ポセイドンの槍〜その8
校舎群の端にある職員棟は、二階建ての簡素な建物だった。
目指す庶務課は一階にある。
建物に入り廊下を進むと、『庶務課』と書かれた表札があった。
扉は開いている。
入室すると、年配の女性と若い男性の二人が仕事をしていた。
「何か、ご用ですか?」
私たちに気付いた若い男性が、席を立って近づいて来た。
痩身で色白の、なかなかのイケメンだ。
「あの、失礼ですが……上地典一さんでしょうか?」
唐突な私の問い掛けに、男性の頬がピクリと動く。
どうやら、図星らしい。
「……あなた達は?」
その男性──上地典一の声色が変わる。
「ここの学生で、【異常心理学研究会】の者です」
私が名乗ると、残る三人もそれに
「……それで、何の用だい?」
我々が年下だと分かると、上地の口調から敬語が消える。
「例の『ポセイドンの槍』に張り付いていたレイニーマウスについて話があります」
ぬいぐるみの名を口にした途端、上地の表情に影が走る。
この人物が、何かを知っているのは明白だった。
「レイニー……マウス!?」
「あのぬいぐるみの名前ですよ。水玉が可愛いと
「さあ……そういうのは
さり気無い問答に、苦笑いを浮かべる上地。
横のクイーンが、【お前も知らなかったろ】と言わんばかりに私を睨んだが無視する。
「誰があんな事をしたのか、知ってるのかい?」
取り繕うように、上地が尋ねる。
「いえ。それは、まだ分かりませんが……ただ、あのぬいぐるみの持ち主には、心当たりがあります」
私のそのひと言に、上地の顔色がサッと変わる。
「それは……誰だ?」
人にモノを尋ねるにしては、ドスの効いた声だった。
「お答えする前に、現物を再度確認したいのですが……もし違っていたら、持ち主の方に失礼ですので……見せて頂く事は可能でしょうか?」
私は、もっともらしい理屈を並べた。
上地は鋭い目で我々を検分していたが、やがてため息を一つついて言った。
「……分かった。こっちに来てくれ」
そのまま
チラ見する年配女性の前を通る際、ドイルがニッコリ笑って会釈する。
どうやら、彼の膨大なメル友の一人らしい。
奥の扉を開けると、小さな書庫になっていた。
整然と並ぶ書類ケースの棚の端に、形崩れしたダンボール箱が置かれている。
中を覗くと、例のレイニーマウスが収まっていた。
頭の血のりはそのままだが、メモ書きは剥がされている。
上地は
受け取った私は、手早くチェックする。
血のりと思われたモノは、やはりペンキだった。
嗅ぐと、シンナー独特の臭いが鼻をつく。
両手足を縛っていた紐は、切断された端材がまだ巻きついたままだった。
材質は、梱包などに使われる紙紐のようだ。
背中のファスナーを少し開けると、綿が詰まっていた。
見た限りは、ただのぬいぐるみのようだ。
「どうだい。同じモノかい?」
上地が、試すような口調で尋ねる。
「……同じモノのようです」
そう言って、私はぬいぐるみを上地の手に戻した。
「実は、これと同じモノを持っておられるのは、朝比奈恵さんという方です。文学科の二回生ですが、二ヶ月前から大学には来られていません」
私は、柏木千鶴の存在を悟られぬよう注意しながら話した。
他言しないと約束した以上、情報の出処はあくまで内密だ。
「朝比奈さんだね……そうか。分かった」
我々と朝比奈恵との関係を尋ねようともせず、上地はあっさり受け入れた。
「驚かないんですね」
「え……どうして?」
そのひと言に、険しい表情を浮かべる上地。
私が答えずに黙っていると、やがてため息混じりに首を振った。
「やはりそうか……知ってるんだろ?僕と恵が付き合ってた事……」
そう言って、探るような視線を向けてくる。
だが、私がまだ黙っているのを見て、ついに血相を変えた。
「君らは……何が狙いだ!?」
眉を吊り上げ、声を荒げる上地。
先ほどまでの柔和な印象が一変する。
「狙いなんてありませんよ」
私は肩をすくめて、ようやく口を開いた。
「私たちの研究会は、人の異常行動について調べています。たまたま先日、あの『ポセイドンの槍』の一件と遭遇し、これはいい研究テーマになると思いました。ぬいぐるみであんな事をする
淡々と語る私の話を、上地は憮然とした表情で聴いている。
無論、今話している内容はウソでは無い。
「我々には、ポセイドンと名乗る人物が、このマウスを使って何らかのゲームを仕掛けているように思えるのです。調べてみると、ぬいぐるみの持ち主が朝比奈恵さんである事、その恵さんが自宅に引きこもっている事、そしてその直前までアナタとお付き合いしていた事が分かりました」
私はこれまでの経緯を、もっともらしく説明した。
あくまで、情報は自分たちで集めたフリを装う。
「あのレイニーマウスが、朝比奈恵さんのモノだと、アナタは知ってたんじゃありませんか?」
「君は……何が言いたいんだ」
さり気なく提示する私の疑問に、上地は低く唸るような声で答えた。
細められた目が鋭く光る。
「僕が、このぬいぐるみを、あそこに張り付けたとでも言うのか?」
上地から険悪な雰囲気が漂い始める。
「アナタがやったのですか?」
「馬鹿な事を言うな!なんで、僕が……」
私の言葉が終わらぬ間に、完全否定する上地。
鬼のような形相だ。
「分かりました。では、もう一つ」
私は全く動じる事無く、さらに質問を続けた。
「朝比奈さんが家から出ようとしない原因は、アナタですか?」
周囲が驚くほど、ストレートな質問であった。
現時点では、『ポセイドンの槍』とは関係の無い話だ。
プライベートな事だけに、拒否されても仕方ない。
だが、その効果は
私の言葉に、上地の威圧的な態度が一瞬怯む。
「……いや、違う!彼女が、ああなったのは……アイツの仕業だ!」
激怒するかと思いきや、逆に狼狽し始める上地。
「上地さん。アナタはその者が誰かを知っているのですか?」
上地の突然の変貌ぶりを見て、私はさらに畳み掛ける事にした。
何か知っているなら、吐き出させるチャンスである。
「……ああ、知っている。知っているとも……」
上地は、両手で顔を覆い、上擦った声で答えた。
丸まった肩が、小刻みに震え出す。
「僕は……僕はアイツが憎い!」
「アイツとは、一体誰ですか!?」
私は、ここぞとばかりに追求の手を強める。
「そうだ、アイツだ……しかし……どうしようも無い……どうしようも……」
そこで言葉が途切れる。
しばしの沈黙の後、上地の肩の震えが収まる。
どうやら、隠し事を聴き出すのは失敗のようだ。
やがて、顔を覆っていた手がゆっくりと離れた。
そこに現れた上地の顔は、能面のように生気の無いものだった。
「これ以上、話す事は無い……帰ってくれ」
そう言い放つ上地の目は、全く我々を見てはいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます