第4話 グラスゴー攻略戦

 オレリア公アナイス・コリンヌ=コランティーヌ・ファビエンヌという女性は、ハイランド王家の五番目の娘として生を受けた。幼少期より気が強く、剣技を学び、馬に跨がり狩りに出るという、男勝りの気質であったという。類まれな美貌と合わせ、当時は相当な有名人だったらしい。成人後、オレリア公爵に嫁ぐが、子が生まれるよりも早く、公爵が病で他界すると、大都市グラスゴーの城砦を強化し、ハイランド王家との親密路線を捨てる。

 ハイランド王は、オレリア公領の併合化という、またとない好機を血縁者によって不意にされてしまう事になったが、数え切れぬほどの書簡の応酬はあったものの、今日まで表立った軍事行動までには至っていない。

 ハイランドの発祥は、北部高地に住まう交戦的な少数民族たちだった。しかし、バヤール平原という広大な領土を手中にして数百年、その兵科は騎兵を主とする機動部隊へと変遷していた。断崖絶壁に守られた首都グラスゴーへの侵略は、ハイランド騎兵たちの手に余ったのだ。

 生家から軍事力による干渉を受ける可能性は低し、と悟ったアナイスは胸を撫で下ろし、実権を握ったオレリア公家の財産を、感情のおもむくままに使い込み始める。

 まずは手始めは、防衛力の強化だった。

 自分から縁を切ったのだから、ハイランドを気にしての城壁の強化、軍事力の増強は、最低限にしても実行せずにはいられない。それだけでも、辺境の片隅の都市には重い負担であったものを、夏は風通しが悪く蒸し暑く、冬は冷えた石材に囲まれた住み心地の悪さが常識の城砦内部を、水路、毛皮、暖炉、タペストリーで埋め尽くし、さらには上等な彫刻と絵画を取り寄せて、絢爛豪華に飾り立てた。

 しかし、それだけは終わらない。

 歳を取るごとに、アナイスの趣向はエスカレートし、身辺警護を任せる若者たちも、まずは従順であること。次に容姿端麗であることを条件につけ始めた。

 また一方で、自らの美貌を保ち、一層派手に飾り立てる手段に傾向し始める。

 家臣と民たちの悩みは、浪費癖だけに留まらなかった。

 政治的思考にも偏りがあり、元来の強情さと合わさって、偏執の極みへと達する。


 その嫉妬心は、貴族令嬢たちに向けられる。

 その妄執は深く根を伸ばし、明哲の教えを拒む。

 その逆恨みは激烈さを増し、幽閉、暗殺へと転じる。


 12年の為政者としての暮らしが、彼女の心を蝕んでしまった。権力の座を得て、単身それを守り抜こうと、日々気負うあまり、陥りがちな穴を掘ることになったのだ。

 彼女に苦言を呈そう者なら、謀反の気配ありとされ、ある者は投獄され、ある者は辺境の果てに幽閉される。だが、罰を与えた相手が生きている限り、いつか反撃を喰らう日が来るかも知れない。心配事の種を断つには、自由を奪った状態で暗殺する事が一番だった。

 最早、彼女の行いに、誰も口を挟める者はいなくなってしまう。

 “美貌の暴君“アナイス。

 青いドレスの腰に剣を帯び、パラペットに片足をかけて威を張る女性が、今の彼女の姿だった。



「雌猫無勢が、妾の靴を舐めに、わざわざ出向いて来るとは、見上げた献身よ!女々しく腹を見せて擦り寄れば、許しもしようぞ。今すぐ剣を置き、分相応に泣き喚くが良い!」

 アナイスの恫喝に、後ろに控える騎士たちは目を瞑った。

 彼女が立つのは、グラスゴーの城砦を囲む第二城壁。対峙するのは、第一城壁の上に立つ、辺境騎士団団長ルイーサ・フォン・アマーリエだった。

「城壁を失って、慌ててお出まし?それとも、“血祭り“の最中だったのかしら?あぁ、ごめんなさい。もう、来ないわよね。年増のさがは、悲しいものね。いくら美男子を取り揃えても、何も授かりはしないのだから!」

