第5話 コーヒー
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がたん、と大きな揺れを感じて、アスカは目を覚ました。
アスカが寝ていたのは、アルテミスの操舵室の後部座席だった。
アルテミスは最後部の倉庫が一番広いという話だが、居住スペースとしては一番前方の操舵室が最も広かった。ちょっとしたテーブルや簡易的ながら調理設備も整っており、住宅で考えるならさしずめリビングダイニングといったところか。
操舵室から奥に三メートルほどの通路があり、外部への出入口となるハッチ、トイレ、居室が二つ、そして一番奥が倉庫になっている。
「……」
ブランケットを脇にやって、まぶたをこする。いまは何時だろうか、と正面のモニターを見ると、アルテミスの前方の光景が表示されていた。自分がISSⅡーー国際宇宙ステーション二号機ーーにいたときとそん色ないくらいの満天の星空と、真っ暗な荒野が見える。首を伸ばしてモニター下のコンソールパネルを見ると、どうやら早朝の四時頃らしい。
とはいえ、火星の一日は地球の一日より四十分ほど長い。この時差はどう計算するようになっているのか、アスカはまだ知らなかった。
アルテミスは時おり揺れていて、ほとんど音がないにも関わらず走り続けていることを教えてくれている。
昼間、クラリスが語ってくれた話を信じるならば、マルスとクラリスが寝ていても、ミネルヴァが運転できるようになっているそうだ。
ミネルヴァか……とアスカはぼんやり考える。
マルスをお兄ちゃんと呼んでいたし、二人もマルスの妹として接していた。
けれど、彼女はやはり人工知能なのだろう。アスカの父が師事した教授もやはりシュタイナーというセカンドネームだったし、アスカが父の研究室にいた頃は、そのシュタイナー教授は人工知能の研究を始めていたはずだ。同じシュタイナーと名乗ったマルスという青年があのシュタイナー教授と関連があるのかどうかはわからないが、それでも人工知能を手元に置いていても不思議はないように思える。
あの遺跡で、一体何が起きたのだろう、とアスカはひとりごちる。
遺跡の中にあった白いモノリス。
あれに触れた途端、紅と蒼の光の奔流に押し流された。
その光の奔流に押し流された先で、何者かと話をしたような気もする。
光り輝く天蓋のたもとで。
男だった……とは思うが、アスカには確信が持てない。
若年だったのか、青年だったのか、老年だったのか……それすらもはっきりとしない。……そもそも、本当に男だっただろうか?
「はぁ……」
アスカはため息をつくしかなかった。
気づけばテラフォーミングが行われている火星の大地にいたのだ。自分のいた時代では、火星のテラフォーミングなど、まだ理論上の仮説に過ぎなかった。一体どれほどの時を通り過ぎてしまったのか、マルスとクラリスに確認するのが恐ろしい。
アスカ自身でさえ、自らに起きたこの超常現象を冷静に受け止めきれていない。マルスとクラリスの二人はーー指名手配されている、と彼らが言う割にはーー善良な人物のようだが、自らに起きた超常現象を話したところで、理解してはくれないだろう。
他人から聞かされていたら、自分でも作り話だと思ってしまうだろうな、とアスカも思ってしまう。
どうすれば元の場所に、元の時代に戻ることができるのだろう、とアスカは自分なりに考えてみるものの、答えが出るはずもない。
やはり、あの遺跡に戻ってみるしかないのだろうか。だが、ミネルヴァによればあのシドニア平原は百五十年前に水没しているらしい。テラフォーミングに伴う温暖化により、北極側の氷が溶けたのだろう。火星は北半球のほとんどが平均標高を下回っている。北極の氷がどれほどの体積を擁していたのかは分からないが、シドニア平原が水没したというのなら、北半球はすべて海と化しているはずだ。そうでなければ理屈に合わない。
……そして、シドニアが水没したというミネルヴァの発言が、自らが時を飛んだのかもしれないという最悪の想定を、確信に変えてしまったのだ。
普通に考えて、時を飛ぶーータイムスリップなど、できるわけが……起こりうるわけがない。どれほどありえない仮定だったとしても、自身を騙すためのタチの悪いドッキリだと考えた方が、あり得る話だ。
しかし、火星の重力のままで大気の組成を変え、テラフォーミングが行われた場合に起こりうる事態を、彼らは当たり前の過去の出来事として語った。
演技には思えないし、そもそもそこまで大掛かりなことをしてまでアスカを騙さなければいけない理由もない。
……となると、やはり自分が時を飛んで……未来へとタイムスリップしたと考えた方が理屈に合う。
……いや、アスカが学生の頃に、葉巻教授は父の論文を元に実験を行い、実際に三年の時を飛んだ。タイムスリップは不可能ではない。実証された物理現象だ。
だけど、そんなこと受け入れられるだろうか?
