ポセイドンの槍〜その9
職員棟から外に出ると、言いようの無い疲労感に襲われた。
「結局、これといった成果は無かったわね。柏木さんと同じ目にあっただけ……」
クイーンが、重々しい口調で嘆く。
「いや、そうでもないぞ。上地典一という人物像を把握できたのは大きい。あと、レイニーマウスの現物を見れた事もな」
「何か分かったの!?」
私の発言に、クイーンが食いつくように声を上げる。
ドイルとクリスも、期待のこもった眼差しを向けてきた。
「いや、全く何も」
そのひと言で、皆が一斉に
クイーンはキッと私を睨み付け、ドイルは上を向いて口笛を吹き、クリスはうつむいて目を閉じてしまった。
「……ところで、あの庶務のオバさんも、ツレなの?」
場の雰囲気を変えるように、クイーンがドイルに尋ねる。
「あ、うん。牧尾さんて言うんだ。ああ見えて、【リアル謎解きゲーム】の常連で、あちこちのイベントに参加してるよ。僕が知り合ったのも、去年のイベントで、同じK大だと分かってメール交換したんだ」
そう言って、ドイルは片目を
「柏木さんが上地に会いに来た時の情報も、彼女が教えてくれたのか?」
「うん。そうだよ」
私の質問に、自慢げな顔で答えるドイル。
頷く私の脳裏に、牧尾という女性の先ほどの様子が蘇る。
チラチラと
自分の思い過ごしだろうか……
「【朝比奈恵をあんな姿に変えた人物】なんて、本当にいるのかな?僕にはやっぱり、上地の虚言としか思えないんだけど……」
悔しげなドイルのボヤキで、私の瞑想が破られる。
「さあな……いずれにしろ、上地のあの様子では、あれ以上追及しても無駄だろう。今言えるのは、彼がその人物をひどく憎んでおり、なぜか手を出せずジレンマに陥っているという事だけだ」
私は今一度、震えながら「どうしようも無い」と繰り返していた上地の姿を思い返した。
一体誰が、彼にあれほどの脅迫観念を植え付けたのだろう?
「また仮に、彼がポセイドンだったとしても、それを証明するものは何も無い。否定されれば、それで終わりだからな」
私の言葉に、全員の表情が曇る。
上地が何かを隠しているのは、もはや疑いようの無い事実だ。
しかし如何せん、これといった策を思いつかない。
皆、その事に苛立ちを覚えているのが、手に取るように分かった。
「とにかく、今できる事はここまでだ。もう一度、今後の方針を練り直すとしよう」
私はメンバーだけでなく、自分にも言い聞かせるように言った。
そして、その二日後──
事態は思わぬ展開を見せたのである。
************
「た、大変だぁ!ポー、大変だよ!」
興奮の
「どうしたの?そんな驚いた顔して」
怪訝な表情で尋ねるクイーン。
その横で、クリスもポカンと口を開けている。
「ぽ、『ポセイドンの槍』が……」
そこで言葉を切ると、ドイルは私の前のコーヒーを一気に飲み干した。
「『ポセイドンの槍』が……血に染まった!」
************
『ポセイドンの槍』が、血に染まる──
現場に駆けつけ、その意味がやっと理解できた。
槍の付け根から出ていた水が、今は止まっている。
そして、噴水に溜まった水は真っ赤だった。
だが、驚くのはそれだけでは無い。
上方に目をやると、槍にはまたもやレイニーマウスが張り付いていた。
両手足が紐で縛られた状態は、前回と同じだ。
そしてなぜか、頭の血のりは消えていた。
「……ポー、あれは!?」
その光景に魅入っていた私の横で、クイーンが言葉を詰まらせる。
彼女が指差す先にあったのは、ぬいぐるみに貼り付いたメモ書きだった。
そこには印字で、こう記されていた。
『異常心理学研究会のみなさんへ。汝らの欲せし物は果たして
「あ、あれって、どういう……?」
「……挑戦状だな」
不安そうな声で尋ねるドイルに、私は即答した。
「ポセイドンは、ターゲットを我々に変更したのかもしれない」
私は、ぬいぐるみと赤い噴水を交互に眺めながら言った。
