見知らぬ世界(1)

 「――ハァッ!? ハァッハァハァ......」


 僕は首を押さえて飛び起きた。まだ首にめり込んだバーベルの感触が残っており、激痛で目がチカチカと白飛びするほどであり――


 「――オエエエエエエッ!!」


 同時に強い吐き気にやられ、胃の内容物を全て吐き出してしまう。まるで噴水のように吹き出る吐瀉物が落ち着く頃、首に感じた激痛も落ち着き、僕はやっと周囲の光景が目に入ってくるようになった。


 四つん這いのまま、目の前には自分の吐いたゲロと草と地面。すえた臭いに混じる濃密な青臭さ。明らかに僕の家のフローリングではない。顔に掛かる髪の隙間から、鬱蒼とした木々が見える。はたと気付く異常事態の前に、四つん這いのまま、身体が震える。


 「......っ」


 人が不意に危機的状況に追い込まれると身動きが取れなくなるというのを、僕は身を以て知った。顔を動かすことすら出来ない。ただ、目だけはギョロギョロと慌ただしく動き、僅かでも周囲の情報を手に入れようとする。


 変わらない暗い森。


 ドロドロと地面に水分を吸われていく吐瀉物。


 何処からともなく聴こえる鳥や虫の鳴き声。


 少しずつ整っていく自身の呼吸。


 身体を動かなければと頭で分かっていても、不可解な現象・状態に身体が動く事を拒否してくる。とにかく僕は――


 (――――怖い)


 さっきまで僕は自分の家で筋トレをしていた。事故に遭った。死んだと思った。とにもかくも、知らない場所は怖い。


 そうしていると......ふと、柔らかい匂いがした。どこか甘い、焼きたてのパンのような匂い。匂いの元を辿ると、


 「フフ......ッ」


 目の前を――”妖精としか言えないモノ”が通り過ぎていった。


 光の粒子が目の前を通り過ぎて行き、それを追うように僕は首を上げる。その瞬間、僕は悟った。


 「絶対異世界じゃん......」


 虫のように群れになって飛んでいく妖精たち。光の粒子が渦巻き、それが空に幾何学模様の魔方陣を産み出し、昼間なのに星のように瞬いている。遠くではドラゴンが空を征き、木々の隙間から見える遠くの山々は雪化粧をしているがこれまでテレビでもネットでも見たことのないメチャクチャな――王冠の形や掌の――形をしており、山の一つは城のようなモノまで山の半分を占めるようにして建っており、そんな建造物を僕はこれまで見た事もないし聞いた事もなかった。


 僕は――異世界に来てしまった。






 


 僕にあるのは着たままのスウェットと、トレーニングシューズとグローブ。ポケットには何も入っておらず、この世界の知識も無い。何よりも――


 「怖い」


 ここは何処だ?


 食べるものは?


 ここは安全なのか?


 人が水を飲まずに活動できるのは三日?


 立ち上がった僕の頭の中にとりとめの無い思考が溢れ返る。頬を撫でる風が少し涼しく、これから来るであろう日暮れを告げていた。


 「ここは......何度まで下がる?」


 思考だけが回り続ける。常識外の異世界、だったらこのまま夜を迎えても安全なのか? 生きていられる保証はあるのか? 遠くの山々があれだけ雪が積もっているのに、ここは夜、人間が生きていられる温度で過ごせるのか? そもそも――僕は”何か”に襲われずに済むのか。もしかして――僕に残された時間は少ないんじゃないか?


 「とにかくっ、とにかくどうする? どうする? 人は......人に会って――」


 ――人に会って、助けてもらえるのか? 言葉は通じるのか? そもそも”人”はいるのか? もしかしたら、もしかしたら......。


 (不審者だと思われて殺される? 文明のレベルはどれくらいだ? ダメだ、思考がまとまらない......!)


 あぁ僕はパニックなのだな、と何処かで冷めた自分がいた。自覚できるほど狼狽えている。ふと頭に自宅のベッドが過った。不安の対極――何よりも安全な聖域。それはもう失われ、意味の無い感傷と時間の浪費を押し付けてきた。


 (とにかく周囲を見渡して、向かう方向と身を隠せる場所と......水、生水は濾過? 直腸から摂れば良いんだっけ? 煮沸?)


 見渡す限り暗い森。自分が横になっていたのは運良く開けた空間であって、どちらを向いても同じにしか見えない。強いて言えば遠くに見える山側に歩くか、それに背を向けて歩くか、平行に歩くかの三択だ。


 (山の麓には村がある......ようなイメージがあるけど、イメージだし、そもそも人類がいるかって話)


 どちらにせよ水がいる。山は雨が降れば地下に水が溜まり、それが川になる......と読んだことがある。なら可能性を感じる山側へ向かおう。寄る辺無い不確かな知恵だが、今はそれに従うしかない。ただ、歩こう。


 僕はそうして木々の隙間へと歩を進めた。








 少し歩いて分かったが、日本にある雑木林とも山際とも違う、木々が隙間を作っている......強いて言えば亜寒帯の植生に似たモノだった。歩きやすくはあるが、ずっと風景が変わらない。勾配はほぼなく、背の高い木がまるで等間隔に生えているような、その隙間から時々山が見えるが全く近づいているように見えない。


 「はぁ......」


 身体が僅かに汗ばんでいる。しかし、気温の低下を嫌な予感と共に感じる。日も、僅かながら暮れつつあるのを感じる。ただ、空を覆う謎の煌めきと魔方陣のせいで暗さを感じず、今の時間を直感的に感じ取れない。


 (小便したい......)


