第3話 魔窟

 クルトに手を引かれながら、アマーリエは暗黒の通路を走る。

 石壁が崩れて土砂が溢れ出し、狭くなった通路を身を屈めて抜けると、円形のホールに出た。その奥で、騎士オランジェが柱のような物体を剣で斬りつけていた。

 その赤黒い土のような柱は直立してはおらず、曲がりくねりながら、騎士カルロの身体を絡めとるようにして、彼を壁に磔けにしているではないか。

 駆けつけざまに、クルトが柱に斬りつける。

 クルトの剣に切断された柱は、泥水のように分解し、カルロの身体を地面へと手放した。

「カルロ、無事かっ!?」

 クルトがその身体を抱き起こし、反応を確かめる。しかし、アマーリエ地方南方の出身である若い騎士は、真っ赤に染まった両目を見開いたまま、すでに絶命していた。

「オランジェ、何があった」

 カルロの身体をそっと地面に寝かせながら、クルトの声はアマーリエが驚くほどに、冷静だった。

「分からない…」

 クルトよりも一回り年上の騎士オランジェは、息を荒げたまま、籠手で顔を覆う。クルトは、その手を掴んで問いただす。

「見たままを話せ」

 オランジェは、瞬きを数回繰り返した後、早口で語り始める。

「俺が振り返った時には、ボルドーとルキウスの姿が消えていた。カルロと手分けして、二人を探していた時、カルロの悲鳴が聞こえて、駆けつけたんだ。そうしたら…こうなっていた…いくら斬りつけても、まるで水を斬るようで効果がなくて…」

「とにかく、あとの二人を探そう…」

 クルトがオランジェの肩を叩いて、そう語ると、彼は神妙な顔でクルトの腕を掴んだ。

「もう、見つけた…」

 オランジェの瞳が、天井に向けられる。

 クルトが松明を向けた時、アマーリエは息を呑んだ。

 二人の身体はまるで人形のように、ぶらりと四肢を垂らした姿で、天井に張り付いていた。瞳と口を大きく開いたまま、息をしている気配さえない。

「一体、何が…」

 目を大きく開き、呟いたアマーリエの腕を、クルトが掴んで揺さぶった。

「得体の知れない敵がいる。捜索は中止だ。ボードワンの小隊と合流して、ここを脱出するぞ」

 オランジェが意義を唱えた。

「せめて、あの二人を降ろしてはやれないか」

 クルトは、オランジェの背中を荒々しく叩き、来た道へと押しやる。

「あの高さは無理だ。ぐずぐずしていると二の舞になるぞ、急げ!」

 クルトは落ちていた松明を拾いアマーリエに手渡し、歯切れの言い声で指示を出す。

「お前が先頭を行け、俺は殿を務める。オランジェ、歩け!」

「行くわよ、オランジェ」

 アマーリエはオランジェの手を引き、松明をかざしながら崩落した道を戻り始めた。

 カルロの悲鳴を聞いた地点まで戻ると、アマーリエはロロ=ノアたちがいる部屋の方へ向けて叫ぶ。

「撤退する!直ちに引き上げて!」

 そして、オランジェに三人に合流するように告げて、彼と別れた。

「クルト、ボードワンたちの元へ向かうわ」

「了解だ」

 二人は、十字路を直進して、オランジェたちが捜索した方向とは逆の道を進む。

 松明の灯りは、数メートル先の世界しか見せてくれない。

 湿気に満ちた暗黒の道を、垂れ下がった木の根を掻き分けながら、さらに奥へと進む。

「光ったッ」

 暗闇の先、石壁が一瞬だけ白く光り、無数の木の根の影を浮かび上がらせた。二人は足を速めた。アマーリエはその光が、ボードワンが行使する法力によるものだと直感する。

 はやる気持ちを邪魔するかのように、木の根がアーメットに絡まり、それを手で引きちぎりながら、二人は道を急ぐ。やがて、いくつかのどなり声が通路に反響した。

「ハルトマンと、シュルトの声だ!急げ、アマーリエ!」


 T字路を右に曲がった瞬間、白い閃光を浴びた。

 反射的に目を閉じた。

 青紫色の残光が、瞼の裏側に映る。

 アマーリエは、大部分の視野を奪われて狼狽した。

「退け、アマーリエ!」

 肩を押し除けられ、石壁によろめいた。手をついた壁には、どろっとした土が付着して身体を支えるのに苦労する。そうこうしている間に、鉄履の足音と、甲冑が軋む音を聴覚が伝えてくる。

