第8話 裏路地に生まれて

 町のごろつきたちから、カラスと呼ばれるその男は、パヴァーヌ王領の東端、カンピーノ侯領との境に位置する、へんぴな田舎町に生まれた。領土争いの小競り合いが続くその町は、雇われ兵士たちと、家を失った難民たちで溢れ、治安の悪い薄汚れた場所であった。

 カンピーノ侯爵のユーグは、黒剣重騎兵団という名の騎士団に出向し、長く不在であった。その騎士団は、北東の辺境に砦を構え、西方世界へ侵入を企てる蛮族たちを阻止するという任務を担っている。数多ある騎士団の中でも生粋の武闘派であり、常に戦場に身を置く誉のある男たちだ。

 代官として侯爵領を統治するのは、ユーグの弟。兄とは真逆に、臆病者として知られていた。

 これを好機と見た者がいた。

 西の大国パヴァーヌの王は、勇敢な主人のいない間に攻略してしまおうと企てる。しかし、大っぴらに軍勢を動かしては、諸侯たちの反発、介入を招きかねない。諸侯たちからすれば、自分の手が届かない場所にある物であっても、落ちている宝石を自分以外の者が易々と手にするのを見ているのは我慢がならないのだ。

 故に、“どこにでもある小競り合い“を演じる必要があった。

 だが、ユーグの弟は臆病であっても、愚かではなかった。

 少ない軍勢で勝負をつけるため、あの手、この手を裏から回したが、いつまでも領土の奥に籠ったままで、「暗殺」も「誘引」も「反逆」も、全ての計画を躱されてしまった。そうこうしているうちに、戦争状態は常態化し、町は健全な統治の機会を失い、“傭兵たちの駐屯地“として扱われるようになった。


 カラスはその裏路地で産み落とされ、そのまま捨て置かれたところを、路上生活者に拾われた。

 拾い主が付けたその名の理由は、カラスに身体中を突かれているところを発見したからだった。

 物心が付いた時、育ての親の“婆“は、自分が本当の親でないことを彼に伝え、今まで育てた恩を返すように要求する。婆が教え込んだのは、盗みの業であった。

 スリと空き巣で盗んだ物を、同じ路上生活者たちの闇市で売り捌く、というのがカラスの日課となった。貧困に喘ぐ町の人間たちから盗んだ物は、大した金にもならず、麦の入った小袋や、山羊の乳を入手するのでやっとの暮らしだった。

 裏路地の子どもたちの集団に参加し、貴族の家に忍び込んだ時、まだ身体が小さく、足の遅かった彼は憲兵に捕まり、袋叩きにされた。身体中の骨が折れたのでは、と疑うほどの痛みを味わった。

「聞こえるか?いいか、本来なら、片足を切り落とされるか、吊るし首なんだぞ!だが、今回は子どもだから助けてやる…ありがく思え。二度とやるなよ!」

 三人がかりで子どもを蹴りつけておいて、憲兵たちは善意で恩赦を与えた優越感を胸に、カラスを見逃した。しかしだからと言って、彼は他に生きる術は持ち合わせてはいない。


 盗むか、飢えて死ぬか…。


 路上で、たくさんの餓死者を見てきた彼は、密かに決意を固める。

 身体を鍛え、大人を屈服させる力を得なくてはならない、と。

 兵士の詰め所から短刀を盗んだ彼は、路上での決闘でその腕を磨き始める。

 身体中から血を流しながら、婆のほったて小屋に戻ると、婆は彼に言った。

「そのナイフで、いつかお前はわしを殺すのだろうね…くわばら、くわばら、恩知らずな子だよ」

 路上生活をしている子どもたちは、自分たちの小さなコミュニティを“ファミリー“と読んだ。いつしか、彼は育った裏路地でファミリーのボスとなる。

 躊躇なく相手に切先を突き立てる彼の噂は、路上生活者たちの中で広まり、年上の挑戦者を迎えることになった。負けた者は、支配するファミリーを奪われるのが、その決闘のルールだ。

 カラスには、相手の動きの、ほんの一瞬だけ先が予見できた。

 誰もが持つ感覚だと思い込んでいた彼は、それに驕ることもなく、身体を鍛え、ナイフの腕前と体術を磨いていく。

 彼には、野望、と呼べるような類の感情は皆無だったが、向かって来るごろつきを切り刻んでいる内に、いつしか彼の“シマ“は、町一番のものとなっていた。

「人の上に立つのなら、文字と数字を知らないといけないよ。でないと、すぐに騙されちまう。気がついた時には、もう遅いのさ。何もかも失うよ。ナイフが届く範囲は、とても狭いからね」

 婆の言葉を聞いた彼は、路上生活者の中から没落貴族の子どもを見つけ出し、自分の教師に当てた。教材となる本は、教師がオーダーし、ファミリーの子らが盗み出して来る。立場が逆転している間柄では、教える側の心労はひどいもので、教え子に凄まれては泣き出す始末。しかし、ついに貴族の息子が肺を患って死体を路上に晒した頃には、共通語の会話と、多少の読み書き、単純な算術を会得していた。


