アフロディーテの涙〜プロローグ

その女性を見かけたのは、K大のカフェテラスだった。


年齢的にも、恐らく当校の学生だろう。

花柄のワンピースに、目深まぶかに被った麦わら帽子──

目元は見えないが、よく通った鼻筋とつぼみのような唇が、かなりの美人である事を証明している。

透き通るような白い手は、カップに触れたまま止まっていた。

一見すると、物想いにふけっているようにも見えるが、どうも違うようだ。


私は、やや離れた席からその様子を眺めていた。


別に、見惚みとれていた訳では無い。

かれこれ二十分近くも、姿事に興味を持ったのだ。

ピクリとも動かぬ体は、呼吸をしているかどうかも怪しいほどだ。

しかも、私が気付いてから一度も、飲み物を口に運んでいない。


ただ、じっと……


じっと、静止したままだ。


談笑の飛び交う店内で、彼女だけがまるで切り抜かれたポスターのようだった。


「統合失調症……或いは、【鉛様麻痺えんようまひ】か?」


私はポツリと呟いた。


【鉛様麻痺】は、非定型うつ病患者特有の症状だ。

過度なストレスにより、身体に鉛がのしかかったように動かなくなる。

しかも突然発症するため、はたから見ると急に動きが止まったように見えるのだ。

何やら深刻そうな様子からも、可能性が無くはない。


「何でもかんでも、精神疾患と結び付けるのは不謹慎よ!ポー」


この場にクイーンがいたら、そう言って眉をしかめるに違いない。

だが、身に付いた癖は今更どうしようもない。

私は肩をすくめ、コーヒーに手を伸ばした。


再び視線を戻すと、唐突に女性の体が動いた。

組んでいた脚をほどき、体重など無いかのようにフワリと立ち上がったのだ。

小さなショルダーバッグを肩に掛け、席を離れて歩き出す。

どうやら退店するらしい。

私の前を横切る際、帽子に隠れた部分が一瞬垣間見えた。


長いまつ毛が印象的な、黒く大きな瞳──


それは、想定通りの美麗で魅惑的なものだった。

健康な成人男性なら、こぞって生唾を飲み込んだに違いない。


だが……私は、全く別の事に衝撃を受けたのだった。


口元に運んだカップが、思わず途中で止まってしまう。

同時に、形容し難い戦慄が背筋を貫いた。

私はその女性の後ろ姿を、見えなくなるまでじっと見つめ続けた。


なぜなら……


まるでガラス玉のようなその瞳孔が、のそれとあまりに酷似していたからだ。

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