 背後に控えるクルトたち騎士の面々は、アマーリエのあまりの毒舌ぶりに慄き、硬直するしかなかった。

 年下の辛辣な舌に、尻尾を巻くアナイスではなかった。

「お前も行き遅れ同然であろうに!男ばかりに囲まれながら相手にもされず、火照る体を持ちながら、剣を手に自慰に励むばかりとは、さぞ寂しい日々を送っておろう。お悔やみを述べ申すぞ」

 カーテンウォールの下には、整列した辺境騎士団の歩兵たちが、卑猥な舌戦の成り行きを居心地の悪そうな表情で堪える。

「鏡の中の自分に金貨を投げ込む事しか知らない、哀れな女よ!城下の誓いに応じるならば、残りわずかな命は長らえさせてやろう。何処ぞのどかな場所に、家もくれてやる。その自慢の顔も、持って行く事は許してやろう。ついでに、舌の長い犬どもも、数頭つけてくれる。即刻、剣を捨てて、命乞いをしろ!」

「犬の舌の長さが何だ?犬は皆、舌が長いものだろうに」

 シュタッツが呟き、ワルフリードに後頭部を殴られる。

「え、ひどいな…何で?」

「口を挟むな、黙ってろ。殺されるぞ」

「姫があれほど下品な女だとは、驚きだ」

 オラースの呟きを、クルトは聞き流した。

 アマーリエの降伏勧告は、やはり恫喝にしかなっていなかった。いや、元よりアマーリエはアナイスが降伏を受け入れるとは考えていない。これは、単に啖呵の張り合い、意地の張り合いなのだ。

「故郷を焼き出された迷い猫には、城砦のことなど見ても解らぬと見える。グラスゴーの城壁は、三つあるのだ。城下の誓いについて述べるのなら、これら全てを破ってから口にせよ!妾の騎士たちよ、これ以上、一歩たりとも後退は許さぬ!徹底抗戦じゃ!生意気な小娘よ、裸にひん剥いて馬に繋ぎ、骨になるまで市中を引きずり回してやるぞ、楽しみにしておれ!」

 アマーリエは回れ右をし、カーテンウォールの前方、城砦側にある階段を降り始める。騎士たちが、慌てて後を追った。

「交渉決裂ね」

「交渉だったのかッ!?」

 クルトは、彼女に激しく睨まれた。


「ギレスはどこにいるの!?」

 兵たちに尋ね、アマーリエは魔術師にして騎士、白顔のギレスブイグ男爵の居場所を突き止める。


 辺境騎士団の狙いは、第二城壁の突破に絞られていた。

 グラスゴーの衛星都市、主だった集落には、事前にロロ=ノアが書簡を送ってある。その内容は、恭順を求めるものではなく、サボタージュの言い訳を考えておけ、というものだ。手出し無用、それが主文であった。

 たったそれだけの書簡であったが、アナイスの援軍は未だ現れない。

 しかし、もし現れたところで、もう遅い。

 アマーリエたちは、住民によって門扉を開かれたのだ。すでに城塞都市内部に入っている以上、敵の援軍は都市の防壁によって妨げられる。包囲戦の最中に、後背を急襲される心配は、すでにする必要がないのだ。

 山の民たちを従え、さらに周辺地域を平らげた辺境騎士団の兵数は、今や五千を超えていた。辺境騎士団の侵攻目的は略奪ではなく、造兵であったからだが、戦後統治の迅速さあっての賜物だ。それは、優れた紋章官の采配に起因した。その兵士に、グラスゴーの自警団たち三百名余りが追加されている。

 湯水の如く資金を投じて増設されたカーテンウォールは、さすがの頑強さを誇り、自警団の者たちでもその弱点を知る者はいなかった。

 梯子をかけて、一気呵成に攻め落とすしかないが、兵の数は減らしたくない。第一城壁の陥落は、最終的に離反者が門を開いたことによって成ったが、それまでに二十五名の死者と多数の負傷者を出してしまった。