「ボードワン、撤退だ!」

「ハルトマンが、二人を助けに部屋に入った。戻るまで、ここを死守する!」

「俺が行く!」

 再び、閃光が通路を白く染める。

「いかん、道が塞がれていくぞ、急げ!」

「三人とも無事だ、戻れ!俺たちが来た道は、まだ無事だ」

「姫、怪我を!?」

 ボードワンに肩を抱かれて、アマーリエは目が眩んだだけだと、答える。

「では、手を引きます。急ぎ移動しますぞ」

「何があったの、ボードワン」

 壁に手を当てながら、アマーリエは尋ねる。

「泥濘に襲われました」

「あれは、泥なの?」

「分かりませぬ。しかし、そうとしか言いようが…」

 老練の神官騎士にして、形容の術を与えぬ未知の敵。

「カルロと、ルキウス、それにボルドーがやられたわ。そっちの被害は?」

「ハルトマンとクルトが手を貸し、全員着いて来てはおるが…シュルトは脇腹を負傷、ノイマンは片眼を失っている様子」

 複数の足音と、痛みを堪えるようなうめき声が、後方から聞こえて来ている。

「して、姫…道は?」

 視力が戻ってきたアマーリエは、松明を前方にかざした。

「え…」

 カルロたちがいた前方と、ロロ=ノアたちがいる左手側の通路が消えていた。正確に言えば、石壁とは異なる、炎の揺らぎを反射するほど、水っぽい泥で塞がれている。

 松明を掲げるアマーリエの手に、振動が伝わり、反射的に手を引っ込めた。

 ぬめ光る泥が柱のように降って来て、松明を地面に叩きつけると、そのまま泥で覆い隠して火を消してしまう。

「走って!」

 そう叫ぶと、アマーリエは、唯一残された右手へと走った。

 背後からの光が、自分の影を前方に映す中、天井から次々と泥柱が落ちて来るのが分かった。

 シュルトの悲鳴が聞こえた。

 振り返るが、激しく揺れる複数の松明が見えるだけで、何も分からない。

 クルトの声がした。

「振り返るな、走れ!」

 甲冑の重みが太ももにのしかかり、土に覆われた地面は、まるでつま先を掴んで転倒させんと目論んでいるかのように思えた。いくつかの十字路とT字路を行き過ぎ、ひたすらに真っ直ぐ走り続け…。