葉巻教授は自らの天使の力と、綿密な計算とシミュレーション結果を踏まえて実証実験を行った。対してアスカは、人類のものとは思えない遺跡の力に巻き込まれたのだ。同様の事象だと言うには無理があるのではないだろうか。
「どうしたら、いいんだろうな……」
完全に覚醒していたわけではない。だからこそぼんやりした意識の中で、途方に暮れた声音になってしまっていた。
口にしてみても、なにか新しい気づきがあるわけもない。
「……」
そうやってアスカが堂々巡りの思考を繰り広げていると、誰かの話し声が聞こえてきた。
低い声音からするとクラリスではないし、スピーカーからでもない。ということは、マルスの声だ。
「……?」
まさかクラリスとの睦言ではないだろう。いや……ありえないことではないだろうけれど。
そう思いながらも、アスカは自然と耳を澄ませてしまう。
「……」
何を言っているのかまではわからないが、それでもアスカの知る普段のマルスの声音とは全く違う、慈愛に満ちた柔らかい声音だということはアスカにもわかった。
アスカは音を立てないように立ち上がり、静かにマルスの声がする方へ近づく。
「……」
声の元は、二つある居室の片側のようだった。
自分でも下卑た好奇心だとは分かっていた。だが、マルスの普段とは違う声音に、アスカは興味が惹かれてしまうのを止められなかった。
アスカは扉に耳を当てて、内側の様子を伺ってしまう。
「……」
それでも、マルスの囁くような声音は、アスカには内容までは届かない。そして、マルスの声に応える声もまた、アスカには聞こえなかった。
だがそれでも、ひどく優しげな声音だということだけはアスカにもわかった。
「……アスカ、起きてるのか?」
「……!」
急に部屋内から声をかけられて、アスカは慌てて扉から離れる。
そのまま固まっていたアスカの目の前で、扉が静かに開く。
電気の落ちた暗い室内に、静かにマルスが佇んでいた。
奥は見渡せなかった。マルスが部屋から出てきて、すぐに扉を閉じたからだ。
「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりなんて……」
「……」
やれやれ、なんて言い出しそうな態度で首を横に振ると、マルスは操舵室へと向かう。アスカは居心地の悪さを感じながらもマルスの後を追うしかなかった。
「あの部屋、俺とクラリスの許可なく入るなよ」
淡々とした口調でマルスが告げる。その口ぶりからすると、アスカに対して怒っているわけではなさそうだ。
アスカは少しだけホッとする。
あの部屋にはクラリスもいたのだろうな、とアスカは思った。
「二人のベットルームってわけね。悪かったわ」
冗談めかして言うアスカにも、マルスは苦笑するだけだった。
「まあ……似たようなもんだな。確かに、ベッドルームであることには変わりねぇし」
マルスはそれ以上説明する気はないようで、操舵室の後部座席に座り、テーブルに備え付けられている機械の電源を入れた。
「アスカ。コーヒーいるか?」
「それじゃあ……いただきます」
アスカの返答に、マルスはマグカップを二つ出してセットする。
やがて抽出された黒い液体がマグカップに注ぎ込まれると、アスカもよく知る芳香が操舵室内を満たした。
コーヒーなんて久しぶりだな、とアスカは思ってしまう。
自分たちのいた基地にはもちろんあったけれど、それでも嗜好品は貴重だったし、なによりカフェインを摂取するなんて身体に悪い、と忌避され始めていた時代だった。基地から遺跡まで、五日間のローバーでの長距離移動ではコーヒーを持ってくることもできなかった。
地上にいた頃には当たり前のように飲んでいたコーヒーは、ISSⅡ、月‐火星間往還船オービターⅦ、火星降下機アレスⅣ、火星探査基地ハイヴⅢ、ローバーと、地球から距離を取れば取るほどに貴重なものへと変わっていった。
それから火星から離れたわけではないはずだが、それよりももっととんでもない状況に陥っている。しかしそれでも、こうやってコーヒーが飲めるなんて、まるで平凡な毎日がすぐ近くにあるみたいではないか。
「ほらよ」
「ありがとう」
「ミルクと砂糖はそこの箱ん中だ」
マルスが自分のマグカップをセットしながら、機械の横にある二種類の粉末が入った箱を指す。
「このままで平気……なにこれ」
ひと口コーヒーをすすり……アスカは思わずそんなことをつぶやいた。
「なにこれって、ただのコーヒーだが」
「これがコーヒー?」
「コーヒーじゃなかったらなんだってんだよ」
「それは……」
マルスは憮然とするが、アスカはアスカで困惑気味にマグカップの中身を見る。
コーヒーとはもっとこう、苦味の中にも深みや味わいを感じるものではなかったか。これでは、ただの苦い黒水だ。
『……コーヒーっていっても、代用品だからねぇ』