 そこで、白羽の矢が立った先が、なめし革を重ねて作られた小さな天蓋の主人であったのだ。

「この中にいるの?」

 案内してくれた兵士に、アマーリエは思わず再確認する。

 真新しい石畳と、カーテンウォールの隅に設けられた、まるで辺境の遊牧民が寝床に使うような粗末な天蓋は、何かのお遊びであるかのような、滑稽さを醸し出していた。

「入るわよ」

 アマーリエが重なった革に手をかけると、中から怒鳴り声が返ってきた。

「いかんぞ、開けるな!」

 アマーリエは口を尖らせて、クルトを振り返る。

「招かれてから入るのが、マナーだ」

 笑いながら、クルトが返した。

 アマーリエは天蓋の周りを、手持ちぶたさのまま歩き回る。

 彼女が歩いた地面には、カツンと矢が弾け、天蓋にも二、三本突き刺さる。

「良いぞ…」

 しわがれた低い声を聞き、アマーリエは天蓋に駆け寄って、入り口を捲り上げた。

 小さな天蓋の中には、得体の知れない死体が詰められたクリスタル瓶が並び、床には白いチョークで魔法陣が描かれている。その中央に、黒い全身甲冑を着た色白の男があぐらをかき、手には大きな麻袋を抱えていた。

「良いわ!すごい、似合ってる!」

「なんの話だ」

「できたの?」

「せっかちな迷い猫に、危うく台無しにされるところだったがな」

「見せて!」

「壺にしっかりと圧をかけ、詰め込んだらな」

「できてないじゃない」

「壺をよこせ、すぐに仕上げる」

 アマーリエは周囲を見渡す。壺らしき、物の残骸はあるが…。

「そこへ置いていたのだが、矢が当たって、すべて割れてしまった」

「壁の反対側でやれば良かったのに」

「向こうには、味方の兵が多く集まっておる。それに、近い方が何かと良いのだよ。それよりも、早く壺を探して来てくれ」

 近場にた兵たちに、壺を持って来るように、と指示をする。

 その間、アマーリエの身体目掛けて飛来した矢を、クルトが器用に剣で払いのける。

「弓兵、何してる!?矢を撃たせるな!」

 第一城壁の上に並ぶ、自軍の弓兵たちを叱咤する。

「そういやぁ、また、ロロ=ノアの姿が見えないな」

 アマーリエはさっと身体を動かし、飛来した矢を手で掴み取った。

「三姉妹を連れて、街の代表者たちと会談中よ」

「戦後処理かよ、気が早い」

「アナイスを孤立させるのに、役立つわ。離反者も多くなるだろうし。市民の感心事は、占領後の税率。それが分かれば、本腰を上げて協力してくれる。徴兵の事も、先に匂わせておきたい」

 ジャンプして手を伸ばすが、二本目の矢は掴み損ねた。

「何で、三姉妹なんだ?」

「アナイスが、先任のオスカー神の大司教と揉めて、追放しちゃったの。不在というなら、この際、アドルフィーナ大司教に据え置こうという算段よ」

 三姉妹とは、シュナイダー侯領で志願してきたヴァンサン家の娘たちで、アマーリエは彼女らの腕前を見込み、すぐに騎士に任命していた。長女セヴリーヌ、次女ミシェルは戦神アドルフィーナの神官位、三女のイネスは剣神ゾルヴィックの神官位を有している。

