第5話 クロエの冬
山の民との戦闘の後、恭順を誓った軍師デジレは、山の民たちの情報のほか、ひとつの懸念を告げた。それは、山の民に変装した“学会シンパ“の死体を発見した件についてであった。
この件は内密に留め置き、アマーリエはミュラーに極秘調査を命じた。
知識の伝承者ライノアの信徒であるミュラーは、学会の施設を無料で利用できる。童顔で着痩せする彼の身体に学徒のローブを着せれば、溶け込むことも容易と判断したのだ。“戦う人“が持つ、特有の威圧感を持ち合わせぬ彼の特徴が、今回ばかりは有利に働いた。
本人は、さぞや不本意であったろうが。
アマーリエが肌着姿のまま寝台にいることに、彼ははじめ狼狽し、アッシュに説明を求めた。
一通りの経緯が説明されると、アマーリエはミュラーに報告を促す。
「あぁ、そうだね。僕は魔剣の伝承を研究する振りをして、学徒たちに接触していくうちに、パヴァーヌの中央図書館まで行くはめになったよ。調べていくうちに、過去の出来事にも繋がっていった。まずは順を追って説明するから…」
「過去の出来事って?」
「…あ、何度か、クラーレンシュロス城でフラタニティの関係者を見かけたことがあったんだ。君も何度か会っていてもおかしくはないはずだよ。暗い色のローブを纏った人物だ。記憶に無いかい?」
フラタニティ…城…父に面会を求める黒いフードの男。がっしりした長身で、物静かな…。
「確か…父は学会の調査員と言っていたわ」
「フラタニティの表看板は、古代語魔術研究学会だ。スペルキュレーターとも呼ばれているよ」
「表看板ってことは、裏があるってことね?」
「そうやって、穿つなよ…僕自身、命を危険に晒しながら、驚きの連続の旅だったんだ。少しは、道中の苦労話くらいさせてくれたっていいじゃないか」
「…どうぞ、話せば?」
「辺境にあるポータルは、このグラスゴーひとつだけ、というのは本当だったよ。この、ポータルなんだけれど、アマーリエ、これがすごいんだ」
「いくら、かかったの?」
「なんて事ないボロ屋の地下に…へ?」
「一度に、何人くらい運べるの?料金はいくら?何処まで行けるの?」
ミュラーは手のひらを広げて、アマーリエの質問を止める。
「分かった、答えるから。まず場所は、近くのポータルにだけ通じている。何処へでも行ける訳じゃない。ここのポータルは、ハイランドの王都、アッパーガーデンに繋がる。それから、パヴァーヌの王都まで飛ぶことができた。一度に飛べるのは、一人のみ。手荷物は50kgまで。一度発動すると、六刻ほどのクーリングタイムが必要らしい。それで、料金なんだが…」
ミュラーは、人差し指を一本立てた。
「一アンオルフ銀貨」
「まさか…アマーリエの通貨は使えないよ。交易金貨一枚だ」
「ちょっと、一人運ぶのに、銀貨百枚なの!?」
「それも片道、一回分だよ。今回は往復でアンオルフ銀貨換算で、四百枚が必要だった」
「ぼったくりね…それでは、護衛を連れての移動は難しいわね…」
「アマーリエは、元から無理だよ。ライノアのトリスケルと、今回は偽造したけれど、学会の会員証が必要なんだ。元々、貴族の子息が集まる会だからね。閉鎖的である事で、安全を担保している」
「わかったわ…では、中央図書館の中に着いた後から、続けて頂戴」
「アマーリエ…」
「私は、病み上がりなのよ?」
「もう…分かった、分かったよ。えっと…じゃぁ、中央図書館の奥底、琥珀色のメンバーズカードを持つ者のみが、入室を許される資料室で閲覧できた、“本命の書物“の内容を話すよ。本当は、それを見つけるまでに、三十刻以上を費やしたんだけれど、その話は止めておくさ。でも、いいかい?これだけは言わせてくれ。相当やばい橋を渡ったんだから、一語一句、聞き漏らさないように、ありがたく噛み締めておくれよ」
アマーリエは若干、面倒臭げに頷きながら、両手を膝の上に置いて姿勢を正した。
