森の王(1)

 日が登ると共に自分の爪の一部を剥ぐ。十五日目、僕はやはり、あの山の建物へと向かう事にした。そう決めたら手当たり次第に虫を集め、そして沼に向かい水を飲めるだけ飲んで、濾過装置として使っていた靴下を濡らして準備を整えた。木の洞の奥から、”もしも”の時の為に作った木の棒を取り出す。作ると言ってもただ、木の枝を先が鋭くなるように折っただけで、片手で持てるだけのただの拙い手製の槍でしかない。それでもまだマシだろうと、持っていくことにした。


 片手に粗末な木の棒、片手に濡れた靴下、ポケットには虫の死骸。これが今の僕に出来る最高の装備だと考えるとあまりに弱々しすぎて悲しくなってくる。


 「小学生の遠足の方がマシだろうな......」


 自嘲して、木の洞を見つめる。短い期間だったが、僕にとってはここが聖域だった。愛着が湧いていた。思わず、頭を下げた。


 (ありがとう......)


 十秒もない感謝の時間。そして僕は背を向け歩き始めた。死にたくない、その気持ちだけで僕は、あの化け物と対峙しなければならない。ここで栄養失調か感染症や体調不良で死ぬか、触手頭に襲われて死ぬか。


 (強いかどうかは分からないけど、大きいってだけで......というか明らかに人間より強いでしょあの見た目!)


 とにかく、近寄って様子を窺おう。動きが遅い可能性もある、それなら追い抜いてしまえば後は走って逃げられるはずだ。昔、ネットで『人間はその走行距離でどんな生物も仕留めてきた』という書き込みを見た事がある。それなら、振り切れればまだ目はある。そう、信じよう。


 歩き始めて少し経つと、恐らく僕と山を繋ぐ直線上――その間のどこからか、雄叫びが聞こえ始めた。槍を握る力が強くなる、僕はそこから斜めに歩き始めた。とにかく、山際にさえ着けばいい、遭わなくて済むなら当たり前だがその方がいい、建物から少し外れるが、別に構わない。


 そして歩を進める。するとどうだろうか、雄叫びもまた、僕の向かう側へと移動しているのだ!


 「おいおい、マジか」


 思わず口をついて出た。何故僕の居場所がバレる? まだ目視できる距離じゃない。風向きも――


 草をむしり、空へ投げる。


 「――風下だ。じゃあ何で?」


 分からない。理屈じゃないってことか? 異世界で僕の常識は通じないとは思っていたが、理由が分からない。


 推測する。


 (ピット器官? 僕の熱を見分けてる? だとしたら目がないように見える生態も理解できるけど、遠すぎるし......って異世界だから常識は通じないんだって!!)


 推測する意義は薄いかもしれない。でも、考える事をやめたら生存率は下がる、何より不安の前では考える事自体が気を紛らわせ、救いになる。


 仕方なく、軌道を修正して神殿のようなモノの方へ足を向ける。もちろん、雄叫びもそちらへと移動した。


 「ウルオオオオオオオオオオオオオオオーーーーッ!!」


 近い、近くなるとまるで痰が絡んだような、水気と振動が混じった雄叫びであることが分かった。


 叫びが大気を震わせている。少し肌寒いはずなのにジットリと汗が出始めた。足先と指先が冷え、舌が乾く。


 (怖い......)


 何故か頭のなかで「帰りたい」と連呼する自分がいた。でも、向かうしかない。もう、だって――


 「――いるじゃん」


 背の高い木の、数本をその触手で絡め取って、まるで蜘蛛のように頭上高く鎮座し、僕を見下ろしていた。


 触手はテラテラと濡れそぼり光り、その先から粘液が垂れ、僕が歩もうとしていた数メートル先に落ちる。見ているのか、触手の花弁を思わせる顔の中央の暗い穴が僕の方を向いており、細く白い、体毛に覆われた黒い身体と違う、毛の生えていない気持ち悪い腕が僕を抱き締めようとするように差し出されていた。


 「――ッ!!」


 瞬間、僕は走り出した。弾かれるようにつんのめるように、足が動き出す。一瞬で化け物の下を走り抜けると、


 「ウルォッ――ウオウオオオオオオオオッ!!」


 不思議と巨体が地面に落ちてくる音が聞こえない。僕はそのままリードを広げて、距離を取ってしまえば良い、そう短絡的に考えていたが――


 「......っジかよクソッ!!」


 ――まるで猿のように、触手で木々に捕まり、跳び、悠々と僕に追い縋ってきた。頭上を見ながらでは遅くなる、僕は極力前だけを見て走り続けるが、影が僕を覆うように跳び、今にも追い越しそうだ。


 全力疾走だなんて中学生の体力テスト以来だ。だが、思っているより自分の足が速い。長い筋トレ生活で多少マシになったのか、だが、息切れを感じる。まだ走り出して一分も経っていないのに!