「ロロ=ノアの策か…奴に弱みを握られるのだけは、避けたいところだな」

「何言ってるの、それは私の考えよ」

 クルトは肩をすくめた。

 ほどなくして2つの壺が届けられた。

 面目なげな表情の兵士の手には、小さなかぼちゃほどの壺。得意満面な表情の兵士の手には、子どもが入れそうなほどの大きな壺が抱えられていた。

 アマーリエは、大きな壺を受け取って、天蓋の中に身体を突っ込む。

「阿呆か…街を燃やすつもりか?」

 不機嫌そうな表情で、ギレスブイグが天蓋から顔を覗かせる。

「そっちの壺をよこせ、早くしろ」

 アマーリエは頬を膨らませて、大きな壺を兵士に返した。

「姫、こんな場所で何をしておられる!」

 石畳をずんずか踏みしめながら、ボードワンがやって来た。ついでに、クルトの頭を拳で叩く。

「お前がいながら、どういう始末だ!?姫、アーメットを被るのだ!いくら魔法の鎧であっても、この距離で弩を喰らったら一大事ぞ!」

 今まで何処にいたのか、従者を務めるアッシュが出現し、アマーリエに兜をさっと手渡す。

 渋々、それを受け取りながら、アマーリエは言い訳を言う。

「弩は、みんな売っちゃったらしいわよ、お金が無くて…」

「イネスのことをお忘れか、長弓とて充分脅威ですぞ」

「はい…」

「そもそも、何でこんな危険な場所をうろうろして…」

「できたぞ」

 ボードワンの説教が終わる前に、ギレスブイグが栓をした壺を持って、天蓋から姿を現した。

 背の高いクルトを、さらに上回る巨躯。漆黒の全身甲冑に、カラスの羽をあしらった外套。波打つ黒髪に、青白い肌。クマのある不健康そうな瞳には、蛇のような鋭い眼光。

 散発的に飛来していた矢が止まったのは、恐ろしげな人物に目が奪われた所為であろうか。

 ギレスブイグは、壺をクルトに手渡す。

「これ、一個だけか?」

 思わず受け取ったクルトが、拍子抜けした声を上げた。

「誰に向かって話しとる。俺が準備したのだから、問題はないに決まっとる」

 黒衣の騎士は、クルトを見もしないで、事なげにそう言いのけた。

「じゃぁ、これをどうすればいいってんだ?」

「壁の下に置いて来い。落とすなよ」

 壺をポンポンと弄びながら、クルトはため息をひとつ付くと、背中の盾を腕に装備する。

 第二城壁までの距離は、およそ50m。

「盾を持つ者!そうだ、お前たち。俺に着いて来い!」

 数名の兵士に呼びかけるが早いか、盾を頭上にかざして走り出す。

 呼びかけられた兵士たちは慌てて彼を追いかけ、一塊となって城壁に向かって行く。

「弓兵、援護せよ!」

 アマーリエの呼び掛けに、第一城壁の弓兵たちが忙しなく働き始めた。

 破城槌も携えず、盾を頭上にかざして突進してくるだけの小隊に、第二城壁上で弓を構える兵士たちは、はじめ狼狽した様子だった。だが、どうやら使者でもないようだと分かると、一斉に矢を撃ち下ろす。

 味方の援護の甲斐なく、クルトたちの盾は、降り注ぐ矢によって、瞬く間に針山のようになってしまった。

 それでも怯むことなく、壁際に壺を置いたクルトは、負傷した兵の腕を引っ張りながら、どうにか生還を果たした。

「ふぇぇ…死ぬかと思ったぜ」

 甲冑を着たまま、死地を往復100mも走ったクルトだったが、呼吸はあまり乱れていない。

 第二城壁上の弓兵たちは「今のは何だったのか」と首を傾げていたが、やがてその内の一人が壺に気付き、指を差した。

「気づいたみたいだ。で、どうなるんだ?」

 クルトの問いに、ギレスブイグは目を瞑って答える。

「俺の触媒を仕込んである…まぁ、見ておれ」

 騎士たちが見守る中、彼は何やらぶつぶつと呪文を唱え始める。

 その様子を、アマーリエは目を輝かせて見守り、ボードワンは顰めっ面、クルトは最初は神妙な顔で眺めていたが、呪文がいつまでも終わらないのに耐えきれず、自分の盾に刺さった矢を抜き始めた。