「古代語魔術研究学会は、貴族のみ入会が許されたサロンなんだ。武門の貴族が、騎士たちとトーナメントで懇親を深めるように、知識を誇る貴族たちが、魔術の研究成果をサロンで発表し合う場なんだ。優れた研究成果には、褒賞が出て会誌にも掲載される」
何だか、喧嘩に弱い者たちの傷の舐め合いの場に聞こえるのだけれど…とは口にしなかった。
「けれど、それはあくまで表の姿。大多数のメンバーには知らされていない、裏の顔があるんだ。その活動の目的は、なんと…いいか、これが凄いんだ。なんと、“魔剣の鋳造“だ!」
「嘘っぽいわね。今でも魔剣を作れるの?そんな事をすれば、神殿と対立しそうだけれど」
魔剣といえば、その最終目標はボードワンでなくても、神格化と相場が決まっている。そんなものを大量生産されたら、神殿の権威にも傷がつくだろう。
「その通り、反目しているから、どこで誰が、どのように造っているのかは、誰も知らない」
「ミュラー、それってオカルトじゃない?」
「陰謀論的な出まかせだってこと?そうじゃないんだ。確かに存在するんだ。魔剣には、銘があるのは知ってるよね?彼らの造った魔剣にも銘がある。でも、それらは仰々しい名前じゃなくて、そのほとんどがシリアルナンバーでしかない」
「あ、ナンバーズ?」
「そう。聞いたことがあるだろ?どれも力の弱い魔剣だけれど、古代文字で番号だけふってあるんだ。そして、これがその目録の写本だ!」
小脇に抱えていた、羊皮紙の巻物を取り出して広げた。
「随分、あるのね・・・」
「二百本近くある。どれも、この百年の間に造られたものばかりだ。そして、ここを見て」
「あ!…なんて、読めないわよ!馬鹿にしてるの?」
「そうか。ごめん、古代語なんだ。彼らの公式言語は、根拠地のあるルドニアの言葉ではなく、なぜかバヤール地方の古代語と決まっているらしい。シリアルナンバーと、所有者のリストだよ。この目録の日付は、十二年前になっている。彼らは、何の目的か不明だけれど、所有者まで管理しているんだ。そして、ここにあるのは、ナンバーじゃなくて、ちゃんとした名。オースブレイド:ハインツ・クラーレンシュロスとある」
「父の名だわ…」
「そう。そして、オースブイレドを現代のアマーリエ地方言語で言い換えれば、アインスクリンゲとなる」
アマーリエは首を傾げた。
「これが、単なる覚書ではなくて、すべて学会が製造した魔剣の正式な目録だとすれば、君の剣は、ここ百年のうちに造られたフラタニティメイドの新造魔剣ということになる」
「随分と、箔が落ちたわね…」
「いや、まぁ、古代の遺物じゃないとなれば、そうかも知れないけれど…でも、君の魔剣だけ銘が他と違うのにも、意味があると思うんだ。例えば、新造したものではなく、学会が入手し、管理しているだけである場合も考えられる」
「そうなると、そのリストは製造品一覧ではなく、管理品一覧となるわね」
「表題が無いからね。何とも言えない。秘密文書には、全て表題が無いんだ」
アマーリエは、寝台に立て掛けられていた魔剣を膝の上に引っ張り上げる。
剣の形状と意匠には、流行り廃りというか、時代ごとに変化がある。アインスクリンゲの菱形のリカッソと、グリップの革と針金のツートーン加工は、古代の魔剣では見られない意匠だとは、かねてより思っていた。魔剣の本体は、刀身部分だ。設えは、変更が可能なのだ。変更後に魔力付与ができれば、なお好ましい。
「裏のメンバーについての情報は、無いの?」
羊皮紙を丸めながら、ミュラーは口を尖らせた。
「…多分、それを知ったら、もっとやばい事になる」
アマーリエは、笑い出した。
「おかしな事を言うのね。私たちの命を狙っている人なんて、すでにクリューニ、ランゴバルド連合だけで、二万人を下らないというのに!」
「何?笑うような話じゃないよ?」
「いえ、そうね。ごめんなさい。でも、あなたがどうにも、楽しそうに話すから」