 カラスの背丈が大人のそれと区別がつかなくなった頃、彼のシマを荒らす、新たな挑戦者は現れなくなった。いつしか彼のファミリーは、傭兵たちですら道を譲る威勢を得るに至る。返り討ちに会うことを恐れた憲兵たちは「ここだけは、決して襲ってくれるな」という貴族邸宅のリストを作り、カラスのファミリーと交渉のテーブルにつく。御禁制のリストに載るには、憲兵たちが恐れるほどの影響力を持つ権力者であるか、あるいは、憲兵に相応の“袖の下“を渡す必要があった。

 それからほど無くして、婆の身体が冷たくなっていることに気がついた彼は、ほったて小屋に火をつけ、代わりにコンドミニアムを丸ごと占拠し、そこを新たなファミリーの拠点とした。

 誰に小言を言われる事も無くなった、裏路地での彼は、まさに肩で風を切る勢いとなる。


 そんな折、彼は一人の騎士と出会い、人生をリセットされる事になる。


 いつものように、裏路地のルールも知らずに呑気に歩いていた旅人を囲み込み、ナイフをチラつかせて財布を受け取った。その中身を数えながら歩いていると、甲冑を着た大男に正面からぶつかる。男は、明らかに気付いていながら、それでも彼に道を譲らなかったのだ。

 中身を抜き取った財布を地面に叩きつけ、カラスは大男の顔を見上げて睨みつけた。

「テメェ…いい度胸だ、こるらぁ」

 腰のベルトに刺したナイフを握るが、男が手を伸ばして、その柄を押し込んだ。

「ナイフを抜けとは言っていない。盗んだ物を返せば、ここは道を譲ってやろう」

 密度の濃い顎髭を蓄えた大男は、カラスの凄みに、全く臆する素振りを見せない。

 ファミリーの手下たちが、大男を取り囲んだ。

 睨み合いで相手の力量を測る事は、本能によるものだ。互いに大怪我を避けるための安全対策でもある。少年期には散々それをやってきた彼にも、今となっては、その理屈が理解できる。頭領同士がすぐに斬り合いを始めては、互いのファミリーは瞬く間に共倒れとなってしまうからだ。だが、威風を失うことは、即時に手下たちへの支配力低下を意味する。

 しかし、大男はいくら正面から睨みつけても、表情ひとつ、変えない。


 もう、殺すしかないな…。

 あるいは、泣き喚いて許しを乞えば、そこで止めてやらんでもないが…。


 膝を蹴り飛ばそうとした時、ナイフを握っていた手首を捻り上げられた。

「財布なら、そこにあるぜ。拾いなよ、特別に持っていくのを許してやる」

 痛みに堪えながら、カラスは軽口を叩く。ファミリーの前で、無様な姿を見せる訳にはいかない。

「中身を返すのだ。金額が問題なのではないぞ、返すことが重要なのだ。そこを、取り違えるなよ」

 だから、それはこちらも同じだ。財布一つで得られる金額なんて、今のファミリーには小遣い程度の価値しかない…カラスは心の中で舌打ちをした。

 カラスは柔軟な身体を武器に、相手の太ももに足をかけて身体を一回転させると、手首の関節技から逃れる。再び膝裏を脛で蹴り込むと、男は足を捻り、甲冑の防具でそれを受け止めた。

 カットだ。

 脛に痛みを覚えながらも、間髪置かずに左手で顔面を殴りつけるが、素手で受け止められる。

 間を詰めて、右の肘で逆の面を打ち付けた…これも、腕で防がれ、カラスは両腕を絡め取られて、下方へと締められた。

 カラスの頭突きが、男の鼻頭にヒットする。

 男の鼻から、一筋の血が垂れた。

「ハルトマン様、これ以上は…」

 カラスは大男の後ろに、灰色の髪を持つ、気弱そうな少年が控えていることに、ここで初めて気がついた。

「テメェはそのまま、影に隠れて引っ込んでろッ、手ぇ出たらぶっ殺すぞッ」

 ハルトマンと呼ばれた男は、ニヤリと笑うと、カラスの額に頭突きを返した。

 視界に星が飛び、危うく膝が落ち掛かった。

「威勢のいいガキだ。いいぞ、相手をしてやろう」

 ハルトマンは、カラスの両腕を離すと、鉄の手袋を脱ぎ、後ろの少年に渡した。

「さぁ、来いっ」

 巨大な両の拳をぎゅっと握り、ハルトマンは構えを見せた。

「へッ…指の先まで毛むくじゃらとは、気持ち悪ぃ…なッ」

 カラスの右ストレートで、二人の決闘は幕を開ける。


 ファミリーの子どもたちは、二人を円形に囲い込み、見物人を追い払う。ハルトマンがその輪に近づこうものなら、蹴りを喰らい押し戻される。

 差し詰め、古代の円形闘技場だ。

 ハルトマンはがっしりと構え、左右の拳で殴りかかり、時折、足を引っ掛けてカラスの身体を転ばせた。対するカラスの方は、軽やかなステップで拳を躱しつつ、蹴りを多用して距離を保つ。

