ポセイドンの槍〜その11
庶務課に行くと、牧尾女史一人だった。
上地は、まだ戻っていないようだ。
牧尾女史は、我々に気付くとニッコリ微笑んだ。
まるで、来る事が分かっていたかのような素振りだ。
「すみません。今回のレイニーマウスも、こちらに保管されていると聞いたのですが……見せて頂く事は可能でしょうか?」
私は頭を下げながら、丁寧に頼んだ。
牧尾女史は、じっと私の顔を見つめていたが、やがて立ち上がって先導した。
向かったのは、この間と同じく奥の書庫だ。
乱積みされた書類ケースの隣りに、小さな段ボール箱が二つ置かれている。
中を覗くと、それぞれにレイニーマウスが収まっていた。
「ありがとうございます」
私が礼を述べると、牧尾女史は笑みを浮かべたまま、何も言わず部屋から出て行った。
意味深な態度が気になったが、私は気を取り直して二体のレイニーマウスを確認した。
片方には頭部に血のりがあり、もう片方には無い。
予想通り、二体は全く別モノだった。
「誰か知らないけど、新しいレイニーマウスをわざわざ買って張り付けたのね」
血のりの無い方を箱から取り出すと、クイーンはウンザリしたように言った。
「別におかしな点は無いように思うけど」
そう言って、彼女はソレを私に手渡した。
ペレットのザラついた感触が、ぬいぐるみの表皮から手に伝わる。
クイーンの言った通り、特に変わった所は無い。
姿形といい、デザインといい、そして……
「……!?」
突然、私の全身に衝撃が走った。
私はそのレイニーマウスをドイルに放り投げると、もう一体のぬいぐるみを引っ掴んだ。
そのまま時の経つのも忘れ、私はソレを睨み続けた。
何かが、おかしい……
何かが、変だ……
『ポセイドンの槍』に張り付いたコイツを見た時から感じていた違和感──
あれは何だっただろう?
思い出せ!
ここ数日の出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
謎掛けされたメモ書き──
家に引きこもり状態の朝比奈恵──
その友人である柏木千鶴に届いた手紙──
レイニーマウスを抱いた黒い影──
秘密を抱えた上地典一と挙動不審な牧尾女史──
二体目のレイニーマウスと赤い噴水──
【異常心理学研究会】宛のメモ書き──
【シャーデンフロイデ症候群】──
そして
【ポセイドンの槍】──
浮かんでは消える記憶の断片から、やがて琴線に触れるあるものが見つかる。
そうだ!
それなら、合理的説明がつく。
心中に渦巻く混沌とした疑惑の糸が、まるで
刹那の瞑想の後、現実世界に戻った私は、大きく息を吐き出した。
深刻なその表情に、メンバー全員が思わず息を呑む。
「どうやら、我々は……いや、私は……とんでもない間違いを犯していたようだ」
そう呟くと、私は静かに室内を闊歩した。
これから何をすべきか。
最善策を模索して、更なる熟考を重ねる。
皆、声をかける事無く、じっとその様子を眺めていた。
この状態の私に話しかけても無駄な事を、熟知しているからだ。
どのくらい経ったろう……
顔を上げた私の目には、今までに無い輝きがあった。
「ポー……」
不安そうな声で、クイーンが口を開く。
私は大きく頷いて言った。
「クイーン。柏木千鶴に連絡してくれ……今すぐ、朝比奈恵のアパートに行く必要がある」
************
朝比奈恵のアパートは、閑静な住宅街の外れにあった。
最寄りの駅で柏木千鶴と待ち合わせした我々は、そのまま徒歩で向かった。
「彼女の部屋は二階よ」
そう言って、千鶴は簡素な造りの建物を指差した。
「でも本当なの?恵の身が危ないって!」
困惑の表情で言い放つ千鶴。
私は黙って頷いた。
千鶴の顔がやや青ざめるが、それ以上は追求せず後に従った。
二階に上がり、『朝比奈』と書かれた表札の前に立つ。
全員をぐるりと見回した後、私はインターホンに手をかけた。
『帰って!』
インターホン越しに、若い女性が応答する。
千鶴に目を向けると、首を振って肯定した。
どうやら、朝比奈恵の声で間違いないようだ。
「朝比奈さん!K大の者です!お話しがあります」
今度は名前を呼びながら、ドアをノックしてみる。
返答は無い。
再び、インターホンを押す。
『帰って!』
また拒否の返答が返ってくる。
私は、背後に立つクリスに目で合図を送った。
少女は頷くと、ドアの前に
「シンプルなシリンダー錠です」
そう言って、肩に掛けたポシェットから何やら取り出した。
先の曲がった耳かきのような器具だ。
それを鍵穴に差し込み、小刻みに動かし始める。
「ちょっ!アナタ……一体何を!?」
「く、クリちゃん!……そんな事しちゃ!?」
驚いた千鶴とドイルが、揃って声を上げる。
「私が頼んだんだ」
私は、二人を手で制して言った。
真剣なその眼差しに、両名とも思わず口をつぐむ。
程なく、鍵穴からカチッという音がした。
「開きました」
そう言って、クリスが立ち上がる。
「すごい……一体、どこでそんなワザを覚えたんだい?」
目を丸くして、尋ねるドイル。
手品を鑑賞した観客のような顔をしている。
「プリント基板の【はんだ付け】をしているうちに、自然と身に付いて……」
「いや、無い無い!おかしいだろ、それ……」
本気とも冗談とも分からぬその返答に、ドイルがすかさずツッコむ。
クリスはピタっと口を閉ざすと、さっさと後ろに下がってしまった。
「……さて、入るか」
私は何事も無かったように、ドアノブに手をかけた。
「ちょっと待って……中には恵がいるのよ!許可無しに勝手に入ったりしたら……」
「それなら、心配はいらない」
慌てふためく千鶴の忠告を受け流し、私は静かにドアを開けた。
全員に緊張が走る。
中は薄暗かった。
「こんにちは……恵?」
私と並んで入り口に立った千鶴が声をかける。
「恵、いるの?……私よ……千鶴よ」
返事は無い。
誰かの息を呑む音が聞こえた。
「失礼します」
一応断りを入れ、私は靴を脱いで上がった。
そのまま、慎重に奥に進む。
やはり誰もいない……
いやそれどころか、生活している気配すら無かった。
台所は使った形跡が無く、ベッドも乱れていない。
ゴミ箱も、キレイなままだ。
「……これって!?」
千鶴が、両手で口を押さえ絶句する。
「だって、さっき……インターホンで、返事が……」
信じられないといった顔で、あたりを見回す千鶴。
「何これ!?朝比奈さんは、どこに行ったの?」
別の部屋を確認していたクイーンも、狐につままれたように駆け寄って来る。
「ここの住人は……今は、もういない」
「えっ?じゃあ……さっきの声は?」
今度は、ドイルが声を上げる。
その時クリスが、玄関からひょっこり姿を見せる。
「どうだ、クリス。仕組みは分かったか?」
私の問いに、クリスはコクリと頷く。
「よくやったな。それでは、種明かしといこう」
そう言い放つと、私は先頭立って玄関へと戻って行った。
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