「ちょっと、僕は見た目がこれだから、あんまり怪しまれないけれど、それでも学会の会員証を偽造したり、公文書別館に入るための紹介状を偽造したり、とんでもない危険を冒したんだから、そこは正しく評価して欲しいな」
「あなたなら、立派な怪盗になれるわ。狙うのは、そう…高価な古美術品といったところね」
そう言うと、ミュラーも悪くない、と言って笑い出した。
解ったようで、解らないまま。
「話をまとめましょう。アインスクリンゲは、学会から父に贈られたもの。そして、現在も私の周りに学会は人を潜ませている」
「山で襲ったのは、アインスクリンゲの奪還が目的だったのかな」
「それにしては、もっと方法がありそうだけれど…それに、あの強行軍は、私が突然言い出したものよ」
「身近に、連絡役がいる。もっと悪く言えば、実行役も軍内にいた者かも知れない。騎士たちが顔を覚えていない新参の下級兵士の中に」
騎士たちの間に広まる意見の対立に加え、未知の目的を持つ勢力の存在…アマーリエはボタンの繋ぎ目から指を差し込み、胸元を摩った。
ミュラーは目線を外して、咳払いをする。
「兵が増えるばかりの辺境騎士団で、下級兵士たちの監視は難しい。でも、いずれにせよ、警戒は怠らないで欲しい。辺境の民たちは、君の血筋だけでなく、連戦連勝の騎士団を率いる強いリーダーに惹かれている節があるから。魔剣を失えば、彼らに冷水を浴びせることに成りかね無い」
ここまで黙って聞いていたアッシュが、不意に言葉を発した。
「僭越ながら、私からも申し上げます。従者たちの間では、アマーリエ様こそ、新たな神格者に相応しいとの話題が広まっています」
「まさか…魔剣は他にもたくさんあるのよ」
ミュラーは顎に手を当てて考える。
「魔剣を持つ者たちはいても、この数百年の間、神格者の話は皆無だ。学会ブランドによる魔剣が、その発現元となれば…」
「だったら、私を襲った理由が、余計に分からないわ。学会総出で、私の協力をしてくれるっていうのなら、理解もするけれど」
答えは、見出せないままだ。
最後に、ミュラーはパヴァーヌ王国の情勢について報告した。
「オギュースト王は、今のところは対岸の火事として静観している様子だけれど、アマーリエ地方とパドヴァ地方に挟まれる位置にある、クリューニとランゴバルドの男爵領は、もぬけの殻の状態だ。なのに、静観している…」
「何らかの関係性があるのは、当初から想像できていたわ」
「パヴァーヌの騎士たちは、戦が近いことを各々に察知しているようだよ。鍛冶屋は忙しなく武具を鋳造し、馬は市場から姿を消している」
「内密に出兵の準備をするよう通達している…」
「あくまで可能性だけれど…それは、低くはないかも知れない」
西方諸国には、肥沃な大平原が二ヶ所、存在する。
一つは、辺境の北に位置するバヤール平原。ここは、ハイランド王国の領土だ。
そしてもう一つは、アマーリエ地方とはラステーニュ地方を挟んで、さらに西に位置する、パドヴァ平原。西方随一の騎馬兵団を擁立する騎士国、パヴァーヌ王国の領土。
アマーリエ地方に侵攻中のクリューニ、ランゴバルドの両男爵軍に、このパヴァーヌ騎兵が合流することにでもなれば、抗う術を持つ国は、この西方には最早存在しないだろう。
「それと、これは朗報だ。北砦はまだ、陥落していないそうだ」
「ラバーニュが堪えているのね」
「そうだよ。だけれど、地勢的に最初に攻撃を受けたのは、間違いなく北砦のはずだ。孤立無援のまま、なんとか籠城を続けている、という状態だろう」
アマーリエは、両手をしばし見つめ、それをひしと握り締める。
「春の到来と共に、出兵する」
決意とも取れる、アマーリエの呟きに、ミュラーは力強く頷いた。
アマーリエが身体を休める寝室は、キープの外にあった。キープは背面を断崖で守られており、市街地と陸続きである正面側には、三枚のカーテンウォールがある。キープに近い第三城壁に寄り添う形で、石瓦と漆喰で防火対策が施されたコートヤードハウスがあり、アマーリエはそこにあるゲストルームに運び込まれていた。キープはその目的上、居住性よりも頑強さが優先され、内部は手狭になる。コートヤードハウスには、ゲストルームの他にも礼拝堂が設けられ、現在は不在だが、大司祭の居室も用意されている。壁は薄くても、居住性ならば段違いに優れていることから、騎士たちが気を遣ったのだ。
