ポセイドンの槍〜その4
「シャーデンフロイデ症候群?」
理解不能と言わんばかりに、ドイルが声を上げる。
「……黒い……快楽」
一瞬の静寂の中、クリスがポツリと呟く。
「その通りだ、クリス……これは人の不幸に快楽を覚える精神状態の事で、別名【黒い快楽】とも呼ばれている」
「それって……精神疾患の一種なの?」
私の説明に、困惑した表情で聞き返すクイーン。
「いや、人間なら誰しも持っている感情だ。具体例をあげるなら、そうだな……女性によくモテる知人がフラれた時、思わず喜んでしまう事があるだろ?心の奥底に潜む【妬み】の感情が、『ザマアミロ』という快感に取って代わるんだ……だよな?ドイル」
そう言って、私は何気なくドイルを
クイーンとクリスも、揃って振り向く。
「な、何!?なんで、皆僕を見るの?ぼ、僕はまだ、そんな経験ないし……無実だよー!セーフ、セーフ」
訳の分からぬ言い訳を並べ、必死に否定するドイル。
それを見たクイーンとクリスが、思わず吹き出す。
「他人の苦しむ様が、その者にとっては至高の快楽となる。ポセイドンの場合も、対象者への恨みが無かったとするなら、単にその人物の苦しむ様子が見たかっただけかもしれない。その抑えきれぬ欲求が、今回の異常行動に繋がったという事だ……もっとも、その人物をターゲットにした理由については、まだ謎だがな」
「ただ快感を得るためだけに……あんな事を?」
私の説明を聞きながら、クイーンが呆れたように呟く。
室内に、短い沈黙が流れた。
程度の差こそあれ、誰しも一度は、『黒い快楽』に身を
能力の低い者が高い者に、失敗した者が成功した者に対して抱く感情──できない者ができる者に向ける尊敬や羨望の念は、
このできる者が、何かの要因で失敗や挫折を味わった瞬間、ある者はそこに悪魔的な快感を得るのである。
大半の者は、それが表面化しないよう制御している。
欲望のまま行動すれば、人間関係など簡単に瓦解してしまうからだ。
これが、人の持つ【理性】と呼ばれるものである。
だが、この【シャーデンフロイデ症候群】が強くなると、快楽を求める欲望が理性を凌駕してしまう。
そして今回のように、自ら行動を起こす事で欲求を満たそうとするのである。
「……いずれにせよ、問題はこれからだ」
「え?それって、どう言う……」
ポツリと漏らした私の言葉に、クイーンが眉をひそめる。
ドイルとクリスも、ハッとした表情で私を見つめた。
「ポセイドンの意図が何であれ、メッセージはすでに発信されている……となれば、次は受け取った側に何らかの動きがあるはずだ。それも、近いうちに……」
私は誇張するでもなく、あっさりと言ってのけた。
「まさかと思うけど……噴水に張り込むなんて言わないよね……」
不安そうな顔のドイルをよそに、私は黙ってパソコンを打ち始めた。
************
深夜の森は不気味だ。
月明かりに映る木々のシルエットが、怪物の姿に見えてくる。
上部の枝は
「……まるで、ミノタウロスね」
ほとんど聞き取れない声で、クイーンが囁く。
ミノタウロスとは、ポセイドンの怒りを買い、姿を変えられた牛頭の怪物である。
「『ポセイドンの槍』を取り囲んでるみたい」
「や、やめてよ。こんな時に……」
蚊の鳴くような声で抗議するドイル。
彼は、自他共に認める生来の【怖がり屋】だった。
私は、夜光型の腕時計に目を落とした。
午前一時五十分──
あと少しで、噴水が停止するはずだ。
「クリス、準備してくれ」
私の指示に少女はコクリと頷くと、足元のバッグから何かを取り出した。
それは、様々な部品を付属したビデオカメラだった。
「……それって?」
「暗視カメラです」
「い、いやにデカいね」
ドイルが目を丸くして言った。
「暗視補正機能をバージョンアップしてあります。カンマ三ルクス以下の光源でも、日中並みの解像度が維持できます」
いつになく、少女の口調は滑らかだった。
自分の得意分野の話になると、途端に饒舌になるのだ。
「へえー……凄いねー」
「それと、マイクの集音性能もアップしてあります。直線方向の雑音を、ほぼ九十八パーセントカットし、クリアな音声を拾えます」
電子機器に関するこの少女の知識と技能レベルは、群を抜いて高かった。
一体いつ、どのようにして、それ程のスキルを身に付けたのか……
本人が話したがらないので、今もって謎である。
だが彼女のこの特技が、これまでも大いに役立ってきたのは事実だ。
「あと、この暗視スコープにも改造を加え、画質を落とす事無く、二十倍以上のズーム機能を実現……」
「わ、分かった!もう、十分理解したから!」
ドイルが、あたふたと遮る。
今更ながら、何気なく話をふった事を後悔した。
「しっ!静かに」
私の制止に、ドイルとクリスが慌てて口を塞ぐ。
私は、見つからないように木陰から顔を出した。
他のメンバーも、私が見つめる先に視線を合わせた。
噴水は、すでに止まっている。
そしてそこに、水面を覗き込む一つの影があった。
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