風で揺らぐ深紅色の水面は、まるで『血の池地獄』を連想させる不気味さだ。
周囲で眺める野次馬も同じ思いらしく、どの顔も嫌悪感を
「ぼ、僕らが、ターゲットって……!?」
状況の飲み込めないドイルが何か言いかけるが、背後のどよめきで打ち消される。
やがて、人混みを掻き分けるようにして、二人の人物が現れた。
「……こ、これは!?」
目を見開き、絶句したのは上地典一だった。
ヨロヨロと噴水に近付くと、水面を穴の開くほど凝視する。
その後ろで、やはり驚いた顔をしているのは牧尾女史だ。
私は上地の傍らに立つと、小声で話しかけた。
「誰の仕業か、ご存知ですか?」
ビクっと肩を震わせ、上地は驚いた顔で振り向いた。
「えっ!?……ああ、君か」
声の主が私と分かり、動揺を隠し切れない上地。
両眼が、せわしなく揺れている。
「いや、分からない。一体、誰が……こんな……」
そう呟くと、上地はそのまま押し黙ってしまった。
「あのレイニーマウスといい、ポセイドンのメモ書きといい、この間と状況が似ています。違っているのは、ぬいぐるみに血のりが無い事と噴水が赤く染められた事、そして『異常心理学研究会へ』と我々を名指ししている点です」
軽く爪を噛みながら、私の話に耳を傾ける上地。
噴水を睨みつける目が、赤く充血している。
「恐らく今回の件は、我々が先日アナタの元を訪れた事と無関係では無いはずです。何か、心当たりはありませんか?」
誘導尋問よろしく、私は再び問いただした。
「い、いや、知らない!何でこんな事を……全く、訳が分からない……」
話しながら、上地の顔が次第に紅潮する。
単に驚いたと言うよりは、想定外の事態にどうすべきか迷っている様子だった。
ウソをついているようには見えない──
彼が、関わってはいないという事か──
私は、じっとその様子を観察しながら思慮を巡らせた。
「この刺激臭……フェノール臭みたいです。恐らく、水彩絵の具だと思います……」
水面に顔を近付けていたクリスが、ポツリと呟く。
「スゴいね、クリちゃん!機械だけじゃなく、そんな事まで詳しいんだ」
オーバージェスチャーで称賛するドイル。
しまったとばかりに顔を赤らめたクリスは、急いでクイーンの背後に隠れた。
「なるほど……誰かが、赤い絵の具を放り込んだのか!」
「いえ、それだけではありません」
怒りに声を震わす上地に、私は言葉を重ねた。
「メンテナンス時間でも無いのに、噴水も止まっています。恐らく、同じ人物が止めたのでしょう。動いたままだと水が循環し、赤い絵の具が排水されてしまいますので」
上地はハッとしたように私の顔を見た。
「噴水の操作ができるのは、どなたですか?」
「職員なら誰でもできる。非常時に備え、皆ひと通りの操作手順は学んでいるからな……だが、まさか……その中の誰かが?」
私の質問に、上地は信じられないといった顔で答える。
「でもそれだけでは、犯人の特定は難しいですね」
そう言って、私は軽く肩をすくめてみせた。
大学職員だけでも数十人はいるはずだ。
その一人一人のアリバイを調べるなど、ほぼ不可能に近い。
それにしても……
私は、もう一度赤い水面を見つめて黙考した。
犯人はなぜ、噴水を染めたりしたのだろう?
「……上地さん。この後、噴水をどうされます?」
「え?……勿論、水を抜いて掃除しないと!」
唐突な私の問いに、上地は何を今更と言わんばかりに声を上げる。
庶務の範疇とは言え、正規外の仕事が増える事にウンザリしている顔だ。
その話が耳に入ったとみえて、牧尾女史も残念そうに顔をしかめる。
「……だとすると、別の可能性も考慮する必要がある」
私は、あたりに目を配りながら言った。
その言葉に、上地は私を睨みつけ、牧尾女史は唖然とし、クイーンらメンバーは不思議そうに首を傾げた。
「例のポセイドンの隠し物を探している奴が、他にもいるのかもしれない」
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