 視界が歪んだ。

 大気を歪ませる衝撃波。

 騎士たちの身体は宙に浮き、第一城壁まで飛ばされる。

 内臓がひっくり返ったかのような衝撃が走った。


 グラスゴーの市民たちは、振動で落ちる花瓶や皿、弾けるクリスタルガラスに驚いた。天高く立ち昇る黒煙を見て、爆音の発信源が城砦からだと知ることになる。

 市長庁舎で会談中の市民代表団も、一斉に椅子から飛び上がった。

 三姉妹も驚きを隠せず、窓を開いて外を確かめる中、ロロ=ノアだけが静かに目を閉じたままだった。


 騎士たちは、強かに背中を石壁に打ち付け、揃って倒れ込んだが、幸い大きな怪我はしないで済んだ。

 あたり一面を、くさい臭いがする黒煙と、鼻に詰まるほどの土煙が覆う。

 それが、静かに風に運ばれてゆくと、散乱した石材とモルタルの塊が姿を見せた。

「おい…お前、アレを俺に運ばせたのかっ!?」

 クルトは倒れたままのギレスブイグの元に這い進み、その首元を締め上げた。

「…耳が、聞こえん」

 ギレスブイグは、そう答えた。

 アマーリエは座ったまま、アーメットを脱ぎ、惚けたままのボードワンにそれを渡す。

「ギレス…あなた、すごいのね…」

 やがて、第一城壁の上からの歓声に気づく。

 綺麗に積み上げられたブロックと、端材の石塊とモルタルを詰め込んだ基礎部分から成る、カーテンウォールの断面が、煙の中から現れた。

 第二城壁は、幅5mに渡って、綺麗に崩れ落ちていたのだった。

 魔術の偉業に面食らった辺境騎士団の兵士たちは、すぐに突入することはできなかった。爆発のショックから立ち直った後、クルトは第二城壁占拠のための突入隊を編成し、第一城壁と第二城壁の間に整列させた。

 だが、彼らが剣を振るう機会はなかった。

 アナイス配下の騎士15名と、彼らの従者たち、それに傭兵34名が投降して来たのだ。

 第三城壁の門は内側から開かれ、グラスゴー城砦は陥落した。


「これだけ?」

 投降した兵たちを見て、アマーリエは思わず呟く。

 投降者の代表を務める騎士は、ケレン・バレンヌと名乗った。

「給与を払えず、皆、解雇されました故…」

 アマーリエには言葉もない。

 自分の生家であるクラーレンシュロス家は、西方でも部門で名を馳せた一族なのだ。アナイスのような人柄とは恐らく、毛ほども理解し合えないだろう。そして、このケレンという騎士、顔は整っているが、瞳とその挙動を見る限り、利発性は少なく大人しそうだ。投降者という今の立場もあるだろうが、アナイスに最後まで付き合ったような人物だ。きっと従順で謙虚な人柄なのだろう…良く言えば、の話だが。

「バレンヌ卿、オレリア公の元まで、案内して頂戴。他の投降者は、この場に待機」

 ボードワン、クルト、ギレスブイグ、オラース、ワルフリード、シュタッツらの重鎮にあたる騎士たちを従え、アマーリエはグラスゴー城砦のキープに足を踏み入れた。


 騎士たちは城砦内部の絢爛豪華な装飾に、思わず息を呑む。

 西方諸国から取り寄せたのであろう、ビロード織で成る紺碧のタペストリーは、長さ10mにもおよび、それが大回廊の左右に列を成して、回廊を荘厳に飾り立てる。大理石の彫刻も素晴らしかった。アマーリエにも、それが近年の作品ではないことが知れた。乳色の滑らかな裸身像は、古バヤール帝国が誇る傑作に違いない。修復痕も一見しては認められず、まるで古代の彫刻家が掘り上げたばかりかのようにさえ、思えてくる。

