でかメバル ぶち殺したあと いただきます

 でかメバル ぶち殺したあと いただきます


 私が魚を釣る理由は、食べるためだ。ゲームフィッシングは好きではない。かわいそうという意味でないわけではないが、割合は2%程度だ。

 スーパーや魚屋に並んでいる魚は普通、死んでいる。水槽で生きているものも、店員さんに頼んで捌いてもらうそのプロセスを喜んで見る客があろうか。すでに死んだ命を食すとき、育ちの良い人や小中学校の先生は「いただきます」「ごちそうさま」と口にする。この儀式は、私には自動音声に思える。エレベーターで「3階です」という自動音声、電車で「次は、〇〇」と駅の名前を知らせる自動音声などと同類に感じる。よく考えればすでに命なき肉に対して命があると決めつけるのはあまりにも矛盾した人間的事情であり、私の抱いている違和感の一因かと思う。

 魚を美味しく食べるためには、鮮度が重要である。そのためには釣った直後に血を抜いて殺し、身が臭くならないようにすべきだ。エラを切ってバケツに入れると、血がぶわー、と出る。ピクピク動いた後、仰向けに浮かんで死ぬ。その後、氷と塩水を混ぜた冷却溶液の入ったクーラーボックスに魚を入れる(厳密には袋に魚を入れてからそれをクーラーに入れる)。魚を人間に置き換えると、惨殺である。そして重要なのは、惨殺行為を平気でやっている自分がいることだ。かつて私は魚に対して「かわいそう」と思っていた。確かに今も思わなくはない。しかし、自分が殺しておいて「かわいそう」とは何事か。お前が言うなということである。私の口で砕かれた後、私の胃酸で溶かし消されるものに対してどのような態度で接そうか、考えた。殺している最中にかわいそうなどと思うのはやめ、何も考えず機械のように魚肉を海から引き上げて血を抜くと決めた。この非人間的状態から人間的感性を取り戻すのは、まさしく魚を料理したあと卓上に運び、座って、皿の上の無残な姿に変わった肉塊と対峙する時だ。そこに命はない。だが私があのとき港で殺したことは覚えている。私が目の前のこいつを殺したのだ。と思い出したとき、命の重さを感じる。そして「いただきます」という気持ちが、声を出す出さないに関わらず発現する。

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