一人をおいて他にいない。

 茶色ブラウン総務長、園江そのえ健斗けんと先輩がそこにいた。

 彼は口を開いた。

「お前が成瀬利秋、リシューだな。後ろのは三組ホワイトの津嶋花生。合ってるな?」

「はい……」

 リシュー先輩が頷く。すると園江先輩がニヤッと唇の端を歪めた。

「いきなりで悪りぃな……だがお前たちに頼みがある」

 そこで私はようやく、園江先輩の浮かべる笑顔が「不敵」というやつだと知った。

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