第6話 郷愁
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それから二人は、そのまま操舵室で過ごした。
ミネルヴァは少ししてホロライトを消した。姿は見えなくなったものの、何かしらの手段で室内の様子は把握しているのだろうとアスカは思った。
マルスとアスカの間に、特段会話があったわけではない。なんとなくぼうっと起きていただけ、といった感じだった。
結局、コーヒーに砂糖とミルクを多めに入れたアスカは、それを手にゆっくりと飲んで過ごした。
操舵室前方のモニター越しに、外がだんだんと明るくなってくる。
宵闇が太陽の力にひれ伏し、その色素を薄めていく様は、えも言われぬ光景だった。
やはり地球にいた頃よりは小さく、そしてまばゆさも控えめな太陽がーー火星は地球よりも遠いのだから理屈の上ではそのはずだが、アスカは目の錯覚かもしれないな、とぼんやり思ったーー顔を出すとともに、空を赤く染める。
その朝焼けに、アスカは少しだけ涙ぐんでしまう。
「……」
ああ、懐かしいな、と彼女は思う。
そうだ。朝焼けは赤かったな、と。
彼女がいた当時、火星の大気は〇.〇〇七気圧しかなかった。地球であれば波長の長い黄色や赤色が散乱して朝焼けが赤くなるのだが、当時の火星では気圧の低さと大気中のちりにより、朝焼けは青くなっていたのだ。
数年ぶりの赤い朝焼け。
数カ月ぶりのコーヒー。
アスカの知る懐かしいそれらは、しかしそのどちらもが懐かしさと同時に、ほど遠い姿に変わってもいた。
火星の空と、大豆の代用コーヒーという形で。
そんな感情に浸りながらアスカがモニターを眺めていると、背後で居室のスライドドアが開く音がかすかに聞こえてくる。
「クラリス。ロスの前にザ・レッドのところに寄るぞ」
操舵室に寝間着姿のクラリスが現れたところで、マルスが彼女へとそう声をかける。
「んー……」
寝ぼけ眼のクラリスは、まぶたをこすりながらふらふらとマルスのもとへ。そしてそのまま彼に抱きついてしまう。
「眠いんだろ。まだ寝てていーのに」
そう言いながら、マルスはクラリスのひたいに軽くキスをする。
それは気取ったものではなかった。親密だからこそではあるだろうけれど、それでも普段どおりの自然な仕草だった。
それに対するクラリスも、心底幸せそうな表情を浮かべてマルスへの抱擁をやめようとしなかった。むしろ、しっかりと抱きしめているようにも見える。
気まずい、とまでは流石に思わなかったが、それでもアスカは目の前の親密なやり取りにこっちが気恥ずかしい、と思わずにはいられなかった。
ついさっき、二人のやり取りを盗み聞きしようとしていたことなどアスカの記憶には残っていなかった。
と、不意にマルスとアスカの視線が合う。
「あ、しまった」
「んー?」
まじまじと見てしまっていたことに、アスカはあわてて視線をそらす。すると、手元のマグカップに音もなくミネルヴァが現れると、苦笑しながらやれやれ、というジェスチャーをする。
同時にミネルヴァの横にコミックみたいな吹き出しが現れ「見せつけられるこっちの気持ちも考えて欲しいよね」という文章が浮かび上がった。
声を出してクラリスを刺激したくなかったのだろう。
ミネルヴァのホロライトの活用手法に驚くとともに、そんなミネルヴァの優しい配慮にアスカは思わず微笑んでしまう。
「クラリス」
マルスはクラリスを起こそうとほほをむにむにとつねる。
「んー」
「起きろって」
「んーん」
声のトーンだけで嫌がるクラリスに、マルスは苦笑してしまう。
「クラリス。バッチリ見られてるぞ」
「ふぇ……?」
マルスの言葉に不思議そうな声を上げるクラリス。マルスは彼女の肩をトントンと叩き、それから後部座席のアスカを指差す。
クラリスはゆっくりと振り返り、アスカを見る。
その動作の前にミネルヴァはしれっと姿を消す。アスカが内心で悪態をついたのは言うまでもない。
「……」
「……?」
アスカから見たクラリスは、明らかに目の焦点が合っていなかった。
が、やがて目の焦点が合い始め、そこに誰かがーーアスカがーーいることをやっと認識する。
「ひ……」
それまで、アルテミス車内にはマルスとクラリス以外にはミネルヴァしかいなかったのだ。寝起きで二人以外にアスカがいるということを忘れていたとしても、仕方のないことだろう。……本人がどう感じるかはともかく。
瞬間沸騰したクラリスは、さっきまで寝ぼけていたのが嘘みたいに顔を赤くして悲鳴を上げた。
「ひゃああああ!」
そのままものすごいスピードでクラリスは居室へと消えていった。
「くっくっくっくっ……」
その様子に、マルスが心底こらえきれないといった様子で笑みをこぼす。
アスカとしては呆れるしかない。
「あんな可愛い子をからかって……嫌われるわよ」
『そーだよ。クラリスをいじめるのはあたしも許せないよ。お兄ちゃんのこと見損なった』
「別にいじめてはねーだろ。これくらいで嫌われたりはしねーって」
余裕の表情でそう言って、マルスはクラリスの消えていった方へ向き直る。
「クラリス、悪かったよ」
「マルスっ! なんでアスカがいること教えてくれなかったの!」
ほとんど絶叫に近いクラリスの言葉に、マルスは頭をかく。
「そんなん伝わる状態じゃなかっただろ。起こそうとしても起きるの嫌がってたじゃねーか」
「だけど!」
「俺もアスカのこと頭から抜けてたんだよ。それに、ちょっと見られるくらい平気だろ。別にやましいことしてるわけじゃない」
「やましくなくても恥ずかしいでしょ!」
その言い合いもアスカには丸聞こえなのだが、なんとか聞こえないふりをした。
「それに、絶対私の反応を面白がってたでしょ」
「まあ……。気づいたときのクラリスのリアクションが面白かったのは確かだけどな……」
正直にそう言ってしまうマルスに、ミネルヴァは再び姿を現して頭を抱える。
『お兄ちゃん……』
「マルス……」
「……」
「ああ、いや。クラリス……」
「……」
長い沈黙のあと、クラリスは冷徹に告げる。
「……。マルスのそーゆーとこ、嫌い」
「うぐ」
クラリスの言葉に、流石のマルスも顔が引きつる。
「ほらね」
『あーあ……』
アスカとミネルヴァの呆れ顔に、流石のマルスも立ち上がる。
『ちゃんと仲直りしてよね、お兄ちゃん』
マルスは余計なお世話だと言わんばかりに手を振って、クラリスのいる居室へと入っていった。
アスカはまだ彼らと出会って一日二日しか経っていない。しかし、なんだかんだ言ってもマルスとクラリスの二人が深い絆で結ばれているのは明白で、邪推するまでもなかった。
そんな二人の関係に、アスカは羨ましいな、と思いながらもミネルヴァと視線を合わせ、お互いに苦笑し合った。
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