 当たり前だ、走る事なんてもう僕の人生であるなんて思っていなかった。必死に走るが、見る見るうちに速度が落ちていく。本来ならもうある程度距離を取っていて、ゆっくりマラソンのように走るだけでよかったはずなのにアイツの勢いは衰えない。


 チラッとアイツを見る。頭上、触手で器用に跳び、渡り、滑り、振り子のように移動し、そして――――ついに追い抜いた。


 「ウオッオオルォッオオオオオオーーッ!!」


 追い抜いても僕は足を止めなかった。まるで僕が追い掛けるような状態になったが、それでも走り続ける。もはや見上げる必要もない、少し目線を上げれば、先を行く姿が見えるからだ。


 (コッチ見てやがる......!)


 首だけこちらに向けている。しかし、


 (追い抜いたら降りてくると思ったら降りてこない、どうしてだ?)


 行動も思考も読めない。理由を考えるよりどうにか逃げ切る事を考える事の方が先決だ。


 (思い切って逆走してみるか?)


 いや、意味がないだろう。きっとまたあの木の洞にまで追い返されるだけだ。


 (聖域に戻るのか......?)


 途端、足が重くなるような気がした。楽になりたい、もうあの暗い穴に戻って休んでしまいたい、何も考えず寝てしまいたい。


 力が抜けていく、速度がさらに落ちる――が。


 「......にたくない」


 言葉が漏れる。


 「......死にたくないッ!!」


 息苦しさの中、涙と鼻水が溢れ出る。握った拳に力が篭り、萎えた気力が漲ってくる。もう、頭の片隅にも、あの暗い場所への帰心は無い。思考がドンドン削ぎ落とされ、その捨てた思考に比例して速度が増していく。




 何故、も、どうして、も、帰りたい、も、何ももう、ない。


 生きるんだ。生きるんだ。生きていたいんだ。いきたい。いきたいんだ、いきたい、いきる。いきる。




 遮二無二走った時間は一瞬だったが何時間だったか、気付くと僕は化け物に追い付いていた。いや、追い抜こうとしていた。


 ビチャビチャに濡れた顔面が風に当たり、冷たく感じる。足も呼吸器ももう限界で、膝を折りたい気持ちで破裂しそうだが――


 (もうアイツも限界そうだ)


 「ウオッウオオッ......ゲオッ、ゴオオオオ!!」


 ふらつきながら見上げると触手に白いモノが混じりつつあるアイツがいる。息が白く上がっており、最初より動きに無駄が多く、触手が木を掴めない時が見受けられた。


 「ゴッゴッウエッ......ウルァオオオオオオオオーーーーッ!!」




 急に――来る、と感じた。




 何故か分からないが、分かった。そう思ったときには――


 


 「あ」




 ――化け物が、飛び降りてきた。




 死ぬ。轢死体。潰れた蛙。飛び散る内臓。速報。激痛。血のイメージ。虫。目を合わせない弁護士。預金通帳。


 ありとあらゆる”死”で連想されたイメージが頭の中を駆け巡る。これを走馬灯と言うのか、それとも無駄に脳が最後に力を振り絞り、何かしらの解決策を探しているのか。僕はただ、その連想ゲームに身を委ねながら「もう走らなくて済むのか」なんて呑気な事を考えており、それと同時に、心の底が急速冷凍されていくような、奇妙な浮遊感を覚えていた。


 


 (何だ、これで死ぬのか。何か何もしなかったな。何かしたかったのかなこの僕の人生で。でも何をすればよかったんだろう。何もしたい事なんて無かったな。楽しい事はすこしあったけど、暇潰しでしかなかったな。これで僕死んだら......ってもう死んでるのか。あっちの世界で誰か僕に気づくかな。というか、誰か僕が死んだ事で、何かあるのかな? ないな、きっと。じゃあ僕って......何の為に生まれてきたんだろうな。分かんないな。生まれなくて良かったんじゃないかな)


