1話:白紙の世界
誰かの首を絞めるのは人生で初めてだった。
それも、絞め技による無力化などという比較的平和な状況ではない。目の前の命を終わらせたいが為に、首を絞めていた。
「"守護神が居なくなった事により歪み始めた世界"。そんなもの、神界はまず放っておかないわ。守護神代理なんてモノを寄越すはず」
血走った目にはもう周りの物は映らない。
すぐにでも骨を折って命を奪えそうな細い首、苦しそうな表情。
『この行動が後にどのような問題を起こし得るのか』。そんな事を考える余裕など、とうに消え失せていた。
「……ふふ、そしたら歪みの修正のついでに"神力を持ったニンゲン"の排除も試みるでしょうねぇ」
目の前に居るのは地獄のような日常を作り上げた元凶だ。理性的になれる筈など無かった。
「でも、貴女は私の最高傑作だから大丈夫。たっくさん神を殺しなさい?」
こんな面倒臭い状態の私を前にしても、"そいつ"は不敵に微笑みながら私の頬に手を当てた。
「私は…… もうお前の思い通りに動くつもりは無い」
対する私はありきたりな悪態を吐く事しか出来なかった。結局、思い通りに動かざるを得ないのに。
今存在する私の命、この鼓動が全てを証明している。
「そうやって認めず、認めず。全てを否定し拒絶した結果今の貴女が居る。そういった所も含めて、貴方は最高の"リジェクター"なのよ」
「……違う」
「これまでの事も、今この瞬間に出た言葉も全てが"予想通り"だった。そしてきっと── これからも────」
「違う! 私は……っ そんな人間じゃない!!」
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7月31日
全てが終わった。諸悪の根源たるルーベンスというクズをこの手に打倒した。
剣だの光だの鍵だの、そんな非現実的な日々を繰り返し続けて約五か月、長くも短い時間を掛けて地獄へと変貌した日常はその瞬間にあっけなく終わった。あっけなさすぎて解放された実感が全く湧かなかった。
まるで『これからが本番だ』とでも言うように、私の日々は繋ぎ目を残さずに変化していった。
地獄から脱しても、その先に待っていたのは生き地獄だった。
8月5日
あれから頻繁に悪夢を見るようになった。長い戦いの果てに巡って来た最後の瞬間の夢だ。それを何度も見ている。
あの日の最後の一撃は魔法も武器も言葉も使わず、自らの手を使った。浄化でも討伐でもなければ和解なんてモノでもない、その感触は言うなれば"殺害"だった。
憎い相手だったから死んだ事に関しては『当然だ』としか思わない。しかし私の目に焼き付いている光景、耳に刻まれた言葉、それとこの手に残る感触も、その全てが私を苦しめていた。
結局の所、私はアイツの言う通りの人間なのかもしれない。これだけ憂鬱であっても死のうとは思えないのだから。
できる事なら記憶を失ってしまいたい。
8月8日
悪夢障害だと診断された。なんやかんやと言葉を選んでいるような説明を受け、三環系抗うつ薬を処方された。その時初めて私は精神疾患を抱えているという事を自覚した。
以前まではまさか私がそんな事になるとは夢にも思っていなかったのだが、私が思っているよりも酷い状態らしい。
夏休みが終わるまでに全部元通りにしたい。私はもう魔法少女ではなくただの学生だ。学生生活に支障が出て将来が危ぶまれるような事が起きたら、それこそ元に戻れなくなってしまうだろう。
科学的に見ると劇的な効果は無い薬だろうが、あるだけでも気持ち的には結構違う。できるだけ早く効果が現れてほしいものだ。
8月9日
この日も悪夢を見た。窓の外はまだ暗い。継続して眠れる時間がどんどん短くなってゆく。
服薬一回目にしてもう焦りが生まれて来ている。まだ焦る段階ではないと分かっているのに、ずっとこのままだったらどうしようという思考が脳に張り付いて消えない。