 不意に落ち込んだ地面に気づけず、前のめりに転倒した。

 アマーリエの身体につまずき、ボードワンも転倒する。ハルトマンとクルトは、二人の身体を上手く飛び越え、やや遅れてノイマンが追いついた。

 新鮮な空気を激しく求める肺が、ムッとする熱気と、さらに強烈になった湿気を吸い込み、全員が苦しく咳き込んだ。

「どういうことだ、ここは…」

 敵の追撃の気配がないことを確かめたハルトマンは、松明を高くかざして辺りを照らす。

「…洞窟なのか?」

 洞窟、というよりもドーム型にくり抜かれた、広い土壁の空間だった。

 ハルトマンは、中央部分に大きな穴があることを見つけ、覗き込む。

「底が見えない」

「何か、あるぞ」

 クルトが、部屋の周囲をなぞる様にして置かれた、岩の列を示す。それぞれの岩には、鉱石の塗料が塗られ、二つとして同じ紋様がない。

「墓標だ…おそらく、蛮族のな」

 仰向けのまま、ボードワンが言った。

「墓場に追い込まれたってわけか」

 クルトは、皮肉めいた言葉で苦笑した。

 恐怖は無い。

 あるのは、疲労と、困惑だけだ。

「シュルトは…」

 半身を起こしたアマーリエは、誰とは無しに問いかける。

 ハルトマンが、苦々しげに答えた。

「私が手を引いていたのだが、気がついた時には、腕だけになっていた」

 嗚呼、とアマーリエは顔を覆った。

 分かっているだけで、四人の騎士を失った。

 松明の弾ける音が、ドーム型の空間に鳴り響く。

 しばらく、誰も、何も言わない時間が過ぎた。


 沈黙を破ったのは、クルトだった。

「おい。盛り土があるのに、墓標がないのがある」

 ハルトマンが歩み寄る。

「…これだな。一つだけ、確かに墓標がない」

「気は進まないが…掘ってみよう」

 クルトの言葉に、アマーリエが異論を挟む。

「墓のことなんて、今はどうでもいいじゃない」

「いや…知っておく必要ならある」

「知っておくって…何を?」

 クルトはそれに答えず、剣で土を掘り返し始めた。

 松明に照らし出された埋葬者は、人間の少女だった。

「あぁ…羊飼いの…」

 アマーリエが呟くと、クルトは苦々しげに答えた。

「生贄に出された娘だ。ボードワン…」

「心得た」

 司祭位を持つボードワンはトリスケルを取り出すと、彼の宗派であるアドルフィーナ神へ、羊飼いの娘の魂の救済を願った。

 事の次第は、アマーリエにも理解できた。

 村が最初の襲撃で被害を出さなかったのは、“これ“を交渉したからだ。

 しかし、二度目の襲撃が実行に移され、村人たちは過ちを悟ったのだ。

 もはや生きてはいまい。誰もがそう思っていた。また仮に、この娘が生きていたとしても、それはそれで顔向けができなかっただろう。だが、後悔の念は、皆感じていたのだ。

 せめて亡骸だけでも…。

 胸糞の悪い話だ、とアマーリエは思った。


「移動しましょう」

 アマーリエの言葉に、クルトがすぐに返答した。

「途中、道が分かれていた。塞がっていない道も、まだあるかも知れない。襲撃に気をつけて行くようだが…」

 その言葉を、ハルトマンが遮る。

「待て。くそ…」

 半面血だらけのノイマンは、背後を見て、ひぃと悲鳴をあげて後ずさった。

 いつの間にか、来た道は赤黒い泥によって、覆い隠されていたのだ。

「掻き出して、進むか?」

 ハルトマンが、まるで雪かきでもするか、というノリで語る。

 ノイマンが、被りを振った。

「ま…だろうな。人を殺す泥だ。で、そうなるとどうするのだ、クルト?残る道は…」

 ハルトマンとクルトは、中央に開いた縦穴の淵に並んで、下を覗き込んだ。

「まさに、腹の中…ってわけだな」

 クルトは、自分の松明を穴の中に放り投げた。

 木片が地面に落ちる音が聞こえる。

「意外に、深くない。悪くしても、足首をへし折る程度で済みそうだ」

 アマーリエは、ため息をひとつ着いて、立ち上がった。

「どの道、行くしかない」

「待て、みんなの外套を裂いて、ロープを作ろう。俺とハルトマンの二人で支えるから、順番に降りてくれ」

「二人は、どうするのよ」

 クルトは、ハルトマンと視線を交わしてから、両手を広げた。

「俺たちは、若いからな。飛び降りるさ」

「歳なら、私も変わらない」

 意地を張るノイマンに、ハルトマンが言う。

「これ以上、怪我をされては、こっちが困る。姫を守る戦力が減ってはな」

 手分けをしながら、短剣で外套を割いて繋げる作業を始める。


 作業をすることで、冷静さを取り戻す事ができた。

 ボードワンとノイマンは、手を止めずに語り合い始めた。

「やれ、高価な外套が、台無しだの」

「しかし、なぜ道を塞いだだけで、これ以上襲ってこないのでしょうか」

「ややもすると、墓石に呪いが掛けられているのかも知れぬな」

「蛮族の呪術ですか」

「確証はないが、薄靄のような邪気を感じるで」

「ここは、安全。とは言え…水さえ無いのでは…」

「水の話はするな」

 クルトが釘を刺した。

 やがて即席のロープが完成し、ボードワン、ノイマンに続いて、アマーリエも穴の中に降りた。


 降りた穴は、どうやら横穴のような空間に過ぎず、その先には松明の灯りがまったく届かない、大空洞へと繋がっていた。

「一生出られないような気しか、しない」

 アマーリエの呟きに、ノイマンが生唾を飲み込んだ。

「二人とも、手伝ってはくれまいか」

 ボードワンが、メイスを使って土を掘り始めていた。土と言っても、石灰質の地面はえらく硬い。後から飛び降りる二人のために、少しでも柔らかい着地点を用意しよう、というのだ。