 思考が走り抜け、脳が空白に支配される。静寂、そして。


 




 ――――お前は家族いないもんな。






 唐突に吹き出る記憶。あのにやけた顔、こちらを振り返るクラスメイト、フラッシュバックと共に頭上から落ちてくる化け物がやけにスローに見えた。そして僕は両手で槍を握り――――




 「うわあああああああああああああああッ!!」




 化け物の落下地点で構え――――――槍を突き立てた。僕目掛けて手と触手を伸ばす化け物が眼前に迫り、地面を支点に構えた槍をしゃがみながら両手で強く支える。


 そして――接触、激突、一瞬の湿った感覚、そして――


 「ウオオオオオオオオオオオオオオオオオオオーーーッ!!」


 最初に身体を走ったのは衝撃。視界を真っ赤に染めたのは血か怒りか。僕は地に追突した化け物の身体に弾き飛ばされ、地面を転がり、そして木に強かにぶつかって止まった。


 「~~~~っ!!」


 頭を強く打ちつけ、悶絶する。歪む視界の先に、暴れ狂う化け物が見える。


 (赤ッ、痛い、何――)


 全身にも走る激痛。見えるものが全て真っ赤で、立ち上がろうとしても地面を支えようとする足も手も、自分の物では無いように言うことを聞かない。


 「ぁ......うグッ」


 立ち上がらないといけない。だって、


 (――アイツはもう向かってくる!!)


 僕の方を向き四つん這いで、今にも走り出しそうに力を溜めているように見える。頭を下げ、まるでクラウチングスタートのように構え、頭の触手は怒張し、全部が僕の方へ向けられてる。


 「ルアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!!」


 触手から白い粘液が溢れ流れ、湯気と共に地面に落ちる。生臭い臭いがこちらまで漂ってくるようだ。怒り、のようなモノまで伝わってくる。それはそうだ、ヤツの右肩辺りに――僕の槍が刺さっていた。


 「はは......」


 浅い刺突だが、出血している。筋肉が躍動すると、あっさりと槍は抜け、落ちた。虚しく地面に転がる木の棒は、化け物の青白い手でへし折られ、ただのゴミになった。


 「ちょっと待ってて......」


 誰に言うでもなく、言葉が出る。待っててくれ、しないでくれやめてくれ、ではない。ただ、待っていて欲しい。


 (立つから、ちゃんと立つから)


 何でだろう、僕は目の前の化け物に恐怖感や嫌悪感よりも奇妙な友情と言うか、共感覚のようなモノを感じていた。ヤツは僕を追ってきた、僕はヤツに槍を突き立てた。僕はヤツに応えなければいけない。


 「刺、すだけ刺して......逃げ、るのはズルいよな............」


 木を背凭れにして歯を食い縛って立ち上がる。地面にポタポタと血の滴が落ちていき、その時になって気付いた。身体の震えは止まっており、額からドクドクと血が噴き出て、その血流の音がやけに耳に響いている事に。


 来るな、と思った。膝に手を当て、どうにか身体を起こす。来るな、と思った。顔を拭う、視界がクリアになる。ついに――――来た、と思った。


 「――ルゥアアア!!」


 弾丸のように弾け飛んだ。アイツが触手も両手も僕の方に突き出し、宙を飛ぶ。


 何か出来る訳ではない、が。一応拳を構えた。虚勢でしかない、それでも構えずにはいられない。


 「異世界......どんと来い、だ」


 何故か涙と笑みが出た。こんな時に昔観たテレビ番組の台詞を思い出すなんて、我ながら締まらない終わりだと自嘲する。


 目前、化け物が伸ばす手に交差するように拳を突き出した。生まれて初めての”何かを殴るため”のパンチ。


 しかしその拳は――




 「――――破ァ!!」




 ――化け物に届かず空を切った。


 見知らぬ誰かの声。一瞬何かが閃いたと思うと、化け物はまるで静止画のようにピタリと動きを止めていた。僕は何が起きたのか分からず、数度瞬きをする。すると、まるで”空間ごと”切り取られたかのように触手頭は右肩辺りか左腰まで一本の線が通っていき、そして――斜めに上半身が滑り落ちていった。


 数瞬の後、思い出したかのように触手頭の身体から血が吹き出した。その血の噴水の向こう側、人が立っていた事に気付く。


 血に遮られ姿がよく見えないが、耳にはハッキリとこう聞こえた。




 「――よォ、次は俺と戦ってくれよ」

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