 この時点で僕はある決断に迫られていた。そう、『この小便を飲むべきか否か』だった。


 「飲むのか? 飲むのか? 飲むべきだ」


 ネットで何度もこういった時に冒険家が自身の排泄物を摂取しているのを見た。飲むとしたら何に入れて飲む?


 「......靴か?」


 僅かに考える。


 「靴か~~......」


 幾度もトレーニングしているから分かる。この靴は室内でしか履かないからと一度も洗ったことがない。故に汗をたっぷりと吸い込んでいる事をよーく知っている。ただ、外履用でない事が幸いだ。いや――もう異世界の土は踏んでいるが。


 (......って言うか、異世界の土に触れてるこの靴で飲んで大丈夫かっていうそもそもの疑問があるが? 風土病とかあるんじゃないのかな? )


 やるしかない。意を決して靴を脱ぐ。だが、その瞬間――


 「――グオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!!」


 地を震わせる咆哮。反射的に身を縮こませると、木々の向こう――霞むほどの距離ではあるが、巨大な何かが見えた。


 何か、としか言いようがない。大きさにして4m、遠目には巨大な熊のようにも見える。だが、本来顔のある部分に無数の触手が生えており、人の腕の太さもあるソレが、地面近くまで垂れ下がっている。その触手を揺らしながら、巨体には似合わない細く長い腕で枝を掻き分けるようにして歩いていた。その”何か”が、僕の方を向いて、動きを止めた。触手の束の向こうに、暗い穴が見えた。


 「――っ!?」


 一瞬、目が合った――ような気がした。全身に悪寒が走る。咄嗟にソレから隠れるようにして木陰に隠れる。


 恐る恐る顔を出して様子を窺うと、巨体を揺らしつつこちらの方に近寄ってきているように......見えた。


 本能的な恐怖、だろうか。僕の身体は考えるより先に動き出した。


 とにかく遠くへ。”あんなモノ”からとにかく遠くへ!


 足は勝手に走り出す。転げるように前へ前へ。走って走って、振り返り、その姿が見えなくなっても足が止まらない。


 (逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ逃げなきゃ......)


 ――


 ――――


 ――――――


 気付くと空は暗くなり、僕は複数の木々が絡まって出来た洞に身を潜めていた。ここしか身を寄せる場所が無かったのと、何より僕は疲れ切っていた。


 「..................」


 考える力が湧かない。”理性によってのみ我は人間となる”とは誰の言葉だったか。考える事を放棄する事は、生存率が下がるとサバイバル番組で見た事がある。だが、今は考える気力が無い。ただ、自分の膝を抱えてジッとしている事しかできない。


 尿意は知らず知らずのうち消えていた。木の洞から見える月が、玉虫色に光輝いている。その事がこれが夢ではなく、異世界に来てしまった事も先程見かけた化け物も現実だと嫌でも突きつけてくる。


 「......りたい」


 ついて出た言葉。一度吐き出してしまうと堰を切ったように。


 「帰りたい」


 「帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい帰りたい」


 安全な家が恋しい。暖かく暗いあの部屋が恋しい。布団の中でスマホをいじって好きな時に眠る事ができるあの空間が恋しい。


 足元を、見た事もない虫が歩いている。カミキリムシに似ていたが首が長く足が十対ついていた。足で追い出す。もう、何も見たくなかった。人工的な明るさの無い自然は、暗く寒く、何よりも寂しかった。








 ――2週間経ったはずだ。ポケットに入った爪の欠片がこれで14個になった。僕は木にしがみついていた虫を手に取ると頭をもいで中身を啜り出した。美味しくはない、ただ毒がない事は以前解体して肌に擦り付けて確認した。美味しくはないが食べられる。


 そのまま歩き出し、以前見つけた沼まで行く。小さい、水溜まりと言われても差し支えないほど小さい沼だ。そこで水を掬い、靴下に流し込む。砂利や小石、砂を詰めた靴下から水を絞り出し、口に当てて......飲み干した。最初の三日、下痢になったがもう身体が慣れたらしい。


 沼の近くは虫が多いのですぐに自分の家に戻る――木の洞だ。ソコに戻ると靴下からゴミを取り出し引っくり返すとそれを引っかけると座りじっとする。


 「............」


 もう既に僕を纏っていた何か目に見えない”膜”は消えていた。ただ、生きる。生きたい以上の感情が無くなり、それ以外の行動が取れなくなった。


 最初のうちは夜になると周囲を確認し人の灯りを探した。しかし全くと言っていいほどそれらしいモノは見えず、正しくは、人どころか生き物も俗に言う動物らしいモノも見えなかった。ただ目につくのは虫と、時折歩き回る触手頭ぐらいで、それ以外何も見つけられなかった。