一番外側にある第一城壁と第二城壁の間のベイリーには、兵舎と練兵場が設けられている。そこで、クルトとオラースは志願してきた新兵たちを鍛えていた。
目を覚ましたアマーリエは、ミュラーと話した後、アッシュだけを従えて練兵場を訪れる。
アナイスの遺品の中から、派手でない上着をアッシュが選び、レースで縁を飾った肌着の上に、それを纏っただけの姿だった。
アマーリエは目立たぬよう、離れた位置から二人の練兵の様子を伺った。
オラースの教え方は、無骨な彼に相応しい荒々しいものだった。
精神論を混ぜ込みながら、気概の籠った大きな声で、はっきりと要望を伝える。時には自分の身体に、教えた打撃を打ち込ませた。訓練用の木製の剣や槍とはいえ、厚さ2mm程度の甲板を凹ますには、十分な威力だ。自分の高価な甲冑が傷つくのも厭わず、彼は兵士の打撃を讃え、自信を付けさせる。気概と実践を重視した彼に育てられた兵士たちは、戦場でオラースの姿を認めることで、心強い支えを感じることだろう。
クルトのやり方は、それとは対照的だった。
手取り足取り、といった感じに、こまめに修正を指導している。怒鳴ることはなく、褒めながら自主的なスキルアップの意欲を促す。単純でいて効果的な基本動作を反復させ、その大切さを丁寧に教え込む。戦場においては、極度の緊張から疲労が加速度的に積み上がり、無駄に動作が力み、やがて力尽きて緩慢となる。反復練習は、必要な筋肉に持久力を与える。さらに、まずは一つでも、基本動作を身体に覚え込ませることで、戦場での延命率が大きく変わるものだ。
両者の性格の違いが、よく現れていた。
練度が上がり経験を積めば、オラースの兵は猛々しい突破力を持つだろうし、クルトの兵は粘り強い持久力を発揮するだろう。武術の基本は、正確無比な先制攻撃にある。だから一見すると、クルトの兵法は後ろ向きにも捉えられがちだが、崩れにくい兵は実戦において戦術を支える強力な武器となる。数多の戦場を経験してきた今のアマーリエには、どちらも望ましい姿だと感じることができた。
「アッシュは、どちらの先生に習いたい?」
問われた従者は、少し戸惑いつつ、クルトを指名した。
「でも、オラース卿の方も、実践的だと理解できます。いっその事、日毎に入れ替えてみてはいかがでしょうか」
「私は、競技をさせて、競争意識を煽ろうと思ったのだけれど、それもありよね。志願者の数が増えたら、二人では追い付かなくなるだろうし。でも他の皆がどのように指導するのかも、興味が沸いてきた」
そうこう話している間に、労働者たちの列がやって来て、第二城壁の瓦礫を運び出し始める。指導しているのは、レオノールだった。となると、これはロロ=ノアの指示ということになる。
「さっき話したばかりなのに」
ロロ=ノアの手配力に舌を巻いたアマーリエの元に、クルトがやって来て具合を尋ねた。
「まぁまぁよ」
「第二城壁を解体するのか?」
アマーリエは頷く。
「練兵場が広くなるな。できれば、ティルトヤードもあるといい。騎士たちの脚に贅肉がつくのを防げるぞ」
「あぁ、そうね。去年の冬はシュナイダー侯領の道の整備とか、蛮族の討伐とかで色々と忙しかったけれど、今年は大都市に滞在するのだし、労働力もあるから、いくらか暇になるかも…検討するわ。腑抜けられちゃ困るからね」
「それと、お前には少し、気晴らしが必要だ」
「風呂と、清潔な寝台があるわ」
「どうせ、すぐに飽きるだろう。そうだな、狩りなんてどうだ?やったことは?」
アマーリエは頷いた。