このままではいけない。
何か気休めになる物は無いかと調べてみると、イメージリハーサル療法という物が目に入った。
これはざっくり言うと悪夢をイメージの中で"良い物"に変換するトレーニングのような物だ。まさにスポーツ選手もよくやるイメージトレーニングと類似した物らしい。トラウマなどの外的ストレスによって生じる悪夢障害にも効果がある。らしい。
見たサイトによって微妙に記述の差異は有るが、結局私は『夢で見た内容を日記のように書き起こし、その内容をイメージの中でポジティブな内容に変える』という方法を取る事にした。
8月10日
この日も悪夢を見た。今までと全く同じ内容だ。
ルーベンスが私を見透かしたような事を言って、激昂した私がアイツの首を折って殺した。『苦しめ』と思う事すらも、相手が仲間の仇である事すらも忘れてただ『それ以上喋るな、私を見るな』と叫びながら手の力を強めた。それだけだった。
跳ねる呼吸、全身の痙攣、その後の硬直。それらを見て私は『殺したんだ』という実感を得た。
これをどう良夢に変えれば良いのだろう。出来る者が居るのなら会ってみたい。
私にとって彼女の死は間違いなく望んだ事だ。アイツが死んで終わりなら十分に良い終わり方だろう?
それなのに今私は内蔵全てを圧迫されるような感覚に苦しみ、脳が曇ったかのような眩暈を抱えている。
あんな奴が相手でも、殺して終わりでは駄目なのだろうか。
もっと前の段階からハッピーエンドのシナリオを書かなければならないのだろうか。途方もない。
好きだったピアノ音楽ですらも、その旋律が私を咎めているような気がして苦しくなった。
気休めが気休めにならない。
8月11日
同じ夢だった。ルーベンスを殺す夢だ。詳細を何度も書くのは意味が無いと思うので省略する。
夢を日記として書き残す事について調べていると、少し恐ろしいまとめ記事をみつけた。『"夢日記"を続けていると、やがて夢と現実の区別がつかなくなる』という話だ。
夢とは本来記憶の残滓、すぐに消去される筈の物らしい。それをわざわざ拾い集めて保存するのが夢日記という物だ。そんな事をしていると脳が混乱を起こして記憶が混濁してしまうそうだ。
悪夢障害の改善の為とは言っても、私はそんな変な状態にはなりたくない。何か手が無いかと考えた結果、現実で起きた事の日記も一緒に付けようと考えた。
夢と現実の区別が付かないというのが具体的にどういった気分なのかは分からないが、とりあえずコレで『夢だけ覚えていて現実の出来事を忘れてしまう』という事態は避けられるはずだ。
更に夢と現実を区別できるようにペンの色を変えるという一工夫も加えようと思う。夢の内容を描く時はピンクのペン、現実は青だ。
夢と現実を一緒に日記にしていたら記憶の混濁が起こりやすくなるのではないかと一瞬思ったが、物は試しだ。数日やってヤバそうなら直ぐに日記をやめてこのノートを処分すれば良い。
新品のペンの書き心地を試す為にも、覚えている範囲で過去の日記も書いておこうと思う。
それが終わったら今日はもう寝る事にする。
いい夢が見られますように。
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何がどう働いたのかは分からないが、いつもと異なる夢を見た。というより今まさに見ている。
全てが真っ白で地面も空も分からない世界。前方の遥か遠くには巨大な扉、そして目の前には見覚えのない少女。
一体この光景は何だろう。巨大な扉に関しては心当たりがあるが、真っ白な空間や目の前の少女に関しては私の記憶の何に起因しているビジョンなのか全く分からなかった。
ルーベンスの顔を見なくて済むのならそれだけで悪い夢ではなくなるのだが、果たしてここからどう展開してゆくのか。普段の夢に比べて意識がはっきりしている分、いつものあの夢に似た物を見た場合精神へのダメージも大きくなるだろう。