 心遣いの甲斐あってか、クルトとハルトマンは、尻を痛めただけで目立った怪我もなく着地することができた。


 大空洞の中へと進んだアマーリエは、自分がまるで、星のない夜空の中に踏み出したかのような錯覚を覚えた。足元を見れば、そこには滑らかな固い地面があり、沸き起こる不安が、少しだけ解消される。

 土の上に立っていると分かるだけで幾分か落ち着くのだから、つくづく人は、地面の上を歩く定めにあるのだ、改めて知る思いだった。

「姫、前方やや右手、何かあります」

 ハルトマンが、低い声で告げる。

 しかし、何も見えない。

「松明を後ろに下げて…」

 言われるままにすると、少しの時間差をおいて、暗闇の中に、ほのかな光りを感じた。

 弱々しく、見つめると逆に消えてしまうような、霞のような光源。

「足元に気をつけて、地面がありませんぞ」

 躙り寄るように、慎重に近寄った一行は、巨大な地底湖に行き着いた。

 波もなく、淀みもない地底湖の水は、まるで存在していないかのように、はるか奥底までを見通すことが出来た。松明の灯りも、届かない、どれほど深いのかさえ、見当もつかない。

 しかし、一行はそれを目にすることができた。

 遥か奥底にある、紅の光を発する球体の存在を。


「美しい…」

 アマーリエは、呟いた。

 魔性の光に、心を奪われたのではない。

 ただ、単純に、そう感じたのだ。

 それは、心からの、発露だった。

「…大きく…なってないか?」

 クルトが、じりじりと後ずさりする。

「いや、浮上して来ているのかも…」

 ハルトマンが妙に落ち着いた声で答えた。

「嘘だろ…」

 騎士たちは互いに顔を見合わせる。

「足元を見るのだ!」

 ボードワンが注意を呼びかける。

 アマーリエは自分の足元から、赤く光る泥水が透明な地底湖へと流れ込んでいることに気づく。

 背後から、滝のような音が聞こえた。

 降りて来た穴から泥が降り、傾斜した地表を伝って地底湖へと流れ込んでいるのだ。

 地底湖の水は、淵から徐々に、暗い色にと染まっていく…。


 アマーリエは、息を吸うのを忘れて、異なる液体が混ざり合う境界を見つめた。

 水の中から、こちらを見上げる顔がある。

 色を失ったように白く、冷たい肌。

 それは、二人の兄弟の姿だ。

 その顔を、アマーリエはよく覚えている。

 忘れることは、できない。

 自らが、初めて殺めた、二人の少年。


「後ろを見ろ!」

 ノイマンの悲鳴にも似た叫びで、我に戻った。

 大きく息を吸う。

 …しかし、幻影は消えない。

 アマーリエは、視線を引き剥がすようにして、ノイマンを振り返る。

 その光景に、背筋に冷たい水が流れた。

 赤黒く自光する液体が、天井全体から、いく筋もの滝のように落ち始めた。

 それらは滑らかな地表を下るいく筋もの川を成す。

 その量は見る見るうちに増え、赤く光るスコールが洞窟全体を覆ってしまった。

 流れる水量はすでに、足首を隠すほどになっていた。


 いったい、この状況の中で何ができるのだろう。

 運命はすでに、扉を閉ざした。

 赤と黒のまだら色に染まる世界の中で、甲冑を纏ったまま泥濘に溺れて死ぬのだ。


 しかし、赤黒い泥濘は、罠にかかった者たちが窒息死するまで待つ気すらないようだ。

 触手のような水柱が伸び、尖った先端がアマーリエを襲った。

 白い閃光が円を描き、それを二つに割き分ける。

 それを見たハルトマンが、驚愕の声を上げた。

「水を断てるのか!?」

 水の流れに、ほんの一瞬、振動のような波紋が広がる。

 アマーリエは、無心のまま動いた手を見つめ、そして白く輝く刀身に視線を移した。

 アインスクリンゲは「生きろ」と言っているのだろうか…。

 ふと目線を上げると、黒い闇が残る地表を見つけた。そこはまだ、水没していないのだ。

「あそこに、高台がある!移動して!」

 アマーリエは、走りながら叫んだ。

 鍾乳洞の地盤は滑らかで、その上を流れる泥水は量と共に重さを増し、流れに逆らう騎士たちの足を何度もさらい、転倒させた。それでも、互いに手を繋ぎ合い、なんとか水面から3mほど残された岩の上に登り切ることができた。狭い岩の上に、五人の騎士たちは身を寄せ合って座り込む。