 ここが、辺境の片隅にあることを忘れさせるほどの、雅さであった。

 謁見の広間の入り口には、差し渡し5mに迫る人物画が据えられていた。

 それは、青いクリノリンドレスを纏った、若かりし頃のアナイスを描いたものだ。

 兵器を売り払い、傭兵を解雇してまでも、下賎の民の暮らしには落ちてなるものか。

 アマーリエの瞳は、そんなアナイスの矜持を映す。


 その女主人は、城代の座の前に、うつ伏せで倒れていた。

「すでに、毒をご用意なされていたようで、私どもが降伏を具申いたした際、ご自害なされました。止める間もなく、騎士として不甲斐ない限りです」

 ケレンが、静かに語った。

 アマーリエは身体をふらりと揺らし、近くの椅子を探してそこに腰掛ける。

 気遣う騎士たちに、彼女は告げた。

「疲れたわ…少し、休ませて」

 椅子に座ったまま、白い喉筋を見せて顔を仰け反らす。

 駆けつけたクルトが、その身体を支えた。

 それから、アマーリエは目覚めることがなく、床に運び込まれることになる。



 アマーリエは、夢の中で馬を駆っていた。

 早く…一刻も早く、アマーリエの地に戻らないと…。

 しかし、馬は重く黒ずんだ風に遮られ、一向に速度を上げることができない。まるで、止まったまま宙をかいているかのように、どれだけ進んでも、いつまでも走っても、故郷の地は近くならない。

「お願い、アルヴィ…前に進んで…」

 泣き出しそうな声で、愛馬の名を呼ぶ。

 アルヴィは首を上下に振って、懸命に主人の願いに応えようとするが、一向に効果は現れなかった。

 あまりの歯痒さに、アマーリエの頬に涙が伝う。

 不意に、左右に騎馬が並んだ。

 ハルトマンと、クルトの二人だった。

 二人から伸ばされた手を握ると、アルヴィは暗雲を突き破り、矢のように突き進み始めた。

 やっとのことで辿り着いたアマーリエの地は、赤黒い空に覆われ、街も村も畑も森も、赤々と燃える炎に覆われていた。

 ミュラーが、馬を進めてやってきた。

「いったい、今まで何をしていたんだ!?クリューニとランゴバルドの軍が、ハロルドを襲っている。今すぐ、応援に行くんだ!ハロルドを陥されたら、アマーリエはお終いだ!」

 アマーリエはお終い…その言葉に、アマーリエの胸は激しい痛みを覚えた。



 アマーリエが目を覚ました時、レース織のカーテン越しに、午後の日差しが差し込んでいた。

 どこかの寝室…城砦内にある、客室の一つであろうと察する。

 耳の奥で、ミュラーが叫んだ、最後の言葉がリフレインしていた。

 顔を上げると、ロロ=ノアが椅子に腰掛け、足を組んで羊皮紙の束をめくっている。

「…暇なの?」

「そう見えますか?」

 上体を起こすと、頭痛がした。

「この痛み…何日寝ていたの?」

「今日で、三日目になります」

「病気?」

「私の見立てでは、疲労ですね。これまで異国の地を戦乱と共に、旅をして来たのです。病のひとつも無かった方が、おかしいくらいですよ」

「もう、秋になる…寝ていられる時期ではないわ」

「ほう…それは、どうしてです?」

 アマーリエは苛立った。

「ここは辺境一の大都市なのよ?たくさんの兵を雇えるわ!すぐに準備を済ませて、領地へ向かうのよ!」

 羊皮紙の束を揃え直し、脇のテーブルにそれを置くと、ロロ=ノアはアマーリエに向き直った。

「兵が増えれば、金がかかります。騎士団の財政は、とっくに底をついています。それに、自警団を除いては、現役の兵士はこの都市周辺には残っていません。ハイランド王が実情を知らないでいてくれたのが、奇跡なのです」

「お金ならば…有力者、商人に声をかけて、寄付と借金で…」

 ロロ=ノアは、人差し指を立てて静かに答える。

「それでも…足らないのですよ」

 アマーリエは、寝台に倒れ込む。

「…何をしていたの?」

「国勢調査です」

「三日間で?」

「まさか…そのための準備です」

「税率は決まったの?」

「売上税は二割。人頭税、関税、神殿税などを合わせれば、おおよそ中庸所得の五割程度となるよう調整していくつもりです。アナイスの売上税は五割、全体としては八割五分、というところでしたから、きっと、受け入れられるでしょう」