「あの、初めまして」
目の前の少女が緊張した面持ちで私に声をかけた。声も顔もこれといって覚えはない。一体誰なんだと思いつつも、私は同じ挨拶を返して小さく頭を下げた。
今気付いたが、身体が思うように動いた。今私が見ている物は明晰夢らしい。
長期に渡って夢日記を続けた際に見る事があると書いてあったが、私はまだ初日だ。遡って何日分かは書いたが。
悪夢障害の影響もあるのだろうか。どちらにしても安眠とは程遠いイメージがある。早く治してぐっすり眠りたい。
「私、
「……
名前を伝えると美愛は失礼にも私の顔を間近で眺め始めた。一体何なんだろう。
右目、左の頬、少し距離を取って正面。最後に少し下から。下からのアングルで顔を見るのは止めてほしかった。自分がされたらどんな気持ちになるか考えてほしい。
怪訝な表情で周りを動き回る彼女を目で追ってみても特に思い出す人物は居なかった。
綺麗な艶のある黒髪、ブラウンの瞳。雰囲気も実際の見た目も美少女であるがこれと言って目立った特徴は無い。もしかしたら私の記憶にある人間の顔を集約して作られた概念的な物なのかもしれないと思った。
つまるところ彼女は"人間という概念を暗示している何か"だと私は解釈した。
「んむ」
試しに頬をつねってみると美愛は変な声を漏らした。何を試そうと思ってこんな行動に出たのかは自分でも分からない。しかしこれに対する反応が特徴的であれば考察の材料に出来るかもしれない。
こういった下らない情報でも集めておけば悪夢障害の治療に役立てられる可能性だってある。
「い、痛い…… 何……? なぜ……?」
頬をつねった私の手を美愛が握る。絶妙に判断に困る普通の反応だ。
では色々と説明させてみるのはどうだろう。説明文とは情報の塊だ。そして夢の中における情報とは記憶から生まれた物。もし仮に私の記憶に残っている言葉を話すのであれば、それも彼女が私の記憶の何を象徴しているのかの特定に繋がる情報となる。
悪夢か良夢か、どちらにしても今夜の夢は悪夢障害を治す上で重要になるかもしれない。
「ここは何処?」
「ここは夢の世界です。眠っている時に見る方の夢。理想郷という意味ではありませんよ」
「そっか。 ……もっと他にも色々聞かせて欲しい。いいか?」
「ええ? 構いませんが……」
困惑した様子の美愛が頬に手を当てる。仮に彼女に自我があるのだとしたら、彼女の眼には私の方が変な人に映っている事だろう。
しかしいちいち構っている程の事ではない。ここは夢の中だ。他人の目もクソも無い、現実ですらないのだから。
「例えば…… そうだな、君が何者なのかとか、どうして私に話しかけたのかとか。とりあえずこの二つを聞きたい」
質問を続けると美愛は言いにくそうに胸元で指を合わせた。
「私、実はずっとここで明晰夢を見ていて…… 起きられなくなってしまったんです」
「へえ、大変だな」
「へえって、非現実的な事に対してその程度の反応で済むんですね」
「大げさに反応するのも変じゃないか?」
仮に彼女が実在する人物で"私と同じ状況"であったとしても、私自身が『魔法少女として守護神と共に戦っていた』という馬鹿げた記憶を背負っているのだ。そんな記憶の前では、ずっと明晰夢を見ていて起きられないという事は驚く程の事ではない。大変な事だとは思うが。
「……そうですかね」
「……」
再び美愛に触れる。先程はつねった頬を今度はつついてみた。少しぽっちゃりとした頬がぷにぷにと弾力を示すのが気持ち良い。勝手に頬をつつくという行為そのものは些か悪趣味かつ失礼だが、癖になりそうだ。
「もしかして私の事を夢の中の登場人物だって思ってます?」
美愛が納得いかない表情を浮かべながら私の両手首を掴む。
自我のある人間なら私のこの舐め腐った態度は癪に障るだろう。