不意にマグカップの横にミネルヴァが現れ、マグカップの中身をのぞき込む。ホログラフィックライトによって表示されているだけだとわかっていても、身長三十センチメートルの彼女は、アスカにはおとぎ話の妖精かなにかに見えて仕方がなかった。
「代用品ですって?」
『うん。地球の〈崩壊〉でいろんな動植物が失われちゃったからね。本物のコーヒー豆は無くなっちゃったの。このコーヒーは確か……大豆に香り付けして代用してるんじゃなかったかなぁ』
マグカップのふちで肘をつくミネルヴァは、なんてことなさそうに言う。
その言葉に驚いたのはアスカだ。
「地球の〈崩壊〉ですって?」
「二百……三十年くらいか? それくらい前に起きた最終戦争で、地球は人類がぶっ壊したんだよ」
「そんな……」
マルスの言葉に、アスカは顔を青くする。
「当時、人類が生き残ったのは初期入植者による移住計画が進行中だった火星と、月基地のプラント群だけだったらしい。だが月基地は地球からの支援物資無しには生存できる場所じゃなかった。月にいた奴らも後期入植者として火星に移住してきて……結果、いま人類が住める場所は火星しか残ってないってわけだ。火星のテラフォーミングはまだ終わってねーらしーけどな」
ごく当たり前のことだ、という風にそう言った後、マルスは怪訝そうな顔をアスカへと向ける。
「本当になにも知らねーんだな。よくいままで生きてきたもんだ」
『もう、お兄ちゃんってば!』
「……。世間知らずで、悪かったわね」
なんとかそれだけつぶやいて、アスカは頭を抱えてうつむく。
地球の〈崩壊〉。
アスカは戦慄する。
それは、母が望んでいたことだ。
私が受け入れられず、拒絶した母の望みは……叶ったとでもいうのか?
そんなアスカの戦慄など知りもしないマルスとミネルヴァは、顔を見合わせてお互いに首を傾げる。
アスカが何にそんなに衝撃を受けたのか、二人には全くわからなかったからだ。
「まあ……なにかしら事情はあるだろうけどよ。そこまで気に病まなくても……ちょっと待て。おい、まさかIDも無いなんて言わないよな?」
ハッとして尋ねるマルスに、アスカは意味がわからない様子だった。
「ID?」
「……やっぱりか。……ミネルヴァ」
頭を抱えるマルスに、ふわりと浮かび上がってコンソールパネルへと向かうミネルヴァ。
『はあーい。ロサンゼルスドームから、ザ・レッドのところに変更でいいんだよね?』
「ああ、頼む。……早く気づいて良かったな。そこまで遠回りってわけでもねーたろ」
ミネルヴァが操作したのだろう。緩やかな慣性がかかり、アルテミスがルートを変えて曲がっていることを伝えてくる。
「あの……一体なにが?」
「はあ……、あのな。各地のドームは火星連邦の管理下にあって、出入りには体内のIDチップでの認証が必須になる。このままなら、ロサンゼルスドームに入る前にあんたにはアルテミスから降りてもらわなきゃならない。IDの無い人間を中に入れようとしたことがバレたら、俺たちが偽装IDを使ってることもバレる」
マルスの言葉を、アスカは頭の中で反すうする。
「その……じゃあ、ドームの外で暮らしてる人は他にいないの?」
マルスは顔をしかめる。
「いなくはねーけど、やめとけ」
「どうして?」
「テラフォーミングは完了してないって言ったろ。短期間ならまだしも、外はまだ人体に有害な電磁波が降り注いでる。火星連邦を拒絶してドームの外で暮らしてる奴らのことをアウトサイダーだなんていうが、その姿を見たら同じ生活をしようなんて思わねーよ。ガリガリにやせ細って、肌はいたる所が壊死したり腫瘍ができたりして変質してる。……控えめに言ったって亡者だぜ」
「……」
『あたしも……アスカさんにはそんなふうになって欲しくないな。確かに、テラフォーミングで極冠の氷が溶けて、火星の北半球には海もあるけど、その水を飲用可能にするのにだってかなり高度なろ過設備が必要だし、火星の地表でちゃんと育つ作物は……まだないんだ』
「どうして?」
そう尋ねてみて、確かに周囲の景色はずっと荒野のままで植物を見ていないな、とアスカは気づく。
『……結局の所、土地が痩せちゃってるのはすぐにはどうにもならないみたい。ずっと生命なんていない星だったわけで、植物が育つのに必要な栄養素が火星の大地には足りなさすぎるって話だったと思うよ。火星連邦の主導でそういうのを克服できる植物を育てる実験も進めてるみたいだけど、まだ大きな成果を上げたって話は聞いたことないかな』
「そう……」
ミネルヴァがコンソールパネルからアスカの目の前まで飛んで戻ってきて、ぱちんと手を合わせる。
『でも大丈夫! ザ・レッドなら偽装IDも結構簡単に作ってくれるから、なんとかなるよ』
「だから、ロサンゼルスドームに行くのはその後だな」
マルスは肩をすくめてそう言った。
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