「その代わりに、徴兵を布く」

「独立志向の強いオレリア領民の心情としては、慎重を期すところですね。しかし、志願者はすでに集まりつつありますよ」

「あなたが、布告したの?」

「いえ、セヴリーヌ卿が…今は大司教でしたね。彼女が説法と共に、辺境の新たな未来像を民に説いています。志願者たちの練兵は、クルトとオラースが引き受けました」

 アマーリエはカーテン越しに、グラスゴーを囲む連峰を眺めた。

 ロロ=ノアは、その横顔に語り続ける。

「大事なことは、“信頼は利得が先んじる“ということです。しばしの間、徴兵の布告は行わず、大司教による地固めを待つことにしましょう。神殿が機能し始めれば、冠婚葬祭、病の治療、それら心の拠り所を得て、民の気持ちも落ち着くはず。あなたが壊した第二城壁を、いっその事取り除き、街道のインフラ整備にその資材を充てる計画です」

 どこかから、鳥の鳴き声が届く。

「“まず、与えよ“…。じゃぁ、出征の準備は進んでいるのね」

「…まぁ、ですが…」

 珍しく、ロロ=ノアが言葉を濁した。


 アマーリエが寝込んでいる間に、騎士たちの中で意見の対立が生まれていた。

 一刻も早くクラーレンシュロス領を奪還すべし、とする“強硬派“に対し、ひとまずは辺境領の平定を優先し地盤を固めるべし、とする“穏健派“の対立だった。どちらも、本拠地の奪還を目標としている。だが、辺境は広い。まだアマーリエが足を運んでいない地方も多く残されているのだ。

「真に平定を望むのならば、軍事力による完全征覇とは言わないまでも、少なくとも書簡の往来だけでも、恭順を誓わせておく必要はあるでしょう。それが、穏健派が述べる最低条件です」

 ロロ=ノアはそう伝えた。

「そうは言っても…」

 恭順とは、条件付きの降伏を受け入れる事だ。“まず力を“が鉄の掟である辺境において、軍事力の背景無しでそれは実現できない。そんな事をしていては、本隊はいつまでも辺境に釘付けとなってしまう。

「ハロルドの戦況は、掴めたの?」

「男爵たちの軍の包囲は完全ではなく、膠着状態を保っているようですが、すでに食糧は枯渇している事でしょう。ですが、決定打を持たぬ男爵たちの疲弊も相当なはず…もし、パヴァーヌ王が助太刀を申し出れば…」

「話が違うわ!」

 アマーリエは、シーツに拳を落とす。

「それでは、二万の兵を集めたところで、どうにもならないじゃない!」

 ロロ=ノアは、しばし無言でアマーリエの視線を受け止めてから、ゆっくりと目を閉じた。

「病み上がりの身に対し、悪戯に不安を煽ってしまった私の非をお許しください。あなたの手に、アインスクリンゲがある限り、きっと祖国は奪還できます。その為の準備は、私が抜かりなく…」