 (......疲れた)


 最初こそ歩き回り、解決の糸口を探していた。しかし何故か歩き回るとあの触手頭が現れ、僕を探し始める。そうなると怖くなり立ちすくみ、またこの木の洞に戻ってきてしまうのだった。また、それに――


 「――ここは落ち着く」


 ここは落ち着くんだ。暗くてまだ外より暖かく、脅かされる事もない。僕は、異世界に来てもまた、引き篭ってしまっていた。


 (良くない事は......分かってるんだ)


 日に日に身体が弱っているのも分かる。歯茎から血が出て、明らかに身体がおかしくなりつつある。虫を食べる直前、いつも家で自炊していた事を思い出し、その時に何気なく食べていた卵焼きや味噌汁が無性に恋しくなり、そして......惨めな気持ちに支配されていた。


 「異世界に来て、虫を食べて、何も変わらないじゃん......」


 膝を抱えて、強く拳を握り締める。


 (......あぁ、軽くは期待したさ。異世界に来たって分かった時に期待したよ! チートスキルとか美少女とか、都合良く助けてくれる現地人とか、そういう事を!)


 だが、現実は何処まで行っても、異世界だとしても現実は残酷だ。何も都合の良い事など無い。ただ僕は、”異世界転生”などではなく、”異世界漂流”と言ってもいいだろう。


 「......ごめんなさい」


 自然と言葉が漏れた。何に対してか。きっとそれは、これまで気力無く生きた事や、自ずと何もかも”無気力”に過ごしていた事や、そういった説明しがたい”生きる事”に対してだったと思う。


 僕はありとあらゆる事から逃げて生きてきた。『苦労なんてしなくて済むならしなくていい』なんていう甘言があるが、僕は今になって、自分の生きてきた世界が薄い偽物だったと痛感した。だって――


 「――どうすればいいか分からない」


 伸びた前髪が涙に濡れ、顔に張り付き不快だ。髪と一緒に顔を拭い、落ちていた枝を拾う。


 「......現状をまとめよう」


 僕は枝で地面に簡易的な地図を描く。今自分がいる場所、沼、遠くに見える山と建物、おおよそ自分が歩いた場所を円で囲み、そして触手頭が現れた場所に☆を描く。


 「目測で山まで歩くとしたら二日くらい......? でも山以外目印になるものはない。沼も水源らしいモノもない。僕は......」


 あと、どれくらい生きられるんだろう。


 グッと言葉を堪えて、考えを纏める。


 「水を貯めて持ち歩けない。靴下を湿らせて持ち歩く? 少しだけそうすれば絞って飲めるかも。食べ物は一応虫を捕まえてポケットに入れておけば大丈夫。目標はあの山以外今は無いように思えるんだけど......」


 文明らしきモノはあの神殿しかない。ただ問題はあそこまで歩く間、水分が持つかどうか。そして、山に辿り着いて登山しなきゃいけない問題だ。あの――雪が積もった山を。


 一応、服の下にかき集めた葉を詰め込み、僅かでも暖を取ろうとしているが、あの山を登るのは無理な気しかしない。


 「どうにか山際まで行ってそこで拠点を探して、水源を探して――」


 (――そうしている間、僕の身体は持つだろうか?)


 虫しか食べていない身体。沼の濁った水で映る顔が痩せてきているのが見て取れた。無駄な時間を過ごしたと言えるのだろうか?


 「いや、今はまだ生きてる! 情報も集まった。不用意に動いていたら死んでいたかもしれない」


 そうだ、情報は集まった。一日は僕のいた世界と同じほどの時間で流れているし、夜と昼の時間も温度も、常識外で動く事はない。差し迫った危険はあの触手顔だけ。それもこの二週間でアイツに遭遇したのは五回。最初の一回以外はこの木の洞から離れる時だけだ。いつも決まって、僕を回り込むように、この木の洞を中心にして外側からしか現れない。アイツの縄張りがこの外側なのか、それか......。


 「......近寄れない理由がある?」


 はた、と気付いた。ある可能性。”もしアイツが此処に近寄れない理由があるのならば?”という可能性。


 近寄れないのか、それとも――ここから何処にも行かせたくないのか。考えてもみれば、アイツは遠くから雄叫びを上げるだけで近づいてくる事はない。つまり、


 (上手く追い抜いて逃げる方法がある?)


 何故気付かなかったのか。僕の身体はやはり、栄養が足らず意識が鈍麻しているのか。生きる事への意識がまだ足りないのか。


 「僕は――」


 ――何故あんな無駄な日々を。


 気分が、外の日暮れと共に落ち込んでいく。この世界に来て十五回目の日暮れだ。明日の朝、出発するか決定する事にし、僕はまた石のように暗く狭い聖域で考える事をやめて朝を迎える事にした。


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