「え…… ごめん、違った?」
「違いますよ! 私だって現実の人間です! 眠ってここへ来ているんですよ!」
「……」
やけに設定の凝っている人物だ。自らの夢でありながら、何かしらの物語に触れているような気分だ。
それならば彼女に対する接し方を改めてみようと思った。夢の中だからと言って非現実的な振る舞いをするよりも、ある程度現実の延長としてこの状況を真摯に捉えた方が色々と得られる物があるかもしれない。
「申し訳ない、失礼な振る舞いをしてしまった。許してほしい」
「い、いきなりそんな畏まられても…… そこまで気にしている訳では無いので大丈夫です。顔を上げて下さい」
「そうか。ありがとう」
素直に頭を上げると美愛は戸惑った様子で両手の指先を合わせた。
「遮るように色々と質問をしてしまったけど、君の要件は? 私に話しかけて来た理由ってなんかあるのか?」
「それは、その…… 貴女って明晰夢を見られている方、ですよね? きっと」
「うん、たぶんそう」
改めて身体を動かす。多少の浮遊感は有るが思い通りに動けている。その上ここが夢の中である事も自覚している。明晰夢で間違いないだろう。
「だったら一つだけ頼みたい事があるんです」
「うん、どんな事?」
「あの扉の向こうまで付いて来てほしいんです」
美愛が遠くにある巨大な扉を指差す。あれの向こう側については私も気になっていた。悪夢へ繋がっていそうな気しかしないが。
「いいよ。私も気になる」
ただ、今は悪夢への不安よりもチャンスなのではないかという期待が大きい。明晰夢を見ているという状況を利用して悪夢をリアルタイムで良夢へと修正する事が出来る可能性があるかもしれない。いつも見ているルーベンスを殺す夢であれば、私の精神を大きく揺さぶる"あの言葉"を言われる前に首を折って始末するし、仲間が死んでしまう瞬間の夢であれば今の私の能力を以て助けられる。本来であればもう魔法少女としての力は使いたくはないが、夢の中なら大丈夫だろう。
「行ってみよっか、向こう側まで」
悪夢を壊す事で現実が変わるような事は決して無い、だが気分は少し晴れるかもしれない。
そう思うと自ら悪夢へ踏み込む事も怖くない気がした。美愛という巻き添えも居るから、いつもよりは怖くない。
「──! あ、ありがとうございます!」
希望の光が差したかのような笑顔を浮かべた美愛が私の手を取り、固く握手を結んだ。先程も思ったが結構握力が強い。私よりもいくらか年下に見えるのだが。
「美愛ちゃん、何歳?」
「10歳です。晃さんは?」
「16歳、高校二年生」
「えー?」
「なんだその反応」
ぽつりぽつりと雑談をしながら扉へ向かってゆく。空間そのものの景色に扉のサイズが相まって遠近感が全く掴めなかったが、それほど遠くはなくあっという間に到着した。
間近で見るとやはりとてつもない迫力だった。取っ手が遥か頭上にある。
「今思ったんですけど、これってどうやって開ければ良いんでしょう。こう大きいと取っ手に手が届かないですよね」
「とりあえず押してみるか…… 引き戸だったらどうにもできないな」
「二人だけで開けられるでしょうか」
「やってみりゃ分かる」
扉に手をついて全体重をかける。その隣に立った美愛が恐る恐る扉に手を触れると、急に周囲が真っ暗になった。
「え、え!? 何!?」
驚愕の声を発した美愛が私の服の裾を掴む。
「……」
直ぐ近くに居る美愛の姿すらも見えない程の暗闇だ。何者かの気配は感じないが、夢である以上この後どんな事が起こってもおかしくはない。
変身の準備をしながら姿勢を低くしていると、これまた急に視界が開けた。
そこに広がっていたのは先程までとは全く異なる景色だった。
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