「手応えは、どうだ?」

 クルトが、アマーリエに尋ねた。

「手応えって…そんなのないわよ。ただ、水が弾かれたように…きっと、剣の魔力が水を押し除けているだけなんだわ」

 暗闇に紛れ、蔓のようにジワリと、赤黒い泥が岩を登って来ていることに、誰も気が付かない。

「二つに分けても、混じり合えば、すぐに元通り…」

 ハルトマンが言いかけた時、ノイマンの身体が岩から滑り落ちた。

 失った方の視界から襲われたノイマンには、悲鳴をあげる時間すらなかった。

「ノイマン!」

 ボードワンが叫んだ時には、すでに彼の姿はどこにも無かった。

「立て!水かさが上がっている!」

 クルトの言葉に、みな立ち上がり、背中を合わせて手を繋ぎあった。

 一体、どれほどの量の泥水が、この空間に流れ込んでいるのだろう。

 地底湖の姿は消え失せ、遥か彼方まで、赤黒く光る水面が続いている。

「見ろ…奴は、這い出して来たぞ…」

 水流の先に、一際強く光る水面がある。

 地底湖の底で見た、あの球体が、そこにあるのだろう。

 光は、近づいている…。

 アマーリエが最初に転倒した場所あたり、球体は流れに逆らいながら、ゆっくりと…。

 近づく。

 騎士たちは頭上を見渡すが、ただ闇があるのみ、掴めそうな鍾乳石など、どこにも見当たらない。

 互いの踵がぶつかり合う。

 死の水は、いよいよつま先まで迫った。


 アマーリエは、小さな青い光が、天井から落下するのを目撃した。

 ボトン、と着水したと思った次の瞬間、赤い泥水は円形に押し除けられ、そこに黒い穴を生んだ。いや、押し除けた、というよりも、泥水が退いたかのように見えた。

 何か、異変が起きている。

 アマーエリは、後ろ手に繋いだ手を動かし、皆の注意を促す。

 騎士たちの視線が、黒い穴に集中する…。


 しばしの間を置いてから、再び青い小さな光が、穴の中から飛び出した。

 それは、小瓶だった。

 蓋の開いた小瓶が、青く光る液体を撒き散らしながら、騎士たちの方へと飛来したのだ。

 目を見張る変化があった。

 ぐわり。

 水が動き、鍾乳洞の地面が現れる。赤く光る水が壁となり、小瓶が通過した軌跡をなぞって、道が生まれたのだ。

 赤い光に照らされて、四つの人影が走る。

 ロロ=ノア、ミュラー、オランジェ、そしてレオノールの姿だった。

「アマーリエ!」

 ミュラーが、渾身の力で青い光を投じる。

 キラキラと小さな、しかし強い光を発するそれは、放物状の軌跡を描きながら、騎士たちの頭上へと宙を飛ぶ。

 …だが、着地点はずれ、岩から少し離れた場所へと…。


「心得た!」

 そう叫ぶが早いか、ハルトマンは岩から跳んだ。

「何を!?」

 アマーリエの悲鳴が、鍾乳洞にこだまする。

 空中で小瓶を掴んだハルトマンは、赤い泥水の中に落下し、そのまま地底湖の方へと流される。甲冑を着た彼は、身体を横に倒して泳ぎ、しばらく水面から顔を出していたが、やがて力尽きたのか、徐々に沈んでゆき、やがて姿を消した。