「ここ周辺の集落は、冬になるとダイヤウルフによって人攫いに合うらしい。襲うのは、単独の人間だけだ。大人数が出向けば、奴らはその痕跡に警戒して、狩場を移動させる。それも兼ねて、今度、行こう」
「いいわ。女にかっこいいところを見せようとしているあなたの思惑を、砕いて見せるから、楽しみに」
クルトは「そりゃ、楽しみだ」といって笑った。
二ヶ月後、終焉のクロエが守護する季節となり、今年初めての雪がグラスゴーの山並みを白く覆った。
市民たちは、積雪の対応に忙しい。練兵は休みとなり、アマーリエは騎士たちと従者を従えて、森に出かけた。
一夜明けて凍った雪は、風にそよぐ木々から光の粒となって飛び立ってゆく。
雲ひとつない快晴。
早朝の風は肌を指すほど冷たいが、昼すぎには陽光が初雪を溶かし始めるだろう。
束の間の、銀世界。
アマーリエは愛馬アルヴィの背で、冷えた空気を吸って、ふぅと白い息を吐いた。
「よく、堪えたな」
クルトが、馬を並べて語りかけた。
その横顔をチラリと見つめ、アマーリエは視線を白い森に戻して答える。
「一年前の私なら、雪を掻き分けてでも、故郷に向けて馬を進めていたでしょうね」
今日の狩りに、ロロ=ノアは同行していない。
「俺が言うのもなんだが、お前は、様になったと思う」
なぜだろう…。
アマーリエは、その言葉に一抹の不安を感じた。
「アマーリエ様」
アッシュが、声をかける。従者たちによって追い込まれた一羽の白いうさぎが、雪をかぶった茂みに身を潜める。アマーリエは、自分の前に陣取っていた騎士に一番矢を譲った。
「イネス!」
名を呼ばれた女騎士は、馬の腹を蹴って森を馳せ、茂みに身を潜めたうさぎを追い立てる。うさぎは浅く積もった雪の上を右、左と不規則に跳びながら、馬から遠ざかって行く。イネスとの距離は、30m。その間にある茂みと、乱立する木立が、まるでうさぎを守るように立ちはだかる。
34m。
バチン、と弦が鳴った。
木々の間を抜けた矢は、跳躍から着地した瞬間のうさぎの首元に、見事に突き立った。
射手は二つにまとめた髪を靡かせて、ガッツポーズを見せる。
アマーリエは、戻ってきた彼女に、銀貨の入った小袋を投げて腕を讃えた。
「次は、俺が行くぜ」
クルトは、気がせって仕方ない様子。
「あの従者は…今頃、元気にやっているかしら」
「ここで思い出されちゃ、シャルルもさぞかし心外だろうぜ」
アマーリエは、あははと笑った。
それは、この冬に入って、クルトが初めて見る、心底から出た彼女の笑みだった。
一月ほど前、クルトの元には一通の書簡が届いていた。
差出人名は、『MⅢ』とだけあった。
内容は、「戦の時迫る 即時帰還されたし」だ。
クルトは、そのペンネームの主を知っていた。
シュバルツェンベルグ公マクシミリアン・ハインリヒ3世。
剣の神の神殿群を統括する聖教皇、その呼びかけによって参集する有力諸侯たちによる会議体がある。名を君主会議と言う。君主会議は、行き過ぎた為政者同士の争いの仲介、西方を震撼させる大災害・大規模な疫病への対応など、西方諸国全体に及ぶ脅威への対応が求めれる事態において、聖教皇の呼びかけによって参集される。その中でも最も象徴的な事柄は、剣の子らの共通の脅威、蛮族に対する国を超えた共同戦線の結成という至上命題だ。連合軍には、それを一元管理し、指揮ができる権利を得た有能な者が必要だ。
連合軍の総司令官の権利を有する者は、太古の英雄に験を担ぎ、今は失われた座の名を冠した。
その役名は“皇帝“。
皇帝は西方の危機に備え、君主会議の合意を持って選出され、聖教皇の追認を得て承諾される。
マクシミリアンは、現皇帝座に選出された、クルトの主君であった。
狩りの日から、一週間後。
クルトは従者のハーフエルフ、ル=シエルを連れて辺境騎士団から離脱した。
長旅には向かない、冬の最中。
アマーリエには、置き手紙すらないままの失踪であった。
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