 ハルトマンの脇腹に回し蹴りがヒットしたが、彼はその脚を掴むと、逆にカラスの身体をボロ屋の壁に投げつけた。

「きったねぇぞ…鎧を着やがって…」

 薄板を並べただけの壁には穴が空き、切り傷だらけになったカラスは、なんとか身体を起こす。

「この甲冑が、どれほどの重さか、お前に分かるか?」

「…知るかよッ!」

 飛び込みざまに前蹴りを浴びせ相手を退け反らせると、着地と同時に後ろ回し蹴りを追討ちする。

 二度の突き蹴りを受けたハルトマンの巨体は、積み上がった樽に背中から突っ込み、派手な音を立ててそれを粉砕した。カラスは、手下たちに優勢をアピールし、喝采を浴びる。

「俺が引けない理由は、この甲冑の重みにある。分かるか?」

 さして堪えた様子もなく、ハルトマンは立ち上がった。

「重くて走れないなら、脱いでけよッ。いい値がつきそうだ」

 カラスのストレートは掴み取られ、手痛い右フックを喰らって後ろによろめいた。そこへ、ぎゅんと間を詰めたハルトマンのストレートが襲い掛かる。

 カラスは身体をくるりと回転させて、ボロ屋の柱の裏に回った。ハルトマンのストレートは、ボロ屋の朽ちかけた柱を粉砕し、身を隠したつもりのカラスの顔面を打ちのめす。ボロ屋の軒先は崩れ、板材と屋根板を固定したいた石ころが通りに散乱する。

 流石に拳を痛めたのか、ハルトマンは右手を振りながら、倒れたカラスに詰め寄る。

「貴様にも、親はいよう。いつまでもこんな場所に暮らさず、まともな仕事を探せ。さすれば、飢えることもなく、親孝行もできよう。なんの負い目も感じず、堂々と日向を歩けるようになる」

 ハルトマンは、カラスが立ち上がるまで待つ。

「そんな仕事がありゃぁ、苦労しねぇんだよ。それに、盗みの業を俺に教えたのは、育ての親だ」

「ならば、その親にも会って話さんといかんかな」

「くそ婆ぁは、死んだよ!」

 カラスは、肩からハルトマンに体当たりを喰らわし、押し倒そうとする。騎士はその衝撃を正面から受け止める。ブーツの底が滑り、土煙が舞う。

「実の親で無かろうともっ」

 ハルトマンは盛り上がった逞しい両腕で、カラスの細い身体をガシと羽交締めにした。そのまま、万力のような力で、締めあげる。

「赤子を育てるというのは、大変な苦労なのだぞ!お前の命が、今あることを、せめて一度でも感謝したことはあるか!?」

 カラスは呼吸ができずに、足掻いた。何とか、片手だけでも出そうともがくが叶わず、両足をジタバタと暴れさせる。

「…ねぇよッ」

 カラスの表情が、鬼の形相へと変わる。

 次の瞬間、ハルトマンの側頭部に、岩がヒットした。

「放せ、くそ野郎ッ」

 子どもたちが、一斉に、ハルトマンに向けて石を投じた。

 隙が生まれた。

「死ねぇぇぇッ」

 カラスは右腕を抜き上げ、それを振り下ろす。

 ハルトマンの鎖骨の隙間に、ナイフが縦に差し込まれた。

「そん…なっ、ハルトマン様!」

 お付きの少年は、子どもたちの輪を掻き分けて駆け寄ろうとするが、阻まれる。

「どけっ、急ぐんだ!放せ、ガキども!」

 身体は幾分大きくても、多勢に無勢、必死に足掻くが、灰色の髪の少年は逆に押し倒されて、袋叩きに合う。

「マーリアを貫くとは…俺に劣らぬ、馬鹿力だな」

 カラスは、自分の足が地面についている事を知った。

「だぁょ、もぉ終わりかぁ?」

 懲らしめるつもりでナイフを動かすと、鎖帷子の隙間から、明るい色の鮮血が吹き出した。驚いて、カラスはナイフから手を離した。

「貴様は、世界の広さを知るべきだ。町を出て、外を見てみろ」

 カラスは、ハルトマンの腕から逃れようとするが、がっしりと鍛え上げられた腕を動かす事ができない。

「それと…これは、俺の頼みだ…」

 ハルトマンの言葉を聞き、カラスの目線は、羽交締めにされて殴られる少年へと向けられる。

 不意に力が抜け、騎士は裏路地の地面に崩れ落ちた。

 土が剥き出しのゴミだらけの地面に、騎士の血が広まり、ゆっくりと吸い込まれていく。

 灰色の髪の少年は、泣いていた。

 憲兵たちが大挙して駆けつけ、カラスの後頭部を棍棒で殴りつけた。

 世界が暗転する。

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