 長い、時間が過ぎた。

 ロロ=ノアたちは、最後の小瓶を使い果たし、騎士たちのいる岩に飛びつく直前に、水に呑まれた。

 アマーリエは、手にしたアインスクリンゲを逆手に持ち直し、その柄を岩に添えた。

 ほんのり白く光る切先が、赤い光に照らされた顎下に当たる。

 自害しようとする彼女に、誰も気が付かない。

 アマーリエは、瞼を閉じた。


「あっ!」

 クルトが叫んだ。

 再び開かれたアマーリエの瞳は、静まり返った暗闇を映す。

 濁流の音は消え、あるのは静寂と、闇。

 あたりを満たしていた赤い光さえも、今は失せていた。

 泥水は黒い固形物と化し、次に塵となって崩れ始める。

 その塵の堆積の中に、巨大な赤く光る球体が姿を現した。

 脈打つ球体の表面に、一筋の線が走る。

 それは次に十字の線となり、やがて16つに分かれ、256つに分裂し、次には無数の細かい断片と化した後、バラバラに崩れ落ちた。


 レオノールが、光の精霊を呼び出し、洞窟を照らす。

 黒い塵の中から、ロロ=ノアも、ミュラーも、オランジェも立ち上がった。

 アマーリエは、岩を滑り降りて、黒い小石の山と化した、球体のあった場所へと走った。

 騎士たちも、それに続いた。

 小山を登り、ひざまづいて小石をかき分ける。

 ハルトマンの身体が、姿を現した。

 その手には、割れた小瓶が握られていた。

「ハルトマン…」

 後ろにまとめられた長髪には、少し白いものが混じっている。アマーリエはガントレットを投げ捨て、その前髪を整えると、両膝の上に抱き寄せた。

 顔を手で包み込み、ぎゅっと抱く。

 丸められたアマーリエの背が、ひくひくと動き、甲冑がわずかに音を立てた。


 …ひゅっ。

 刹那、ハルトマンの口から赤い泥水が飛び出し、彼は激しく咳き込んだ。

「…ッ」

 アマーリエは、口を大きく開けて固まる。

 ひとしきり咳き込んだハルトマンは、口元を拭いながら、眼前の彼女に対し、開口一番こう言った。

「手が、臭いぞ…ひどい臭いだ」

 微笑みながら、アマーリエはハルトマンの顔を鷲掴みにして抑え込んだ。



「赤糸病という病は、古代からこの地方に巣食っていたようです」

 洞窟から脱出するには、先遣隊の戻りが遅いことに気を焼いた後続部隊が、遺跡を最深部まで探索しきるまで待たねばならなかった。九死に一生を得たアマーリエたちは、野営地に戻り、傷の手当てを受けながら、ロロ=ノアとミュラーの調査報告に耳を傾ける。

「この地を調査した古代の魔術師たちは、その元凶が未知の魔物による捕食行為にあると突き止めます。しかし、退治に向かった魔術師たちは、多くの犠牲を出してしまいました。魔物を一旦、地下深くに封印し、弱点を調査することにしたようです」

「それが、あの青い薬ね」

 ミュラーが引き継ぐ。

「でも、大量生産にかかる前に、調査は打ち切られてしまう。あの本をもっと詳しく調べてみないと分からないけど、恐らく、返り討ちにあったか、それよりも喫緊に優先すべき、重大な事件でも起きたのだろうと思う」

「本はどうしたの?」

「あの穴にたどり着くまでに、散々に襲われまくって、どこかで無くしたよ。探せば、出て来るかも」

「戻りたければ、ご自由に…」

「古代の研究装置も壊されちゃったし、しばらくは、入りたくない気分だ」

 結局、ノイマンは死体で発見され、騎士の戦死者は五名に及んだ。

 彼らの従者、馬丁たち十名ばかりが、主人を失い、別の役割を担わされ騎士団に同行するのか、辺境の地で単身離脱するかの選択を迫られることになる。

 アマーリエの心は、重かった。


 しかし、野営地を引き上げ、村に戻った騎士団は、割れんばかりの喝采を受けることになる。

 アマーリエたちは結果として、村を脅して犠牲を強いていた蛮族たちを掃討し、さらには風土病として恐れられ続けていた“赤糸病“の元凶を退治したのだ。実はどうあれ、住民たちからは、そう受け止められた。

 アマーリエは、今回の勲一等をハルトマンに贈り、村長に交渉して、この村の名を“ハルトニア“とした。もちろん、彼の新たな領地という意味である。

 新領主ハルトマンは、領民から従軍希望者を募った。

 その呼びかけに応じた、血気盛んな若者たち10名余が、騎士団の随伴歩兵として採用された。その中でもイーサン・ウォーカーと名乗る若者は、体躯も良く、自己流にしても剣技を心得え、何より素直で勤勉そうな逸材だった。


 こうして、アマーリエたちの辺境征覇は、その第一歩を切ったのである。

 やがて、クラーレンシュロス伯の騎士団は、“辺境騎士団“と呼ばれるようになり、アマーリエの名は、彼女の守護神である戦の神アドルフィーナと、手にする魔剣の名と共に広がり、“剣の巫女“または“姫騎士“とも呼ばれ始めることになる。

 故郷を戦乱で追われてから、まだ一週間と過ぎていない、彼女の新たな船出であった。

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