 アマーリエは、言葉を遮った。

「穏健派には、誰がついているの?」

「ここ二、三日の意見の相違に過ぎません。あなたが寝込んでしまった事による不安から起きた、気の迷いによるものでしょうから、あまり執着せずに、今はゆっくり…」

「分かったわ。で、誰なの?」

 ロロ=ノアは、ため息をついてから、その主要な面子を述べあげた。

 最古参に列するスタンリー=ハーレイ・オブ・ギャンベル。

 古参の武闘派、オラース・ド・バレリ。

 そして、アマーリエ地方の西端に臨する、ラステーニュ地方の男爵、ジャン=ロベール・マクシム。

「スタンリーを呼んで頂戴」

「勢いのままお話になるのは、得策とは言えませんよ」

「彼とは、物心ついた時からの付き合いよ。口を挟まないで」

「残りの二人には?」

「スタンリーと話した後で考えるわ」

「…良いでしょう」

 ロロ=ノアは、資料を抱えて部屋を後にした。


 ややあって、従者のアッシュが入室する。

「紋章官殿から、私も同席するように、との事でした」

「良いわ、スタンリーは?」

 アッシュは扉に戻り、騎士を招き入れた。


「やや、目を覚ましましたな!ご気分はどうですか!」

 スタンリーは肌着のまま寝台に座るアマーリエの姿を認めるや否や、甲冑を鳴らして駆け寄り、寝台の隣に膝をついた。

「あぁ、血色もいい…良かった…」

 口髭のある口角を吊り上げて、心底安心したように微笑んだ。

 アマーリエは冷たい声で問いただす。

「どういうつもり?」

 スタンリーは首を傾げて、アマーリエを見つめるが、彼女の表情を見ると、訳がわからぬように眉間に皺を寄せた。

「何か、悪い夢でも…?」

 アマーリエは数度、無言で頷くと、彼に騎士団の今後の展開について意見を尋ねた。

 アッシュが部屋の隅で見守る中、二人の会話は加速していく。


「…しかし、今までのように現地の人間を代官として置くやり方では、いつ反旗を翻す者が出るやも知れませぬ。シュナイダー侯領はともかく、山の民たちは、もとより好戦的な気質。それに、このグラスゴーの民たちのことも、我らはよく知らぬのですぞ」

「放って置くわけではないわ。グラスゴーには、オレリア公爵の立場から恭順を誓わせるし、三姉妹も置く。軍勢がまったく、いなくなるわけじゃない。辺境の征覇も続行させる」

「誰に、どこをですか?」

「ランメルトを南部に向かわせる」

「兵は、どうしますか」

「騎士十名ほどと、山の民を五百。そうね、知見に優れた老齢のデジレを同行させましょう」

「それでは、圧倒的に騎士団に不利となります」

 騎士十名とすれば、従者・馬丁を合わせても五十名にも足らない。

「山の民たちは、戦闘民族として恐れられている。その兵たちを、少ない騎士たちが従えることに、意味があるの。辺境の民たちから、反抗する気概を奪えるわ」

「しかし、それだけの兵力では、恭順を得ることは難しいでしょう。少なくとも、返答を先延ばしにされ、平行線を続けることになりかねない。すぐに両手を上げるほどの大軍ならば、容易いでしょうが。それでは、本末転倒。来年のアマーリエ攻勢は難しくなる事でしょう」

「…そうね。どの道、大軍は送り出せない。軍事同盟が落とし処かしら」

 スタンリーは、口髭を撫でながら、ふーと息を吐いた。

「すべて、今、思いついたことでしょうに。果たして、そう上手く行くでしょうか。孤立無援の遊軍を産むだけ、というような結果に終わらぬかが心配ですな。それに、二雄並び立たず、とも申します。パンノニール伯は、生粋の貴族家系。一方、デジレは、山の民の中でも浮いた存在。二人の相性は、あまりに未知数では」

「急速な拡大を目標にしている騎士団にとっては、部下を選んでばかりはいられないわ。ランメルトにそれができるかどうか…私は、彼が良い結果を出すと、期待してる」

「何はともあれ、紋章官殿に相談ですな」

 アマーリエは、スタンリーを見据えたまま、次の言葉まで間をあけた。

「…団長は、私」

 スタンリーは、口髭を吊り上げてにやりと微笑んだ。

 その瞳には、今までに無かった明るい光が灯る。

 そして、静かに首を垂れた。

 目を伏せて黙ってやり取りを聞いていたアッシュは、ふと窓へ目線を送る。

 クリスタルガラスの向こうで、ジョウビタキの橙色の身体が飛び立った。


 扉が、叩かれた。

 アッシュが伝令の顔を確認してから、中へ招く。

 伝令は、姿勢を正し、一同へ告げる。

「ミュラー卿が、お戻りになられました」

 スタンリーがアマーリエに問う。

「しばらく、姿を見ておりませんでしたぞ。使いに出しておいでだったか」

 アマーリエは、眉を上下してそれに答える。

「学会支部、それも最大級のパヴァーヌの学会支部に潜入させた」

「学会ですとっ?“戦記“の学会ですか…グラスゴー攻略の前に、そのような…」

 スタンリーは額に拳をポンポンと当てて、驚愕の視線をアマーリエに注いだ。

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